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606 替え玉


 澤ちゃんが部屋から出てきたのは、けっきょく1時間後ではなく2時間ほどしてからだった。


 俺たちは自分たちの部屋にいて、澤ちゃんが入ってきたときには何もしていなかった。なにかをする気にもなれなかったのだ。


「……はぁ」


 ため息である。


「シンク、ため息なんてつくと――」


「幸せが逃げるだろ。それ何回か聞いたよ」


 それでもついてしまうのだ、ため息を。


「朋輩、お酒でも飲みますか? わたくし、取ってきますわよ」


「いや、いいよ」


 あんまり俺が落ち込んだ顔をしていたからだろう。シャネルも心配そうに俺に言う。


「あんまり大変なら、アルコールで誤魔化すっていうのも1つの手よ」


「いや、べつにそこまでして飲みたいってわけでもないから……」


 ただ少しだけ、そういう気分だったが。


 けれどこんなときにしたたかに酔っ払ってしまえば、俺はたぶん一生誰にも許されることはない。本当の本当に最低の人間になってしまう。


 だから俺はシラフで澤ちゃんを待ったのだった。


 それが2時間。


 途方もなく長いと思える時間だった。


 その長い時間のはてに、やっと澤ちゃんは俺たちの部屋にやってきた。


「少々、お見苦しいところを見せてしまいました」


 澤ちゃんの目の下は、赤く腫れていた。


 俺はなにも言えなかった。シャネルがなにか言ってくれないかと、期待を込めて見つめる。シャネルはそれをすぐに察してくれた。


「愛する人を亡くすことは辛いことだわ」


 まさしく一般論だ。


「そうですね」と、澤ちゃんは同意する。「葬式は盛大にやりましょう」


 おや、と思った。


 澤ちゃんはまったく悲しそうじゃない。


 むしろもうどうでも良さそうにすら見える。たった2時間の間に、自分の心に決着をつけてきたのだろうか。


 いいや、違う。


 この人の心はどこか壊れてしまったのだ。たぶん本当は悲しくて悲しくてたまらないはずだ。なのに無理やり悲しくないふりをして。平然としているのだ。


「さて、榎本殿が死んだというのは問題ですね」


 澤ちゃんは努めて冷静にそう言う。


「そうね」と、シャネル。


「彼が死ねば、我々の総大将がいなくなったことになりますから」


「私たちはこれからまた別の場所に向かうのよね? そこで国を造る予定だった」


「そのとおりです。その際のリーダーとなるのが榎本武揚。そういう予定だったのですが。なにせあの男は家柄、実績、そして旧幕府での地位、また外国との外交関係など、なにをとっても国のリーダーにはふさわしいはずの男でしたからね」


「その人がいなくなったということは、国造りも諦めるの?」


「はい、私が考えていたのはそこです」


 本当だろうか。澤ちゃんが考えていたのはこれからどうするか、ではなくてタケちゃんのことではないのだろうか。


「いま現在、ここ仙台藩には2000人を超える旧幕臣が集まっており、それらの人々は蝦夷地への希望だけを胸に戦いを続けております」


「なるほどね」と、シャネル。ただのあいづちだ。


「ここで我々が諦めてしまえば、その2000人は路頭に迷うことになります」


「それは困るわね」


「そうです、そうなれば後世の歴史家に笑われるのは、私たちですよ」


 澤ちゃんの目が、怪しく輝いた。


 その目はよく破れかぶれの人間がする危険な目だった。あたかも有り金すべてを一世一代の大勝負に賭けるギャンブラーのように。


「でも実際問題、あの男の人がいないとなるとどうするの? 他にリーダーをたてる? 貴女がやるの?」


「私はそんな器ではありません。実績はあっても、家柄がない。こんな人間にはついてくる人は限られています」


「じゃあどうするつもり?」


「簡単ですよ、替え玉を作ります」


 嫌な予感がした。


 替え玉ってあれだよな、ラーメンをおかわりするとき注文する麺だけのやつ……なんて冗談を言う気にもなれないほど、強烈に嫌な予感がしたのだ。


「替え玉?」


「はい。聞きますが、ここに戻ってくるまでに誰かに榎本殿の死体を見られましたか?」


「いや……見られてないと思うけど」


 俺が答える。


「それは良かった。まあ、見られていたとしてもやることに違いはありませんが」


「まさかと思うがその替え玉っての――」


 俺にやらせようって言うんじゃないだろうな。


「もちろんそのまさかですよ。『榎本殿』は話が早い」


 ゾッとした。


 澤ちゃんはわざわざ呼び方を変えてきた。


「澤さん、冗談はよしてくれ」


「榎本殿、澤さんでは呼び方が違います。きちんと澤ちゃんとお呼びください」


 狂ってる、と思った。


 この女は俺にタケちゃんのかわりをやれと言っているのだ。


 普通はそんな発想はでない。まして愛する人が死んだ、その直後で。


 そこまでして国造りというのはしなければならないことなのだろうか? ある意味では死者を冒涜ぼうとくするような行為を犯してまで。


「無理だ」と、俺ははっきりと言う。


「なにが無理なものですか、榎本殿にならできますよ」


「あんたおかしいよ。どうしちゃったんだよ」


「おかしい? ああ、もしかしたらそうかもしれませんね。榎本殿が国を造ると言ってから、私はその目標のために生きてきた。あの人の夢が、私の夢になっていた」


「夢は醒める」これも一般論。


「醒ましたのは貴方でしょう、榎本シンク? 貴方が私の愛する人を殺したんだ!」


 そこまではっきり言われると、俺はなにも言い返せなかった。


 そして、断ることもできなかった。


「大丈夫ですよ、貴方は榎本殿の身代わりをすればいいだけです。あとはすべてこちらで上手くやりますよ」


 澤ちゃんはケラケラと笑っている。


 その表情は壊れた人間のそれだ。


 俺は若干引いた。けれど、こうも思った。


 大切な人が死んだのだ。俺のように冷静でいるよりも、これくらいおかしくなった方が普通だ。俺はなんて酷い人間なんだ。


 そう、冷静に。冷静に思うのだった。


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