348 英雄ガングー
またしても真っ暗な空間に戻る。
これで何度目だろうか。この記憶の光景を俺はあと何度見れば良いのだろうか?
遠くに光が見える。まるで俺を待ち構えるように輝いている。
しょうがない、と俺はそちらに向かおとする。
『ダメですわ!』
しかし、声が聞こえて立ち止まる。
はっきりと聞こえた。
この声は――アイラルンの声だ。
なんだよ、久しぶりじゃねえか。
本当はこんなわけの分からない場所に閉じ込められていて不安でいっぱいだった俺ちゃん。アイラルンの声が聞こえて、思わず口元がにやけてしまった。
「やあやあ、これは親愛なる女神様よ。どうしたよ、こんなところで」
『朋輩、軽口を叩いている場合ではありませんわ! 早くそこから出てくださいな!』
「そりゃあ出たいのは山々だけどさ。どうやって?」
『ああっ、もう世話の焼ける! 朋輩、ちょっとまっていてくださいまし! 今からそっちに行きますから!』
「あ、来られるの?」
声だけだと寂しいからね。じゃあ早く来てね。
『それまでその光には絶対に触れないでください!』
え?
まるで通話がいきなり切られるようにアイラルンの声は聞こえなくなった。
「なんだったんだよ」
たぶんさっきからちょくちょくしていた声はアイラルンのものだったのだな。
それにしても最後、触るなって言ったよな。
……ムズムズ。
ダメだ、我慢できない。触るなと言われたら触りたくなるのが人間というものだ。さっきもそうだったけど、実際にはっきり言われると余計にこう……我慢ができない!
「いやあ、疲れたなぁ。おっとっと!」
わざとらしく転けてみる。
そのまま光を触った。
「あ、まずい! アイラルンごめん、転けて触っちゃった!」
いちおう言い訳。
声が聞こえた。
『朋輩のバカァアアァッッ!』
あっ、けっこうマジな感じだった。
どうやら本当に触っちゃダメだったらしい。でももう触ってしまったものはしょうがない。
真っ暗な場所から、俺はまた魔王の記憶の中へと入る。
その記憶の中で、ブルアットルはすでに兵隊から退役していた。
小さな村で過ごすブルアットル。その隣には結婚を誓った恋人の姿もあった。お世辞にも美しいと言えるのか微妙な女だった。いかにもな田舎娘。けれどブルアットルはその女のことをそれなりに愛しているようだった。
ある日のことだ――。
村の前を軍隊が通ることになった。誰の軍隊か――人民皇帝ガングー、その人が率いるドレンス大陸軍である。
「皇帝陛下万歳! 皇帝陛下万歳! 皇帝陛下万歳!」
ガングーの乗る馬車に向かって、村人たちは口々にそう叫んでいた。
そしてブルアットルも。
馬車の椅子に深く腰を下ろして、ときおり窓から手をふる男。ガングー。
にこやかな笑顔で。
それでまた村人たちは叫びだす。「皇帝陛下万歳!」
ブルアットルも同じように叫ぼうとした。
しかしこの時のブルアットルには、あの日のような熱狂はなかった。それどころか、彼は不遜にもこう思っていたのだ。
――ああ、羨ましい。羨ましいのだ、俺は。ああなりたい、ガングーになりたい。
あるいはそれは誰もが思うことかもしれない。
男として生まれたからには、一度は世界を我が物にしたいと思う。けれどそんなのは子供の頃の妄想のようなもの。普通はそうである。
しかしブルアットルの目の前にはいま、その妄想を叶えた男がいた。
彼は貪欲に、ガングーに憧れた。
「皇帝陛下万歳」と、言ってみる。
けれどその声は暗かった。
ガングーの乗る馬車は盛大な音楽と共に走り去っていった。
その馬車が見えなくなるにつれ、ブルアットルの中に怒りがわいた。自分の隣にいるブス女を見た。どうしてこんな女を――自分は愛したのか。
皇帝ガングーにはビビアンという名前のたいそう美人なお妃様がいる。けれど自分はどうだ? 夜ごとにブスを抱いて満足している。
――お前たちは満足か?
あの日のガングーの言葉が蘇ってきた。
間違いなく彼は満足などしていなかった。
その日の夜からブルアットルは許嫁に対してよそよそしくなった。
自分もガングーのように、という思いは日に日に高まっていった。
その熱意が最高潮に達した頃――それは6月の末だった。ドレンスには梅雨はなかったので、その日はからっとした晴天だった。ジューンブライド、つまりは結婚式日和だった。
けれどそのときにはもうブルアットルは正式に許嫁との婚約を解消していた。そして彼は村を出る準備をしていた。
そんなタイミングで、ガングーの軍隊がまた村の前を通ることになった。
………………。
俺は、その軍隊を見た。
最初に通った時とは違う、いかにも敗残兵といった具合の軍隊だった。
――ああ、これは負けたな。
そんなこと誰が見ても明らかだった。
そういえば昔、シャネルが言っていた。ガングーはその生涯に3度、敗北をきっしたと。たぶんこれがそのうちの1つなのだろう。
行くときは盛大な音楽があったのに、それがない。こころなしか馬たちの歩みも遅い。
ガングーの馬車はおそらく後方にあったのだろう、汚れ一つなくピカピカだ。けれどそこに乗る男は。うつむいて、頬杖をついていた。
その顔にはいつか見た自信がなかった。ただ自らの運命を受け入れた男の諦めのようなものがあった。
その姿は悲痛で。
俺は思わず目をそらしそうになった。
けれどブルアットルは違った。
嬉しそうな顔をしている。それはまるで、ガングーが凋落したことによって自分との差が縮まったとでもいうような。
あいつにできるのならば、俺にも。おそらくブルアットルはそんなことを考えていた。
ブルアットルは居ても立っても居られずに、手を振って叫んだ。
「皇帝陛下万歳!」
ガングーは、はっと顔を上げた。
ブルアットルがなぜそんなことを叫んだのか、俺には分からない。ただの嫌味か。それとももっと深い意味があるのか。
たぶんガングーもその意思をはかりかねたのだろう。
しかし、しかしである。
ガングーは笑った。
そして手を振り返した。
さてはて、その真意はどのようなものか。俺にも、ブルアットルにも分からない。俺たちは英雄ではない。2人ともただの凡人だ。
だからこそ、力強く手をふるガングーはやはり格好良く見えた。
ガングーは馬車の窓を開ける。
「おい、どうしたよお前たち! 音楽を鳴らせ!」
ガングーの声で、盛大な音楽が鳴り出す。その音はやけくそ気味で、とうとう皇帝の頭がおかしくなったのかと誰もが思った。
だが違う。
ガングーはしっかりとした目でキンサン・ブルアットルを見つめた。
「ありがとう」
ガングーはたしかにそう言った。
そして馬車は去っていく。
「ああ、英雄か」と、思わずつぶやく。
何度倒れてもまた立ち上がる、それが英雄というものだろう。
ブルアットルは呆然として、ついで怒りに顔を歪めた。
まるで自分とガングーの格の違いを知らされたような。負けた、と思っているのだろう。その敗北感を怒りで必死で抑えようとしている。
憤怒の表情でガングーの馬車を見送るブルアットル。
ブルアットルの旅立ちの時が来たのだと察する。魔王が誕生するそのきっかけを俺は見たのだった。




