368 自転車キコキコ
男の子が自転車に乗っていたいたので、興味もないが眺めていた。
キコキコ。
バタン。
あ、転けた。
「おいおい、大丈夫かよ」
子供相手には人見知りをしない男、榎本シンク。
駆け寄って、男の子に手を差し伸べた。
「大丈夫だい!」
男の子は俺の手を払いのける。
「そうかそうか、偉いな」
古い時代の自転車といえば前輪だけが異様に大きなものを想像する。けれどこっちの異世界でも最近は両方の車輪が同一の大きさの自転車が開発されたらしい。
素晴らしいことに前後のタイヤはチェーンでつながっている。
時代が進歩している、と俺は思った。
俺は最初、この異世界を中世だと思っていた。いや、中世とかよく知らないけど。知らないからこそそう思っていたんだ。
けど、最近は少し違うのではないかと思うようになった。
この異世界は確実に文明を進歩させている。それはアイラルンの狙いだった。
「なあ、少年」
俺は自転車に乗っている少年に話しかける。
「なんだよ、あんちゃん」
「自転車、乗るの初めてか?」
「そうだよ、だから練習してんだ。見てわかんないのかよ」
なんというか、やんちゃな子供だなあ。
俺も昔こうだっただろうか? いや、俺は昔から良い子でしたよ(自称)。
俺はいま、シャネルを待っていた。シャネルはアパートの中で着替えをしている。それが終わったらギルドに行く予定なのだが。
いやはや、女性の準備は長いというあれだ。
「それ、どこで買ったの?」
「あんちゃんも欲しいの?」
「少しね」
自転車があると便利そうじゃないか。
「でもこれ、ここらへんじゃ売ってないよ。僕のパパがグリースから取り寄せてくれたんだ。すごいだろ、あっちじゃこういう乗り物があるんだぜ!」
「へえ」
なるほど、グリースか。
金山の国、あそこは自動車なんかもあったからな。自転車があっても不思議じゃない。
俺の知っている限り、この異世界で一番科学技術が発達していたのはあの国だ。
「でもこれ、難しくて」
「まあ自転車なんて最初はそんなもんさ」
「え、あんちゃん自転車乗ったことあんの!?」
「そりゃあね」
「すげえ、僕の周りでも誰も乗ったことないのに! あんちゃん、ツウだね!」
どこでそんな言葉を覚えてきただ、と俺は少し笑った。
そういえばこの子、けっこう身なりの良い格好をしているな。
貴族、とまでは言わないがけっこう偉い商人の息子とかだろうか。なんにせよ裕福そうな家の子だ。
「ちょっと俺にも貸してみてくれないか? 手本みせてやるよ」
「え、本当に?」
「本当本当、取ってたりしないから安心しな」
男の子は気前よく自転車を明け渡してくれた。
気は強そうだが、素直な良い子だ。
俺はサドルにまたがる。
「ああ、こりゃあちょっと高いな」
「どういうこと?」
「このさ、お尻を乗せるところ。サドルって言うんだけど、この位置が高いんだよ。だからまたがっても地面に足がつかないだろ?」
「うん」
「それじゃあ危ないからな。キミが乗るときはもう少し下げた方が良い。またがったときに両足のつま先が地面につくくらいが丁度いいよ」
ちなみに、ここらへんの好みは個人差がある。
ただ自転車のサドルというのは少し高めの方が漕ぐさいにも楽だし、スピードも出るというのが俺の持論だ。
ペダルを漕ぎ始める。
乗ったのは久しぶりだが、意外となんとかなるもんだ。
「おお、すごいよあんちゃん!」
「どんなもんだい!」
少し行って、ターン。
調子に乗って立ち漕ぎからの両手離し。
「うわぁ、すげえ! どうやるの、どうやるのそれ!」
「ま、ちょっとしたコツさえ覚えれば誰でもできるさ」
ちなみに一輪車とかも得意ですよ、俺ちゃん。
小学校の頃によく練習したもんね。竹馬とか、あと皿回し(なんで?)とか。たいてい金山は上手じゃなかったけど、俺は簡単にできたんだよな。
俺は自転車から降りる。
とりあえずサドルの調整をしてやる。良かった、工具とかなくてもできるタイプだった。
「ありがとう」
