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046 尿意


 ま、まずい……。


 ピンチだ。


「シャ、シャネル」


 と、俺は弱々しくシャネルに声をかける。


 シャネルは何も言ってくれない。まるで死んでいるように。


「……シャネル」


 と、もう一度彼女の名前を呼ぶ。


「なあに?」


 よかった、シャネルは小さな声だが返事をしてくれた。


 俺は真剣に彼女を見つめた。なにせピンチなのだ。


 シャネルは俺に見つめられて照れくさそうにした。そして「なあに?」と、もう一度俺に尋ねる。


「トイレしたい」


 そして俺は彼女に言う。


 シャネルはその言葉にやれやれという顔をした。


「だから最初に言ったじゃない、どうして休憩時間にトイレに行ってこなかったのよ」


「そのときはしたくなかったんだよ」


 でも今はしたいんだ。


 こういのってひとたび認識しちゃったらもうダメなんだよね。トイレがしたくてしたくて、もうそのことしか考えられないで。オペラの内容なんてぜんぜん頭に入ってこないんだ。


「あんたにたくさんワインを飲むからよ」


「それは本当に申し訳ないと思ってる」


 酔わない程度なら良いかな、と思ったんだ。


 どうもこのオペラ座で売っているワインは水で薄めてあるのかアルコール度数が低くそうだった。そのせいでいっぱい飲んだ。そしてトイレしたくなった。


「私は付いていかないわよ。いま良いところなんだから」


「トイレってどこだよ?」


「知らないわよ、出て誰かに聞きなさい」


「くそ、そういうの苦手なんだよな!」


 こっちは異世界に来るまで引きこもりだったんだぞ。したがってコミュ障なのだ。とにかく店員さんに声を掛けるのとか苦手なんだから。


 だからこれまでそういうのは全てシャネル任せだった。


 これが試練か。


 これがピンチか。


 ふふふ、異世界。なかなか楽しませてくれるじゃないか。俺の社会復帰を手伝ってくれるなんて、あのクソ女神も良いやつだぜ!


 そういや最近見ないな、アイラルン。


 なんて思っているともう我慢できそうもないくらいに尿意が襲ってきた。


「ちょっと行ってくる」


「どうぞー。ちゃんと身をかがめていくのよ」


 おれは無言で頷く。


 そしてさっさと劇場を出た。


「トイレはどこだ!」


 俺はそこらへんの人を捕まえる。


 いつもなら絶対に話しかけない、こちらからなんて。でももう切羽詰まっていたのでそんなことを言ってられないのだ。


「すいません、トイレってどこですか?」


 話しかけた相手は人の良さそうなおじさん。


 けど、トイレという単語を聞いてそりゃあもう嫌そうな顔をした。ここはオペラ座だぞそんな無粋なことは聞くな、とそんな顔だ。


 しかしこっちだって慌てているのだ。


「トイレ、どこですか!」


 と、もう一度聞く。


「中にはないよ。外まで行きなさい」


「ありがとうございます!」


 俺は礼を言って外へ。


 キョロキョロとあたりを見る。公衆トイレはどこだ!


 しかしどれだけ探しても分からない。


 ――ええい、ままよっ!


 俺は路地裏に行くとズボンをおろした。そうです、立ちションです。


 別にパリィだとこれくらい普通だから、けっこう衛生事情悪いからね、この街。表通りが美しいだけで裏じゃあかなりね……うん、汚い。


 だから立ちションくらいしても良いのだ!


「あれー、お兄ちゃん何ってるのー?」


「あー、立ちションしてるー!」


「警察よぼうぜー」


 鼻を垂らした乞食のガキどもが寄ってくる。こういうやつらをルンペンというのだ。パリィじゃあこういう子供がけっこう多い。


「おい、あっち行け。邪魔すんな!」


「悪いんだー、警察よぶぞー」


「嫌だったらお金くれー」


「食べ物でもいいぞー」


「ええい、邪魔すんな。おしっこ引っ掛けるぞ!」


 むしろそれが喜ばせる原因となった。三人のガキたちはキャッキャと騒ぎながら俺の周りで踊り出す。


 もう我慢できないのでしょんべんをしてやる。


「おー! お兄ちゃんのでっけー!」


「すげー!」


「めっちゃ出てるー」


 うるさいわい、と俺は怒る気力も無くす。


 そしてトレイを終えて、すっきり。


「お前ら親はどうした、もう夜だぞ。さっさと帰れよ」


「親なんていないよー」


 ま、そうだろうな。分かっていて聞いたのだ。


「それよりお金~」


 間延びした声で言ってくる。


「くれないと警察よぶぞ~」


 そういやこの街に警察いるんだよな。


 なんかかってに異世界って兵隊とかが警察の代理をしているようなイメージだったんだけど、現代のそれと同じような警察組織がちゃんとあるのだ。驚き。


 そしてついでに、この警察さん。袖の下がかなりあついとか……。つまりワイロが大好きなんだって! 腐敗してるね!


