545 行雲流水
笑う男の腕は、際限なく伸びていく。それは蛇のように地面を這い回りとぐろを巻く。
「そんなに伸ばしてどうするつもりだ」と、ワンが呆れる。
「ハンダラ会のワンっていうのは強いって聞いてたけど、これほどまでとは思わなかったからね。こっちも本気さ」
いったいどれくらいの長さだろうか、男の両手はすでに人間の体積などとうに越えている。そのうちに片方の手を伸ばし、空を覆い尽くした。
「わっ、暗くなりましたよ!」
ハエたたきのように手を振り下ろしてきた。
バチン!
と、音がして。
しかしワンはすにでその場にはいない。
「バカバカしい」と、つぶやくワン。
「手はもう1本ある!」
男はあまっている方の手でワンを貫こうとする。その動きはまさしく高速で、どれだけ避けようと追ってくるだろう。
「だからバカバカしいと言っているだろう」
ワンは伸びてきた手を手刀ではたき落とした。
手はぐにょりと嫌な音をたてて伸びた。そのまま勢いに負けて伸び切って、ちぎれる。
「こんな小手先の技術がなんになる」
「くそ、ふざけるな。この僕が心血をそそいで磨いた技術だぞ!」
「それでやることがヤクザの用心棒では世話ないな」
それはワンさんも同じでは? と、シノアリスは思ったがこのさい言わないでおいた。
「バカにしやがって!」
男のハエたたきになっていた方の手が普通の長さに戻る。そして腰回りに巻いていたなにかを手にとった。
それはリボンだ。
「あっ! あれ私の武器ですよ!」
シノアリスは興奮して叫ぶ。
べつに自分の武器に愛着があるわけではないが、あのガリアンソードは特別製だ。なくせばもう新調するのに苦労するだろう。
「取り返してください!」
「なんでもいいさ」と、ワンは連れない返事をする。
男はガリアンソードの使い方を知っているのか、魔力を通して蛇腹の剣にしてみせた。
「武器さえあればお前なんて!」
「武器に頼る、それもたしかに強さを底上げする方法の1つだろうな」
変幻自在に伸びる手、そこにさらにガリアンソードが加わり、相手の攻撃はまさしく複雑怪奇になる。シノアリスは少し離れた場所でをそれを見ながら――ああ、私には避けられないな――なんて思っていた。
だがワンはその攻撃を簡単に避けてみせる。
いや、避けたのではない。はじめから当たらない場所に移動していたようだった。
「行雲流水……けっきょく、全てを諦めてそれでやっと極意を掴んだ」
ワンは独り言のようにつぶやく。
全てを諦めた。
その言葉がシノアリスの耳に残る。
きっとあの人にも昔は目標だとか、夢だとか、そういうキラキラしたものがあったのだわ。
けれどそれがなくなって、なんとか生きていこうとして正義なんていうあやふやなものにすがった。
ワンは正義は自分が決めるだなんてうそぶいていた。けれどはたから見れば、彼の正義は自分が決めているものではなく周りから押し付けられたようなお仕着せに感じられた。
それが行く雲、流れる水だというのなら、なんだか主体性のない考え方である。
ワンは攻撃をいなし、そして手首を掴む。ガリアンソードを奪い取り、シノアリスの方へと投げた。
投げられたガリアンソードは空中でリボンへと早変わりする。
ひらひらと舞うように落ちてくるそれをシノアリスはキャッチした。
「ありがとうございます!」
お礼を言うのは大事だ。
ワンは少しだけ嫌そうな顔をした。まるでお前のためにやってやったんじゃないとでも言うような。
「黙ってろ」
そこからワンの反撃だった。
伸びてくる手、それを全てかわす。
そして相手に接近。
「クソ!」
男が口から火を吐いた。
おそらく火属性の魔法だろう。杖を腹の中にでもしまっているのか、かくし芸としてはかなりのものだ。不意打ちにもなる。
けれどその炎がワンを焼くことはなかった。
ワン腕をぐるりと回すと、炎をかき消す。
――なんで?
