540 抗争
正義ってなんなのかしら、とシノアリスは考えた。
けれど考えて答えがでる問題ではないのだから。
――たとえば、私は正義と悪でいえば間違いなく悪である。
シノアリスは異教徒である。それだけで善悪でいえば悪だろう。
けれど同じ異教徒である人たちからすれば、シノアリスこそが正義だろう。
このように正義や悪なんてものは立場によってコロコロと変わるものなのだ。
「なんだかなぁ……」
シノアリスは1人、古びた教会にいた。
「正義だなんて、そんなことを行動原理にしていてあの人、大変じゃないんでしょうか?」
どちらかといえば好き勝手に生きているシノアリスだ。
「おっと、こんなことをしている場合じゃありませんでした」
今日は船の出る日だった。
船に乗って、グリースへ。
けっきょく1人での渡航だ。
「アイラルン様は私では勝てるかどうか、と言っておられたけどまあ大丈夫でしょう」
教会から外に出ると、空はどんよりとした曇り模様だった。
普通の人間なら気持ちが落ち込むような天気でも、シノアリスはへっちゃらだ。むしろこれくらいの方が好きかもしれないくらいだ。
「さて、いままでありがとうございました」
シノアリスはこれまでしばらく寝床にしていた教会に感謝の言葉を残して、港へ向けてあるき出した。
歩いていると、今日はいつもより街が騒がしいことに気がついた。
「なんでしょうか」
歩いている人たちがどれも急いでいるように感じられたのだ。
気になった。
べつにこの街から今日出ていくのだが、だからこそ気になることを放置しておけばあとあとまで尾を引くと思ったのだ。
「もし、そこを行く人。なんでそんなに急いでいるんですか?」
「えっ! そんなの決まってるだろ!」
「なにかお祭りでしょうか? それともイッドの国民性?」
「違うって!」
シノアリスが声をかけたのは、ちょっと気の弱そうな男だった。
「じゃあどうして?」
男はチラチラとあたりを見て――話が聞かれていないか気にしているのだ――それからこっそりと打ち明ける。
「抗争が始まったんだよ」
「抗争?」と、シノアリスは首をかしげた。
「ハンダラ会とベンザイ会のだよ! なんでも昨日、ハンダラ会のやつがベンザイ会のやつらを何人も血祭りにあげたとかで……」
「何人も?」
「いや、厳密には1人だとかそういう話だけど……」
「なるほどね」
シノアリスは苦笑いをする。
たぶん自分のせいだったからだ。
「このままじゃあ街中であいつら戦いはじめるだろうから、みんな準備してるんだよ」
「そうでしたか。引き止めてしまってすいません」
「あんたも、さっさと親のところへ帰れよ!」
男はそう言って小走りで駆けていった。
1人の越されたシノアリスは考える。
――さて、どうしたものか。
きっかけはどうあれ戦っているのはなんたら会となんたら会の人間同士。シノアリスが責任を感じることはない。
ただワンのことだけは気になった。
――あの人はまた戦っているのだろうか。正義だなんてくだらないもののために。
そう考えると、なんだかムカムカしてきた。
なにが正義だ、と吐き捨てたい気分だった。
ただのヤクザ者が、バカバカしい正義なんてものをかかげて自分は正しいと思って戦う。
シノアリスは知っていた。人間は正義なんてものを振りかざすときに、残忍なことだろうと平気でやるようになるのだと。
シノアリスの両親を殺した人間たちは間違いなく自分のことを正義だと思っていた。
異教徒を根絶やしにすることこそがこの世界のためだと思っていた、確信していたのだろう。
「腹がたちますね」
シノアリスは時間を確認する。
まだ船の時間までは余裕があった。
チケットを確認する。
2人分のチケットだ。
「なんて因業な人でしょうね。正しい正義などこの世にはないのに。そんなものを信じて……求めて……そして戦い傷つく」
あのワンという男はどうにもこうにも見ていられないものがあった。
まるで手負いの獣が荒野にいるような……そんな悲しさを感じた。
あの男はいったいなぜ正義なんてものを求めているのだろうか。
気になった。
どうせシノアリスは今日、この街から出ていく。
だからこそ。
気になることは後顧の憂いとなる。
「本当に腹がたちます」
シノアリスは走り出した。
向かう先は決まっていた。この前チケットを受け取った賭博場。あそこに行けばワンに会えるかもしれないとそう思ったのだ。
だけどそれは甘い考えかもしれなかった。
裏通りに入った途端、鼻をつく血の悪臭がした。
「けっこう派手にやってるみたいです――ねっ!」
後ろに気配。
振り返るより早くシノアリスはガリアンソードを抜いている。蛇のように身をくねらせて背後の敵におそいかかる。
悲鳴が聞こえた。
それからやっとシノアリスは振り返る。
「いきなり後ろから襲いかかるだなんて。こんなか弱い少女に見境なしですか?」
しかし声をかけた相手はすでに絶命している。
「あら……やりすぎてしまいました。抗争のことを詳しく聞こうと思ったのに」
とはいえいきなりのことで手加減などできなかった。
「うーん、あの人のことですから死ぬことはないんでしょうけどね」
死なれては困るのだ。
シノアリスはワンのことを利用しなくてはならない。そしてアイラルンの願いに従って榎本シンクを助けに行かなければならないのだ。
ふと、目の前に見知らぬ男が立っていた。
「あらん?」
「そいつを殺したってことはキミはハンダラ会の人間か?」
と、その男はシノアリスに聞いてきた。
「そういう質問をするということは、貴方はベンザイ会の人間ですか」
ハンダラ会はワンが手を貸していた組織。
ベンザイ会はその敵対組織だ。
「ハンダラ会はあのルオ人だけじゃなくて、キミみたいな女の子も使うのか」
男は妙に両手が長かった。
しかしそんなことよりも気になる要素がある。
「……なんで裸なんですか?」
「失敬な。下は履いている」
たしかに、下は履いている。短パンだかボロ布だかよく分からない服ではあるが。しかし上半身は何も着ていないし、よく見れば靴すら履いていない。
「先に言っておきます。私はハンダラ会もベンザイ会も関係ありません。ただの通りすがりです。それでも向かってくるというのなら、私は貴方を殺します」
「そうは言われてもね、僕も仲間を殺された手間引き下がることはできないよ」
さて、どうでるとシノアリスは意識を集中させた。
その瞬間だった。
男の腕が伸びた。
「えっ!?」
完全に意表をつかれた。
まさか手が伸びるだなんて思わなかったのだ。
伸びた手はシノアリスの頬を強かに打つ。
「ぎゃっ!」
見た目はこっけいだが、威力は絶大だった。
シノアリスは吹き飛んで、そのさいにガリアンソードも手放してしまった。魔力の供給が切れたガリアンソードはただのリボンに戻る。
「女の子を殺すのはしのびないが、致し方ない」
シノアリスはまずい、と思った。
けれどリボンはずいぶんと遠い場所にある。
武器がない。
ピンチだった。




