573 榎本武揚
誰から降りようかということになった。
当然、降りる権利は船長であるキャプテン・クロウにあるのだと思っていたのだが、その船長がしぶるのだ。
「榎本さんが先にどうぞ!」
べつにこだわりもないのだが、最初に降りるというのはなんだか気恥ずかしい気がした。
けれどここで俺が首を縦に振らないと他の人たちが誰も降りられない。そんな気がした。
なので俺は「分かりました」と、船から降りることに。
かけられたタラップを降りていく。
とうぜんシャネルもついて来るのかと思ったが、そうではなかった。
なぜか俺は1人で陸地に降り立つ。
「よっ、と」
久々の陸地だ。
地面は揺れていないはずなのに、ずっと船にいたせいかむしろユラユラと動いているようにすら感じられた。
これが陸酔いというやつだろうか? 二日酔いなら何度もなったことがあるが、これは初めての経験だった。その場に尻もちついて座り込みたい誘惑にかられるが、必死に断念した。
そんなかっこう悪いところ見せられない。
なんでもない、という顔で腕を組んだ。
シャネルたちはまだ降りてこない。
「すいません、ちょっと良いですか!」
すると、先程こちらを見ていた釣り人が声をかけてきた。
「なんでしょう?」
帽子を深くかぶっているので顔はよく見えないが、声からして男だ。
いや、骨格もそもそもが男らしい。
長身で、俺と並んでも同じくらいだった。
「この船ってどこの国のですか!」
「どこの?」
俺は船にかかげられた国旗を思わず見る。なるほど、海賊旗じゃあどこの国のものかはわからないだろうな。
「ドレンスですが?」
どうしてそんなことを聞くのだろうと思いながら俺は答える。
「ドレンス! やっぱりそうですか! いやぁ、すごいな。動力は? 石炭? いや、でも黒煙のでかたがおかしいな。これはもしかして魔石をすりつぶしているんですか!?」
「あ、いや……そういう詳しいことは」
なんだこの人は?
「最新式でしょうか? かなり小さめ、これはどういった目的で作られた船ですか? 輸送艦? それともまさか高速攻撃艦? 砲門は左右にいくつありますか、射程は?」
「いや、その……え?」
めっちゃ喋るな、この人。
しょうじき俺、引いてるぞ。
「あ、すいません。とうぜん軍事機密ですよね! いやあ、でもドレンスの最新の船か! 中を見てみたいな、昔とどう違ってるのかな」
「さすがに中を見るのは……」
「ですよね! すいません!」
男はどうやら興奮しているようだ。
まさか船に性的劣情をもよおす変態さんではないだろうが。子供みたいに目を輝かせている。
変なやつ。
けれど悪いやつではなさそうだ。
端的に言って、俺はこの男になんだか好感を抱いていた。
「それにしてもドレンスからようこそはるばる。遠かったですよね!?」
「まあ、遠かったですね」
なんだか口ぶり的に、この人はドレンスのことを知っているようだった。
こう言っちゃあれだが、いかにも田舎の釣り人みたいなこの人が、だ。
男はやっと自分が帽子をかぶったままであることに気づいたようだ。慌てたように帽子をとり、にっかりと笑う。意外なほどに白い歯が覗く。
「申し訳ありません、これは失礼を」
「あ、いえ」
似ている、と思った。
なにに?
