599 嫌な予感も居酒屋へ
夜になって、タケちゃんが外に飲みに出かけようと誘ってきた。
「ここで良いじゃないか」
部屋の座椅子に座りながら、俺は言う。
この宿でだって酒くらいはある。肴だってたくさんある。
けれどタケちゃんはどうしても外が良いと言ってきかなかった。
「いい店を知ってるんだ。シンちゃんも気にいると思うんだよ」
「うーん」
俺が外に出たくなかったのはなにも面倒だったからではない。
ただ、言葉にはしづらい感覚があったのだ。つまり嫌な予感がして、どうにも外に飲みに出かけるような気分にはなれなかった。
「明日じゃダメなのか?」
明日になればこの嫌な感じもなくなっているかもしれないと思った。
「今日が良いんだよ。ね、頼むよ。もちろんお金はすべて私が出すからさ」
「うーん」
「さっき港で助けてくれただろう? その礼がしたいんだ。礼を失するようなこと、侍がするわけにはいかないんだよ」
「そうねえ、どうしたもんかね」
そこまで言われると断りづらい。
この嫌な予感の理由を説明できないから、なおさらだ。
もしかしたら風邪をひく直前、というだけかもしれない。だが逆にいえばもっと酷いことになるかもしれない。予感はあくまで予感でしかないのだ。悪いことが起こるといっても、その悪いことの正体は起きてみるまで分からないのだ。
「な、頼むよ。私の顔をたてると思って」
「そうだなぁ。シャネル、ちょっと外に出てきても良い?」
俺はすぐ近くにいたシャネルに聞く。
こういうとき、パートナーにお伺いをたてるのは人の世の常識なのだ。
「別に良いわよ。私も行こうかしら」
「じゃあそうするか」
正体が分からない恐怖におびえても、どうにもならない。それは杞憂というものだ。
暗闇を恐れて目を閉じたところで、しょせんそれも暗闇のようなもの。
「アイラルン、貴女はどうする?」
シャネルが布団の方で寝転がっているアイラルンに言う。
「うーん、むにゃむにゃ。わたくしはもう眠たいですわ」
この女神……食っちゃ寝を繰り返してないか?
「やくたたずもここに極まれりだな」
「そうね」
なんとでもいえとばかりにアイラルンは手をふる。どうやらもう今日は眠るつもりらしい。まだそんなに夜もふけてないというのに。
「じゃあ3人で。あ、いちおう澤ちゃんに断っておこうかな」
「ちょっと待ってくれよ。俺はまだ行くとは決めてないぞ」
「まあまあ、シンちゃん。そう言わないでよ」
なんだかんだと押し通される。シャネルも少し乗り気みたいなので、これ以上は断る意味もなさそうだ。
タケちゃんは自分の部屋に一旦戻り、澤ちゃんに出かけることを伝える。「え、いまからですか! 榎本殿、貴方には指揮官としての自覚が――」
くどくど、くどくど。
いつも通りの説教。それが一段落して、
「澤ちゃんも行く?」
と、タケちゃんは聞いたが。
「いきません!」
とにべもない。
「じゃあ私たちだけで行ってくるよ、そう遅くならないうちに帰ってくるから」
「女を買うのはお控えくださいよ」
「買わないって」
女を買う?
はいはい、なるほどね。
まあそれなりの年齢の男ならそういう欲求もあるよね。俺にもとうぜんある。
もしかしたら。シャネルがついて来ると言った理由はそれか? 俺たちが女遊びしないか見張るつもりなのだろうか。
「シンクはそういうことしないわよね?」
「もちろんさ!」
ニコニコと笑っているシャネルさん。ある意味怖いぞ。
「お気をつけくださいよ。榎本殿のお命を狙っている者も、皆無ではないのですから」
「大丈夫だって。シンちゃんが守ってくれるよ」
「夕刻のように、仙台藩の方々といさかいを起こさないように」
「そんなに心配ならついてこれば?」
「はあ……まだやらなくてはいけないことがあるのですよ、こちらには」
「お仕事ご苦労さま」
澤ちゃんは「さっさと出ていってください!」と、俺たちを追い出した。
と、いうわけで俺たちは3人で出かけることに。
「すぐそこだから」
とタケちゃんが言うので歩いていく。
城下町にはたくさんの店が立ち並んでおり、中には客引きをしている店もあった。そういう店はなんだか怪しく感じてしまう。
タケちゃんはそういった客引きをすべて無視して歩いていく。
「……うーん」
「どうかした、シンク?」
タケちゃんは俺たちの前をるんるんとスキップでもするように歩く。
しかし俺の気持ちは落ち込んでいた。
「なんだかやっぱり嫌な感じがするぞ」
「どういうふうに嫌なの?」
「いや、なんというかね。こう、胸の中がムカムカするような。ちょっと言葉じゃ説明しづらいんだよ」
シャネルは困ったように笑う。
「お酒でも飲めばマシになるかしら?」
「たぶんね」
だけどこの感じは……そういうのとも違う気がする。
本当に、本当に嫌な感じだった。
引き返そう、と言おうかと思った。
だがもう遅かった。
「ついたよ、ここがおすすめの店」
タケちゃんがおすすめというのだから料亭のようなちゃんとした店かと思っていたら、普通の居酒屋だった。
「ここか」
こうなれば腹をくくろう。
ついたのだから、いまさら帰るのも乗りが悪い。それにシャネルも言う通り、酒でも飲めばマシになるかもしれない。
店の前には暖簾があった。それをくぐって中へ。
どうもあまり繁盛していない店のようだ。
「なんだか汚いわね」と、シャネルが正直に言う。
「こういう店のほうがいい味だすんだよ」と、俺は訳知り顔で言ってみる。
とはいえ居酒屋の良し悪しなんぞ分からない。
俺たちは真ん中の方の席に座る。
いかにも人生に年季の入れた老婆が注文をとる。
「なんでもいいかい?」と、タケちゃん。
「おまかせで」
「私も。食べ物の好き嫌いはないわ」
人の好き嫌いは多いけどね。
「じゃあ、これとこれと――」
老婆は注文を聞くと、メモもとらずにそらで繰り返す。そして引っ込んでいき、すぐに裂けをもって出てきた。とっくりが3つにおちょこが3つ。
「私も飲むの?」
「いらない?」
「いいえ、せっかくだからもらうわ」
乾杯、という文化はなく他人のおちょこに自分で酒をつぐのがその代わりになる。
俺はタケちゃんと互いに酒を注ぎあった。
「じゃあ今日もお疲れ様」
「うん、って言っても将棋して船に乗っただけだけどさ」
「あと私のことを守ってくれただろう」
「まあ、そうなるわな」
ゴクリ、と酒を飲んだ。
さてはて、酒は入れたものの、嫌な予感はまだ消えていなかった。