 ふむ、立ちションで警察にワイロを払うのと子どもたちにワイロを払おうの。後者の方が安く済むだろうな。まあ、このガキ三人をボコるって手もなくはないけど。そういうのって大人のすることじゃないよね。


「しょうがないなあ」


 俺は靴下の中からコインを取り出す。銅貨が一枚、これは10スー銅貨だ。だいたいパンが10個は買えるから、日本円だと1000円くらいかな?


「ほらよ」


 子どもたちは驚いた顔をしている。


 はて、くれてやる金額が多すぎただろうか?


「お兄ちゃん、なんでそんなところにコイン入れてるの?」


「靴下だよ?」


「歩くとき痛くないの」


 ああ、はいはい。そういうことね。


「これはな、まあ俺のスキルが関係しているんだ」


 俺のスキル『5銭の力』は自分が死にかけたとき自動発動するスキルだ。効果は単純明快で、自分に対する攻撃を無効化するというもの。デメリットとしてその攻撃の大きさに対してそうおうのお金が減る。


 まあ、そんな危険なことばっかりじゃないけどさ、そういう能力を持ってるんなら有効に使いたいよな。それで俺はいつでもコインを携帯するためにこうして靴下の中にコインを忍ばせているのだ。


 え、財布で良いだろって?


 それが良くないのがこのパリィという街。この街の治安じゃあ少しでも気を抜けば財布をすられるのだ。だからこうして靴下の中にコインを入れておくのが一番。


 ま、驚かれたところを見る限り俺以外にやってる人はいないみたいだけどな。


「ほらよ、これあげるからさっさとどっか行け」


 ガキどもはお礼を言うと去っていった。


 うんうん、感謝の言葉が言えるなんて良い子どもたちだ。ま、こっちとしてはカツアゲされたような感覚だが。


 トイレも済ましたところですっきりしてオペラ座へと戻る。


 豪華豪華なオペラ座ちゃん。劇は正直よく分からない部分もあるけれど――たぶんドレンスの人には常識なのだろうけど、俺からすれば説明不足を感じる――楽しいっちゃ楽しい。


 そんなことを考えながら受け付けを通ろうとしたところで、声をかけられた。


「あ、お客様」


「はい?」


 受け付けのお姉さんだ。お姉さんというには少々歳をとりすぎているかもしれない。


「チケットを拝見いたします」


「へ?」


「ですから、再入場のさいにはチケットをお見せください」


「あー、はいはい。チケットね」


 ――まずい。


 なんてこった、チケットは無くすからって理由でシャネルに預けたままだ。


 でもよく考えたらそうだよな、映画館とかでも再入場には映画の半券が必要だもの。


「あのー、チケット無いんですけど。入れてくれませんか?」


 ダメ元で言ってみる。


 受け付けのお姉さんは困ったような顔になる。


「申し訳ございません。チケットのない方の入場はちょっと……」


「ですよねー」


 きっと陽キャとかDQNだったらここで食い下がるんだろうけど、あいにくと俺は陰キャなのだ。


 現代の日本だと引きこもりの不登校でした。


 そんなおれがここで強く出られるわけもなく……。


 すごすごと引き下がる。


 オペラ座の前で座り込む。うーん、浮浪者になった気分。


 中ではいったいどんなお話が展開しているのか。っていうかシャネルのやつ心配してるかな?


 いや、してないなあの様子じゃあ。オペラに夢中だったからな。


 はあ……今日の俺は不幸だ。


 あと何時間くらいだろうか。


 パリィの夜は一人で過ごすには寒すぎる。早くシャネルに来て欲しい……。


 ま、俺が悪いんだけどね。


 ふと見れば、すこし離れた場所で先程も見たオペラ座ネズミの少女たちがいた。おやつだろうか、甘そうなクッキーを齧って二人で喋っている。


 俺は暇だったのでつい聞き耳をたてた。


「あそこのウォーターゲート商会はもうダメね」


「あら、そうなのぉ?」


「この前の武具の暴落で大損したんですってさ。だからね、だからね。最近は来ないでしょ? ボックス開いてるの」


「ええー、私狙ってたのになぁ」


「ばっかねえ、あんたなんかじゃ無理よ、無理」


「そんなことばっかり、すぐに言うんだからさ。私だって声かけてもらったことあるのよ」


「でもパトロンになってもらえなかったんでしょー」


「それにはあと2年かかったわね」


 貧相な体をした女の子が二人。それでも話しの内容はけっこうえげつないような気がする。たぶん、自分のことを囲ってくるかもしれなかった男の話しだろう。


 はあ、どこの世界でも枕営業ってあるのね。


 二人のオペラ座ネズミはこちらに気が付き、サービスのようにウィンクを投げてくれた。けっこうどうした、可愛いじゃないか。


 少女たちは本当にネズミのようにすばしっこくオペラ座の中へと戻っていった。


 あー、あとどれくらいこうしていればいいんだろうか?




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