自分にだ。
俺は目の前の人間があるいはドッペルゲンガーかなにかではないかと思ってしまった。
相手もそれに気づいたのだろう。
あれ? という顔をして、いかにも日本人的な愛想笑いを浮かべる。そういう仕草までそっくりに思えた。
「な、なんというか。既視感が……」
「ですね。こういうの、他人事じゃないっていうんでしょうか」
「それは違うんでは? 親近感はありますが」
俺たちは互いの間合いを測るように見つめ合って、そして互いに笑う。
身長は同じくらい。
格好良さは俺のほうが少し上だろうが、たぶんあっちも同じことを思っているはずだ。
髪はどう見積もってもあちらが長い。ほとんど長髪だ。もしかしたらちょんまげを結えるかもしれない。
「えーっと、ドレンス人ですか?」と、相手は聞いてくる。
「いえ。ジャポネの人間です」
俺はしれっとウソをついた。
「ですよね! ドレンスに黒髪の人はほとんどいませんから。と、いうことは貴方も幕府の留学で? 私もなんですよ! いやあ、それにしても大変な時期に帰ってきたんですね!」
俺は思わず笑ってしまう。
「ふふっ」
「なにか?」
「よく喋りますね」
見た目は似ているが、性格はかなり違いそうだ。
「はい! みんなに言われます! ああ、そうだ。敬語はやめてください。あまり好きじゃないんです」
「ならそちらも」
「分かりました!」
男が手を差し出してくる。握手だ。
いつもなら警戒して断るようなものだが、今日の俺は気分が良い。というのも久しぶりの陸地で、しかも目の前にはなんとなしに気持ちの良い男がいるのだ。
俺は握手をしながら、この人とは友達になれるかもしれないと思った。
こういうふうに思うのも珍しいことだった。
「握手っていうのもじつにドレンス的な挨拶ですね。懐かしいですよ」
「そうなんですか?」
「敬語」
「ああ、ごめん。そうなんだね、握手ってジャポネの人はしないんだ」
「あれ? しませんよね?」
おっと、ジャポネ出身だと言ってしまったのだった。
「まあ、しませんね」
適当に話を合わせる。
それにしても、こんなそっくりな人間が目の前にいたら普通は嫌な気分になるだろうに。なんだろうかこの安心感は?
もしかしたら、と俺は思った。
いかにも純朴な釣り人であるこの男に、俺は俺のあるかもしれなかった平和な未来を想像しているのかもしれなかった。
復讐に心を燃やし、がむしゃらに人を殺め続けた。そんなことをしないでも普通にいきられたかもしれない。
人は、自分の持たぬものばかりを欲するという。
あれだけ自分の生きる意味だと思っていた復讐も、全てが終わってしまえば何にもならなかった。俺は人生という荒野に立っている、まだ歩き続けている。
「どうかしましたか?」
「あ……いえ」
そんなふうに会話をしていると、やっとシャネルが船から降りてきてくれた。
そのシャネルの姿を見て、目の前の男が息を呑むのが分かった。
「うわ、すごい美人だ」
どうやら女性の趣味は同じようだ。
「だね」と、俺は同意する。
「あんな人と一緒にジャポネに帰ってきたの!? いいなぁ。私のときはむさ苦しい男ばっかりで大変だったんだよ」
「あはは」
シャネルは俺と、そして隣にいる男を見比べる。
何も喋らない。
と、思ったら微笑んだ。
「もうお友達できたの?」
「あ、いや……」
そういうわけではないが。
俺はなんと言えば良いのか分からず、困ってしまう。
「わわっ! なんだか朋輩に似た人がいますわ!」
アイラルンも船から降りてきた。
そして開口一番、そりゃあ誰でも気になるよなというようなことを言ってくる。
「また美人だ」と、俺に似た男は言う。「すごい船だなぁ」
「朋輩の双子ですか?」
「そんなわけないだろ。この人は――」
そういえば名前を聞いていなかった。いや、まあべつに聞く必要もないのだけど。
だって、ただ港であった釣り人の男なのだから。
「ああ。すいません、名乗り遅れました。ようこそ、ジャポネへ。ようこそ、仙台藩へ。私、榎本といいます」
「え?」
いま、なんて?
「あら、シンクと同じ名前ね。榎本ってジャポネじゃあよくあるの? カブリオレみたいに」
「いや、そんなことないけど」
山田や田中じゃあるまいし。
そりゃあ希少性ってわけじゃないが、そんなに多い名前でもないはずだ。
「榎本!」と、なぜかアイラルンが驚いたように目を見開く。「あわわ」と、変な鳴き声のような音を口からだす。
「はい、榎本です。榎本釜次郎武揚。以後お見知りおきを」
そう言って男は、また白い歯を見せて笑った。




