494 朝霧の中で
しめった朝霧のせいで前はあまりよく見えなかった。
「ぬかるんでるわ」と、シャネルは高いヒールのブーツで地面を踏みつける。
ドロがついて顔をしかめている。
「シャネル、そろそろじゃないか?」
「そう慌てないで。攻めるのはこっちからじゃないでしょう?」
「そうだけどさ」
俺の周りには兵士たちがいる。
まだ朝だというのにみんな起きている。
それもそのはず、すでに開戦目前なのだ。
敵はすでに山の上に兵を配備しているだろう。この立ち込める霧は自然現象ではなく、魔力の関係でおきているのだろう。
「そんなに手持ち無沙汰なら他の人たちの緊張でもほぐしてくると良いわ。そうしたら自分の緊張もほぐれるわ」
「なるほど」
シャネルのアドバイスは素直に聞くことにしよう。間違ってないはずだから。
てこてこてこ。
少し歩きにくい。あまり前が見えないし。
兵士たちは互いに身を寄せるようにして並んでいるから、その間を通るのも一苦労だ。ときどき肩をぶつけたりして「なんだこいつ」みたいな顔をされるが、俺のことに気付いた段階で逆にペコペコされてしまう。
なんだかなぁ……。
嫌な感じだ。俺は自分のことを偉いだなんて思っちゃいない。だからあんまり遠慮されると、なんだか俺だけ仲間はずれにされたような気がして寂しいのだ。
権力とは虚しいものだ、なんてしたり顔で言うつもりはないけれど。
そういうものに興味がない人間もたしかにいるのだ。
「あっ、隊長」
いきなり声をかけられる。
一瞬、誰か分からなかった。霧のせいで顔がよく見えなかったのだ。
けれど小柄な体躯と、半人特有のとがった耳を見てそれがデイズくんだと理解した。
かたわらには筋骨隆々のいかにもならず者なルークスもいた。
「やっ、2人とも」
知り合いに会って少しだけ安心した。
「シンク隊長、まだですかね」
ルークスが俺に聞いてくる。
「まだまだ。そう焦るなよ、攻めるのは俺たちからじゃないんだから」
シャネルに言われたことをそっくりそのまま言ってみる。
つまり丸パクリである。
「なるほど、たしかに。さすが隊長、冷静ですね」
「まあね」
うん、たしかにこれはシャネルの言う通り人と話していると緊張がほぐれてくるな。
「どんなやつらが来ても粉砕してやりますよ」
「頼もしいな。東の方の戦いはどうだった?」
「大変でした」と、デイズくん。
「あの馬賊のやつらが来なきゃ、負けてたかもな」
「そんなにギリギリだったのか」
「ギリギリもなにも。相手の数はそんなに多くないんだが、とにかく粘り強いんだ」
「へえ」
魔族たちに感情はない。ほとんど。
中には意思疎通のできる上級の魔族もいるがそれは少数だ。つまりやつらの軍勢に士気というものはなく、頭を潰すまで動き続ける。
厄介な相手。
その分、どれだけ殺しても罪悪感はわかないのだが。
「でも今度の戦いは大丈夫ですよ、隊長がいるから」
「そうだぜ、シンク隊長に期待してますぜ」
「やめてくれよ、あんまり期待するの」
俺は愛想笑いを浮かべて……。
微妙に会話が続かなくなったところで「じゃあ、また」とスムーズにその場を離れた。
この場にこれ以上いたら気まずい雰囲気になっていただろう。ナイス判断だ、俺ちゃん。
シャネルの場所に戻る。
「おかえりなさい、緊張はほぐれた?」
「ぼちぼちかな」
シャネルはまるで霧のそのさきにある山頂が見えているように、ただ一点を見つめている。
なんだか声をかけづらい。集中しているようだし。
というか……。
シャネルさん、本当に見えてるんじゃないのか?
「あと10分ね」
なんて、自信満々に宣言してるし。
「なんで分かるの?」
「少しずつね、相手の魔力が大きくなっていってるの。たぶん、いま魔族たちに魔力を注入してるんじゃないかしら。操り人形を動かすには準備が必要よ、このペースならあと10分ってところね」
「すごいな、魔法使いってそこまで分かるんだな」
「誰でも分かるわ。たぶん、お兄ちゃんだったら……」
シャネルは悔しそうに唇のはしを噛んだ。
けれど俺が見ていると気付いたのか、すぐにそれをやめて取ってつけたような笑顔になる。
「お兄ちゃんだったらたぶん、この位置から自分の魔力でもって敵の妨害ができたでしょうね」
「すごいね」
「ごめんなさいね」
どうしてシャネルが謝るのか分からなかった。
分からないけれど、シャネルがなんだか悲しそうな顔をしているので俺まで悲しくなってしまった。
「どうしたんだよ」
「私、もっとシンクの役にたちたいのだけど、これが精一杯。作戦を立案して、貴方を手助する程度。貴方の力になりたいのに……」
「そんなこと気にするなよ」
それに、こんな大掛かりでしかも素敵な作戦を提案してくれただけで、シャネルは大活躍だ。フェルメーラがこの作戦でイクと決めたということは、良い作戦なのだろうし。
「シンクはお友達のために頑張るのでしょう? だから私はそんなシンクのために頑張りたいの。ねえ、私って貴方の役にたっている?」
シャネルは病的なまでに濁った視線で、すがるように俺を見る。
――私は役にたつから、私のことを見捨てないでね。
と、暗にそう言っているのだ。
バカな娘だ、と俺は思った。
俺もバカだけど、シャネルも大概バカだ。俺がシャネルの元から離れるわけがないのに。
それにしても、シャネルがいきなり作戦の立案なんて妙なことをするからなにかあるとは思っていたが、まさかこういうことだったとは。
愛情と友情の違いも分からないなんて、ほとほと因業な女の子だ。
「シャネル、はっきり言っておくぞ」
「なあに?」
「俺はお前のことが好きだからな」
「……いきなり何よ。おべっかのつもり?」
「まさか。ただの事実さ」
俺はたぶん顔を真っ赤にしているはずだ。
なんぼなんでも、もっとうまい言い方があっただろう。シャネルを安心させるためにしてもさ。自分の語彙力のなさが情けなくなる。
それでも、伝えたいことはストレートに伝えることができた。
「だから心配するなよ」
と、つけたした。
つけたすと、少しだけ嘘っぽくなった気がした。
そのせいか知らないが、シャネルが小馬鹿にするように笑う。
「私だって貴方のこと好きよ」
と、頭の中がわいたようなことを言う。
わいた、沸騰したわけだね。
でもまあ、いつもどおりだ。
ここにきて緊張はまったくなくなった。
「さて、やるかシャネル」
俺は言う。
シャネルがさきほど言った10分はもうすぐだ。
「ええ」
俺たちは少しだけ身を寄せて――キスでもしてくれるのかなと思ったのだけど――シャネルは俺の肩を優しく抱いて、すぐに離れた。
「よし行くぞ、野郎ども!」
俺は叫ぶ。
シャネルが横でやれやれ、と首を横にふった。
「ダメよシンク、あんまりやる気だしちゃあ。からまわりするわ」
俺は注意されたことに照れて、しょんぼりする。
けれど兵士たちの士気は上々だ。みんな思いっきり声をあげた。
そして、霧が晴れていくのだった――。




