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539 ワンの正義


 敵がもっている武器はいかにも厨房からとってきたような出刃包丁だ。


 それは武器としてはかなりいびつなものに思える。


 そもそもが料理に使われるためのものだ。人間相手に使うものではない。


 あれで斬られたら痛そうだわ、とシノアリスはなんとなくそんなことを思った。


「死ねや、ワン!」


 出刃包丁を持った男はワンに突進すると、それを振り回す。


 だがワンにはまったく当たらない。


 不思議なものだ。わざわざ避けているようには見えないのだが、包丁は空を切っている。


 さて、そろそろとワンが反撃にうつる。


 相手が出刃包丁を空振った、そこを狙って腹にパンチを入れる。パンチを入れたのは手首から先がない方の腕だった。


 ――ああ、そっちでも殴れるのか!


 シノアリスはほんのちょっとだけ驚いた。


「ううっ……」


 出刃包丁を持っていた男はその場に倒れる。どうやら死んでいないみたいだ、気絶しただけ。


 とはいえ敵はまだ何人もいる。


 シノアリスがざっと数えると7人だ。


 ワンを狙っているらしいが、彼の強さを知っていて人数を揃えてきたというところだろう。


「実力は分かりましたよ」


 さっさと逃げよう、とシノアリスは言ったつもりだ。


「なあに、これからだ」


「相手にする必要ありませんよ」


「どうせこいつらは俺のことを狙っているんだ、ここで倒す」


 ワンは構えない。


 あるいはそれが構えなのか?


「ビビるな、全員でかこめ! この人数でかかれば簡単だ!」


 7人の男たちは、しかし周囲でワンを囲むだけで誰も襲いかかってこなくなった。


「どうした、こないのか」


 誰も動けない。


 それもそうだろう、とシノアリスは思う。


 全員で囲めばたしかに袋叩きにできるだろう、けれど数人は確実にワンの攻撃をくらう。その数人に誰もなりたくないのだ。


「くそ!」


 しかし7人の男たちの中でも勇敢な――あるいは軽率な男が向かってきた。


 手には小さな剣が。


 ワンはその剣を持つ手首を掴むと、もう一方の手で顔面を殴打した。


 それで男は吹っ飛ぶ。


「強いっすね」と、シノアリスは褒める。


 しかしワンは照れることもせずに次の敵に接近する。立て続けに1人、また1人と敵を倒していく。一瞬で敵はあと4人になった。


 そしてそのどれもが死んでいない。手加減しているのだろう。


 相手はとうとうワンを倒すことができないと悟ったのか、あろうことかシノアリスのほうへと向かってきた。


「あら、私ですか?」


 シノアリスはするりとリボンをほどくと、それを振る。


 振られたリボンは空中で魔力をまとい硬質化した。一瞬だった、首が落ちた。


 シノアリスを狙った男は自分が死んだことすら気づかなかっただろう。


「下がってろ、女!」


「シノアリスですよ、名前を覚えてくださいね」


 残る敵は3人、ワンはそちらに接近して、一瞬にして3人をのしてしまう。


 動きには一切のムダがなかった。まさしく達人だ。


「ふう……終わりだな」


 ワンは店の中を見渡した。暴れたせいで机や椅子が散乱している。どうやらもともと客はいなかったようで、そこらへんに倒れている敵以外に怪我はないようだ。


「こいつら、何者ですか?」


 と、シノアリスは聞いた。


「たぶんだが、敵対組織のやつらだろうな」


「敵対組織? そんなのがいるんですか?」


 ワンは何食わぬ顔できれいそうな席に座る。


「お前はなにも知らんのだな。誰から船のチケットを買ったかもしらないのか?」


「えーっと、ハンダラ会とかいう名前の、いちおうは外国からの物資の輸入業者ということになっていましたよね」


「そうだ、その実態はヤクザ者の集まりだ」


「ですね」


「そしてそれと敵対する組織。それがベンザイ会だ」


「なるほど、つまりこの男たちはそのベンザイ会の人間なわけですね」


「そうだな」


 シノアリスは倒れている男をつついて起こす。男たちは目を覚ますと怯えたような様子で逃げていった。ワンは追おうとしない。


 しかしシノアリスが首を落とした死体だけは当然動けないのでそのままだ。


「お前それ、どうするつもりだ?」


 ワンが聞いてくる。


「さあ? ここは料理屋さん出し、食材にでも使えばどうですか?」


「外の辻に捨ててこい」


 言われてシノアリスは渋々外へと出て、死体を遺棄いきしてきた。


 できるだけ人目のなさそうな場所に捨てた。


 そのうち誰かが片付けるか、あるいは腐って朽ち果てていくだろう。


 店に戻るとワンはいままで死体があったことなどまったくき気にしていない様子で料理を食べていた。肉まん、だろうか。机の上いっぱいに置かれている。


「貴方、そんなに細いのにたくさん食べるんですね」


「文句があるか?」


「いいえ、べつに」


 シノアリスも席に座る。そして机に山盛りになった肉まんを手に取り、食べた。


 あら美味しい、と顔がほころぶ。


「俺はハンダラ会の用心棒をしている」


「そうなんですか」


「やつらは金払いが良いからな。それに、ハンダラ会には正義がある」


「正義?」


「そうだ、やつらは魔片を売っていないからな。だから俺はやつらに手を貸しているんだ」


「ふうん」


「なんだ、自分で聞いておいて」


「いえね……あんなやつらに正義なんてあるんでしょうか?」


 まさかこの男はそんなものを行動の規範にしているのだろうか?


 だとしたらシノアリスからすれば信じられない。


 ありえない。


 正義なんてあやふやなものに自分の行動を支配されることが。


 ではシノアリスはなんのために生きているのか?


 それは簡単だった。


 不幸な人たち、因業な人たちのために彼女は生きているのだった。


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