535 娼婦
シノアリスは少しだけ後ろめたい気持ちで裏路地を歩いていた。
その後ろめたさが気弱さにでも見えたのだろうか、突然後ろから声をかけられた。
「お嬢ちゃん、どうしたの?」
後ろにいるのはおそらく。いや、十中八九は女性である。
だとしてもシノアリスに油断はない。自らのリボンを触りながら――このリボンはシノアリスの武器であるガリアンソードだ――ゆっくりと振り返る。
「どうもしておりませんよ?」
相手が女であろうとなんであろうと、こんな治安の悪い場所ならば何をされるか分からない。
分からないならばどれだけ警戒しても、したりない。
いつでもガリアンソードを抜けるような体勢をとりながらも、しかし知らない人から見れば小さな少女がお気に入りのリボンを触っているようにしか見えないだろう。つまりはただの手癖の1つとしか見えない。
「そう。親とはぐれちゃったん?」
どことなく訛りのある喋り方だ。
きっと地方から都会に出てきたのだろう。
そして都会に出たが仕事はなく……。
おそらく娼婦だとシノアリスは思った。
「はぐれちゃいました」
嘘ではない。
親とはすごい昔にはぐれた。
異教徒であり、アイラルンの教えを信奉していた親は、シノアリスが幼い頃に異教徒狩りにあって死んだ。
それからというもの、あれよあれよという間にシノアリスは異教徒たちの一大勢力の長となった。もともとアイラルンに愛されて、そういったスキルも持っていた。
そもそもアイラルンに会ったこともある。
他の信者たちとは違う。
彼女は異教徒たちを導くるために生まれてきたのだ。
「こんな場所に来ちゃダメなんよ。あっちに行けば大通りだから、そしたら優しい人に声をかけて道を聞いて。優しそうな人じゃダメなん、優しい人に――」
なにかしらの含蓄のある言葉。
もしかしたらこの娼婦はシノアリスではなく、自分にそう言い聞かせているのかもしれない。
「分かりました、お姉さん」
「うん、いい子だちゃ」
娼婦はシノアリスの頭を撫でる。その行為に敵意のようなものを感じなかったシノアリスはされるがままだ。
娼婦の女はまるで自分の子供をあやすようにシノアリスの頭を撫でた。
見も知らぬ子供を……。
これはシノアリスからのサービスだった。頭を撫でさせないことも、そもそも会話に応じないこともできた。けれど見るからに因業そうな娼婦をシノアリスは少しでも喜ばせたかった。
女が手を引っ込めたとき、妙に甘いニオイがした。
――魔片だわ。
と、シノアリスは思う。
それもかなり粗悪な。
魔石を砕いて作る魔片は上等なものであれば無味無臭だ。しかし混ぜものを多くしてかさ増しさせたものであれば、とうぜん妙な臭いになる。それを隠すために甘ったるいニオイで誤魔化すのだ。
「お嬢ちゃん、本当にめんこいね。どこかの貴族の子?」
「そんなことありませんよ」
「喋り方も品があって……羨ましいね」
「ありがとうございます」
シノアリスはペコリと頭をさげた。
さて、そろそろ行かなくてはと思った。この裏路地の先には人様にいは言えないような店が立ち並んでいる。そこの1つに用があるのだ。
「おい、なにしてるんだ!」
乱暴な男の声が裏路地に響いた。
その声を聞いたとたん、目の前の娼婦はビクリと肩を震わせた。
「行って」と、少し焦ったような口調でシノアリスに言う。
「はい」
と、言うが間に合わなかったようだ。
裏路地の先から恰幅の良い男が出てきた。
「なんだそのガキは?」
ガキ、というのはシノアリスのことだろう。
ちょっとカチンときたが、もちろんここで乱暴なことはしない。これから会いに行くのはここらいったいの裏街の顔役だ。下手に騒ぎをおこせば会ってもいないのに最初から心象が悪くなるだろう。
「なんでもないよ」と、娼婦の女は言う。
「そのガキ、ちょっと乳臭えが育てばいい女になるかもしれねえな。そもそもそういうガキみたいな女が好きっていうヤバいやつらもいるしな」
