393 テルロン陥落の報せ
エルグランドが帰ってきたのは、今日も夜の遅い時間だった。
俺はそのとき、自分の部屋(というか、客室)にシャネルと一緒にいた。俺はちびちびとワインを飲んでおり、シャネルは鼻歌とともに本のページをめくっていた。
とても平和な時間。
こんな時間が一生続くなら、それは幸せだ。もっとも、本当にこんな時間が永遠に続くならそれは退屈なものかもしれないが。
「ああ、ここにいたのですね。エノモト・シンク」
「いちゃ悪いかよ」
ノックもなしにいきなりドアを開けておいて、開けは放たれたドアをノックするとはいったいどういう了見か。小一時間とい詰めたいところだったが、いまは勘弁してやる。
「いいえ、悪くなどありませんよ。もう始めているのですか?」
もう始めているのですか。
その言葉にはどこか好意的な響きがあるように思われた。
もしかしたら、と思ったらエルグランドは後ろ手に隠していたボトルを取り出す。そして屈託なく笑ってみせた。
「なんだよあんた、また飲みたいのかよ」
昨日の夜も一緒にブランデーを飲んだのだ。
「ええ、そのつもりで来ました」
「しゃあねえな」
と言いながらも、俺は少しだけ機嫌が良い。
シャネルは俺よりもアルコールに強いけれど、俺のようにアルコールばかり摂取するダメ人間じゃない。だから必然的に、いつも俺は1人でワインなんかを飲んでいる。
けれど誰と一緒に飲む、それって楽しいことなのだ。
「ちょっと、その瓶ブランデー?」
シャネルが本から目をそらさずに聞いた。
「はい、そうですが?」
「やあね。ブランデーの匂いって嫌いなのよ。飲むのならどこかヨソでやってくださる?」
たぶん嘘だな、と俺は思った。
シャネルはエルグランドが嫌いだから、追い払おうとしているのだ。
「それは失礼しました。エノモト・シンク。私の部屋にどうぞ」
「あー、ちょっと待って」俺はエルグランドに少しだけ頭を下げて、「良いのか、シャネル?」と彼女に聞いてみる。
なにせ昨晩はこれで失敗したのだから。
もしかしたら行くな、と言われるかもしれないと思ったのだ。
「行ってらっしゃいな。私はね、殿方の世界に入ろうとするほどおバカでもなければ、愛する人が同性といることに嫉妬を覚えるほど狭量でもないわ」
「キョウリョウって、なに?」
「心が狭いことよ」
ふんふむ、つまりシャネルは器のでっかい女ということだな。ならそれに甘えるとしよう。とはいえあまり調子に乗りすぎないように。何時間かしたら帰ってくるべきだろう。
「じゃあ少しだけ行ってくるよ」
「ええ、私はここで本を読んでいるから」
たぶんそれはエルグランドの本なのだろうが、彼が文句を言うようなことはなかった。
俺たちは2人で部屋を出てエルグランドの部屋へと向かう。
「あんたさ、やっぱり友達いないんだろ」
「べつに友人くらいいます。ただ一緒に飲んでくれる友人がいないだけです」
それは……周りから嫌われているのでは?