「偉いぞ、ちゃんとお礼が言える」俺は男の子の頭を撫でてやる。「ほら、乗ってみろ」
男の子はくすぐったそうに笑ってから、自転車に乗り込んだ。
「あ、乗りやすいかも」
「だろう? 最初は俺が後ろ抑えておいてやるよ」
「うん」
男の子はよちよちと自転車を漕ぎ始めた。
スピードはゆっくりだ。バランスがあまり取れていないので、後ろから抑えなければすぐに倒れてしまうだろう。
「じつはな、少年」と、俺は言う。
「なに?」
「自転車ってのは、早く走ればその分だけ転けにくいんだ」
「本当?」
「おう。だから勇気をだしてペダルを踏み込んでみな」
「分かった!」
男の子はペダルを強く踏み込む。
「よしよし、その調子だ!」
スピードに乗ってくる。けれど、これ以上行けば大通りというところでゆるめて、ターン。
ここらへんは路地裏で、人通りも少ない。そのくせ道が一直線に長いから自転車の練習にはもってこいだ。
もう一度、今度は逆の方向に男の子は自転車を漕ぐ。
それなりにスピードが乗ったところで――そろそろかな。
俺はこっそり手を離す。
「いいねえ、完璧だよ!」
けれど後ろを走ってついていき、声だけはかけてやる。
「本当?」
「おう、大丈夫だ。まっすぐ行けてる!」
俺が手をそえていないのに、男の子は転けることなくしっかりと自転車を漕いでいる。
いいぞ、いいぞ。そのままだ。そのまま行ってしまえ、どこまでも。幼い頃の純粋なまま。
俺はそんなバカなことを思ってしまう。幼い子供に自分の叶えられなかった夢をたくすのは、歳をとった人間のやることさ。
「自転車って面白いね!」
あっ。
男の子が後ろを振り向いた。
それで気づいた。もう俺が後ろを押さえていないことに。
「あちゃー」
「ぎゃっ! 嘘つきッ!」
男の子は気づいた瞬間に、ドテンと倒れた。
「だ、大丈夫か?」
「いつの間に離してたんだよ!」
「あはは。まあ少年よ、これは伝統的な自転車の練習方法さ」
いつの間にか後ろをつかんでいないってね。
俺の調べによれば自転車の練習をした人間のじつに9割はこれをされたことがあるという。こういう経験をへて、子供は大人というものが信用できないことを知っていくのだ。
「うー、でもちょっと乗れてたよね?」
「おう、乗れてたぞ。前向きだな、キミ」
「まあね、もっかいやってみる」
「おう。後ろ、抑えておこうか?」
「また離すんでしょ」
「今度は離さないって」
離すけど。
キコキコキコと自転車に乗る子供。
なかなか筋が良いようで、すぐにさまになってきた。
そして……。
「よし、手を離すぞ!」
「え、本当に離すの!」
というかもう離しています。
それでも男の子はまっすぐに自転車を漕ぐ。通りの向こうまで行って、きちんと止まる。そしてまた帰ってくる。
「やったな、乗れるようになった!」
「えへへ。ありがとう」
「おう、良かったな」
手を出してハイタッチ。この文化、異世界でも通じるのね。
そんなことをしていると――。
「あら、シンク。遊んでもらってるの?」
アパートからシャネルが出てきた。
真っ黒いゴスロリ・ドレスは喪服のようだ。
「ちげえよ、練習だ。遊んでるわけじゃない。俺たちゃ真剣なんだよ。なあ、少年?」
「そうだよ、真剣なんだ!」
「ふうん。まあ、何でも良いけど。もう行けるわよ?」
「そうか。じゃあ少年、またな」
「うん。あんちゃん、ありがとうね、教えてくれて」
「おう、これからも練習しろよ。お父さんにも見せてやると良い、乗れるようになったよって」
「うん!」
俺たちは男の子に見送られて歩き出す。
「なあに、あの乗り物?」
「自転車って言うんだ。知らないだろ」
「うん、人力で動くの?」
「そうだよ。けっこう便利なんだぜ」
「私は乗りたくないわ」
というかシャネルが乗ったら車輪にスカートを巻き込んでとんでもないことになりそうだ。
そんなことを思いながら、俺たちは歩く。
向かう先はベルサイユ宮殿。
そう、つまりはこの国の中核。
ガングー13世が待つ場所だった。