シノアリスは不思議だった。
なぜ腕を回すだけで炎が消えたのか。風圧だろうか、それとも腕自体になにかしらの魔力がこもっているのだろうか。
しかしシノアリスは知っていた。
この世界には常人では想像もできないほどの技術があることを。その技術は突き詰めれば人間の可能性である。みんなができないと諦めていることですら、やってのける超人がいるのだ。
ワンの拳が、男の腹部をうつ。
男はきり揉みしながら吹き飛んでいき、公園の外の道に投げ出された。
「まったくの無傷ですか。さすがに強すぎません?」
「ふん、弟弟子は俺よりも強かったぞ」
「弟弟子?」
「榎本シンクだ」
なるほど、とシノアリスは納得した。
このワンという男とシノアリスがお兄さんと慕う男は同門だったのか。
それならばべらぼうな強さにも納得がいく気がした。
「良いですね、弟分の危機を兄弟子が助ける。ロマンチックですよ!」
「なにがロマンチックなものか。言っておくがな、俺はあいつに恨みがあるぞ」
「でも助けるんですよね?」
ワンは黙った。
そして歩き出す。
「ちょっと、どこへ行くんですか」
「港だ、船に乗るんだろう?」
「そうですとも!」
シノアリスはいい気分だった。
けっこう大変なこともあったけど、まあだいたい上手くいった。そう思っていた。
頑張れば意外となんとかなるものさ。そう思った。
――――――
正義ってなんだろう。
シノアリスはそん難しいことは分からない。
けれどワンは分かっているフリをしているようで、グリースに渡ってからというものの人助けだなんて称していろいろなことをした。
どうもグリースという国は問題だらけの国のようでそれぞれの村々でだいたい困っている人たちがいた。魔族がどうとか、モンスターが現れるとかだ。
ワンはそれを率先して解決していった。
そのうち、グリースで片腕の男と小さな少女の2人組が人助けをしているだなんて噂が流れ始めた。
シノアリスはこの噂を好ましいものだと思っていた。
なにせ榎本シンクを助けるという目的があっても、その人がどこにいるのか分からないのだ。
ならばこちらの名前を売れば、あっちから気づいてくれるかも知れないと思ったのだ。
「人を助けるというのは良い事だ」
「それが貴方の贖罪ですか?」
「なに?」
「いえ、貴方ルオの国でなにかあったのでしょう? それで追い出されてきたのかなと思って」
「ふん、気づいても言うな。そういうことは」
「誰にでも隠したいことはありますよね」
そんなこんなで、大事な部分に触れ合わないままこの2人はある程度のいいコンビだった。
2人で旅をしていると、やがてこの国の本質が見えてきた。
どうやらグリースという国は魔王が全てを支配する独裁国家らしい。
それにワンはどうやら怒ったらしい。
「魔王を討伐に行く!」
自称正義の味方であるワンがそんなことを言い出したのは、当然だった。
「はいはい、そうしましょう」
シノアリスはべつになんでも良かった。
どうやらグリースとドレンスの戦争は佳境を迎えているらしい。
一時はドレンス国内へと攻め入ったグリース軍だったが、けっきょく負けてしまったらしい。
グリースの人間たちはむしろドレンスが勝つことを望んでいるふしすらあった。村人たちの中では魔族に聞かれないように「はやくドレンス軍が攻めてきて、魔王を倒してくれないものか」なんて言っているしまつだった。
「魔王を倒せば平和になる」
と、ワンは信じた。
「そんなに簡単な話ですかね?」
「少なくともルオの国はそうだった。女帝を倒して平和になった」
「倒したんですか?」
「俺がじゃない、榎本シンクがだ」
そんなことをしてたんだ、とシノアリスは思った。
「でも国のトップを倒したって、その後があるでしょう? 復興とか」
「上手くやっているはずだ」
「そうですか」
そして2人は魔王の城へと向かった。
それはグリースの首都にあり、そこで見たものは2人からすれば想像もつかないものだった。
「なんですか……これ?」
「ほとんど無人だな。人間なんていやしない」
「変な街……こんな場所が首都?」
だが、そんな首都でも動いている者たちがいた。
魔族だ。
その魔族は他よりも強そうだった。シノアリスはいっそのこと無視して魔王の城へと行くのが良いとそう提案した。
しかしワンはその魔族を倒すと言ってきかなかった。
魔族は体中に入れ墨をした男で、仲間を引き連れていた。2人で相手取るには明らかに不利。しかしワンは果敢に出ていく。
やれやれ、とシノアリスも手伝うことにする。シノアリスが低級の魔族を。ワンが上級魔族である魔王軍の四天王を相手した。
けっきょく、戦闘になった。
圧勝だった。
そりゃあもう、無傷だった。
「これなら魔王とかいうのも楽勝ですね」
「どうだかな」
そして魔王城へ。
魔王城の前ではすでに戦闘が行われているようだった。
戦っているのは榎本シンク。
体中をズタボロにしながら、しかし必死で刀を握っていた。
「情けない姿だ」と、ワンはそれを見た言った。
けれど格好いい姿でもあった。
全力で戦う姿は、どこか美しくもあった。
「笑っちゃダメですよ。お兄さんも頑張ってるんですから」
シノアリスはそうたしなめる。
そうだな、とワンは同意した。
けっきょく榎本シンクはからくも魔族に勝利をおさめる。
けれどそのまま倒れてしまった。
もう立ち上がれないかもしれない。
「行くか」と、ワン。
「ええ、そうですね」
このために自分はグリースまで来たのだ、とシノアリスは思った。
榎本シンクを助けるために。
颯爽たる風が吹く。
シノアリスはどこか得意げな様子で、榎本シンクが驚く姿を想像するのだった。
これにて短編【異教徒】はおしましです。シノアリスちゃんのお話でした。
明日、1日おやすみさせてください
その後、最終章【女神】の更新を開始していきます。