まあ言わないでおこう。
そもそも俺だってそうだ、友達少ないほう。
「昔はいたのですがね」
「いなくなったのか?」
「ええ……」
もしかしたら聞いてはいけない話しだったかもしれないので、そのまま深く掘り下げることはしなかった。
昨日と同じ趣味の悪い部屋に行く。エルグランドが呼び鈴を鳴らすと、メイドさんがちょっとしたつまむものと氷を持ってきてくれた。
「今日は氷を入れるのか?」
「ええ。こちらは冷やして飲んだほうが美味しいのです。ものによって飲み方を帰る。これもまたツウのやりかたですよ」
「ほー、すごいもんだね。俺なんかいつも適当に飲んでるけど」
「ワインはどのように飲んでも美味しいものです」
さすがに2日も連続で一緒にアルコールを飲むと、エルグランドのこともそこまで嫌いじゃなくなってくる。
とはいえ、この男の全部を好きになれる日はこないだろうが。なにせこいつはイケメンだからな。それに、ナチュラルに人をバカにする態度をとるのだ。
「ああ、そんなことも知らないのですか?」
とか平気で言うのだ。
まあ良いんだけど、俺は人にバカにされるのには慣れてるんだ。とはいえ、好きじゃないが。
ブランデーで半分くらい酔ってきたくらいのとき、俺はなんだか嫌な予感がした。
べつに飲みすぎて吐きそうだとか、そういうわけじゃない。
なんだかとてつもなく嫌な予感がしたのだ……。
「ああ、もう氷を入れるのも面倒ですね。そのまま飲んでしまいますか。おや、どうしましたエノモト・シンク。いつにも増して辛気臭い顔をしていますよ」
「ほっとけ、辛気臭いのは生まれつきだ」
いや、べつに辛気臭くないはずだけど。こういうのを売り言葉に買い言葉というのだ。
それよりも……嫌な予感が消えない。
払拭するためにブランデーを飲むが、ぜんぜん意味がなかった。
変な言い方になるが嫌な予感が近づいてくるようだ。
そんなことを思っていると、本当に足音が近づいてきた。どうやらかなり慌てているようだ。
「誰か来るぞ」
と、いちおうエルグランドに忠告しておく。
「おや、誰でしょうか」
「さあ、そこまでは分からないけど」
いきなり、扉が乱暴にノックされた。
エルグランドはブランデーを優雅に一口飲んでから、「どうぞ」とうながす。こういう所作の一つ一つがいかにも貴族っぽい。
貴族ってなんだ?
エルグランドの言葉に応じて、部屋の扉が開けられる。入ってきたのはメイドさんだ。
「失礼します! エルグランド様、宮殿から使いのものが!」
「騒々しいですね。使いのもの? なんの要件ですか?」
メイドさんはちらっとこちらを見る。
この人の前で言ってもいいのですか? と、そんな表情だ。
「あの……その……」とメイドさんは迷っている。
「なんです? 軍事に関わることでしたら言ってくれても大丈夫ですよ。彼は私たちと戦う仲間なのですから」
「おいおい」
いつの間に俺も仲間になったんだよ。これじゃあまるで、この前の特別部隊の隊長の件を引き受けたみたいじゃないか。
「あの、それでは――エルグランド様、テルロンが陥落しました!」
「なんですって?」
「テルロン?」
はて、どこかで聞いたことがあるような地名だ。どこだったかな……。忘れちゃった。
「至急、宮殿に来てほしいとのことです」
「分かりました。エノモトさん、行きますよ」
「え?」
俺も?
エルグランドは立ち上がる。だが脚がふらついた。
「エルグランド様!?」
メイドさんが慌ててエルグランドを支えた。
「まずいですね、少し飲みすぎました。水を持ってきてください。それと馬車の用意を。我々は準備が整うまでここで休んでいますので」
「かしこましました!」
メイドさん早足で出ていく。
エルグランドは椅子に深く腰を下ろす。
「どう見ても飲みすぎだな」
と、俺は言いながらブランデーをすするように飲む。
「まったく、貴方という人は。大物かバカかのどちらかですね」
「どっちだと思う?」
「前者でなければ我々が困ります。私と、ガングーが」
しばらくすると、メイドさんが水を持ってきてくれた。馬車の準備ができたとも言う。
「ま、楽しそうだし行ってみるか」
俺は独り言のように言う。
昔から夜に外を出歩くのは好きだった。引きこもりの頃も夜だけは外に出られた。
それに、なんだか嫌な予感がするのだ。ここでついていかなければいけないと、俺の勘がそう告げている。
――コチリ、と何かがまわったような音がした。