男はニヤけながらシノアリスに近づいてくる。
さすがにこれは我慢ならない。あと半歩近づけばガリアンソードでなます斬りにしてやろうと思った。
だが娼婦の女が体をはって男を止めた。
「なんでもないって言っとるでしょ!」
「うるせえ!」
男が女の頬をしたたかに叩いた。「ぎゃっ!」と女はその場に倒れ込む。
「いつからお前が俺に意見できるようになったんだ! 誰のおかげで客が取れてると思ってやがる! バカにしやがって!」
男が娼婦の女に殴る蹴るの暴行をくわえる。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
女の方が悲痛な声で謝る。が、男の方はいっこうに許す素振りをみせずに殴り続けた。
シノアリスは久しぶりに人を殺す覚悟を決めた。
だが娼婦の女がシノアリスをちらりと見た。
――に・げ・て。
目がそう伝えていた。
殺すべきか、それとも逃げるべきか。
どちらも簡単だった。
ならば、とシノアリスは思う。
見るからに男は娼婦の女を管理している立場だ。もしもここで男が死ねば仕事に差し障りがでるかもしれない。そうなればいまは良くても、将来的にさらに不幸になるかもしれない。
そう考えてシノアリスは逃げることを選択した。
「あっ、てめえ!」
男が逃げようとしているシノアリスを見て叫ぶ。追いかけてくるつもりだ。
だが娼婦の女がその足にすがりついて止めている。
「やめて、やめて!」
捕まればそのまま娼館にでも売られると思っているのだろう。
実際はシノアリスには抵抗する力があるのだが。
けれどその心意気は嬉しかった。
「離せ、クズ!」
男はすがりつく女を蹴った。
「どっちがクズですか!」
シノアリスはここで怒りを我慢できなかった。
逃げるように走りながら、髪を縛るリボンを引き抜く。
それは蛇の骨のような連なる剣となり、男の頬を深々と切った。
殺さずとも怪我をさせてやろう、そういう思いだった。
「ぎゃああっ!」
男の悲鳴にシノアリスは少しだけ溜飲を下げた。
そしてそのまま走り去る。
やがて裏路地の奥、いかがわしい店が立ち並ぶ通りへと来た。
目当ての店――というよりも建物はすぐに見つかる。
「ああ、ここですね」
中に入ろうとすると、首の裏にチリチリとした殺気を感じた。
――なるほど、私を試しているのですね。
シノアリスは殺気の方を向き、にっこりと笑った。
どこか遠い場所でシノアリスのことを狙っていた人間は、それで姿を隠した。
「気づかせたのでしょうかね、いいえ違いますね。そのつもりはなかったけど気づかれた、だから慌てて逃げた。ろくな人間を雇えていませんね」
シノアリスからすればどうでも良いのだが。
建物の扉を開ける。
中は賭博場だった。
うるさいな、とシノアリスは顔をしかめる。
「いらっしゃいませ」
シノアリスの見た目はどこからどう見ても小さな少女だ。けれどそんな彼女をまったく下に見る様子もなくスタッフは声をかけてくる。
「フレディ氏はいますか?」
それがここらの顔役の名前だ。
これにはさすがのスタッフもぎょっとした顔をする。
「あの……オーナーにどのようなご用件でしょうか?」
「アイラルンの使いが来たと伝えてください。それで伝わるはずです」
「……かしこまりました」
スタッフは疑わしげな顔をしながらも奥に引っ込んでいく。
シノアリスはその間、1人でいた。
周りから視線を感じる。なんだあいつはという視線を。
だが誰も声をかけてこなかった。
そしてしばらくして。
奥から巨体の男が出てきた。
――むっ、なかなかできますね。
できる、というのは強いという意味だ。
その男は片腕の手首から先がなかった。
「お前が客か?」と、仏頂面で言う。
「そうですよ」
と、シノアリスの方は余裕をもって微笑みながら答えるのだった。




