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308 甲板にて


 船内では一組につき一部屋が割り当てられた。


 そもそもこのグレート・ルーテシア号は定期船らしく、俺たちは冒険者以外の人間もたくさん乗っていた。


「重大な任務に行くための船が定期船って……」


 専用の船でも用意してくれればもう少し雰囲気もでるというものなのに。


「しかたないんじゃない? そもそも勝手に船を出してグリースに行く、じゃああっちの港で怪しまれるでしょうし。こうやって少数で定期船に乗れば、魔王を暗殺しようとしてるとは思われないでしょう」


「まあ、たしかにそうだけど」


 船の中の部屋っていうのは、どうも落ち着かない。


 ベッドがあるだけの簡素な部屋。食事はそれ専用の食堂があるのでテーブルすら置かれていない。


 部屋のどこを見回しても木でできた壁に囲まれて、いちおうある窓からは水平線しか見えない。つまらない。


 あるいは独房のようにも思えたが、しかし二人分のベッドがあるのでかろうじて部屋としての体裁はととのえていた。


「これ、どれくらいでグリースにつくんだろうか」


 昼食の後、俺はあまりの睡魔に一眠りした。それで起きたときには、船は出港していた。


「さあ、知らないけど」


「船の中で何年も――とはならないよな?」


 なんかそんな漫画あったよね。妖精島についたら起こして。え、もうついたんですか?


「たぶん2、3日だと思うけど」


「ふーん」


 シャネルはベッドの上で横になっている。


 その様子はどこかアンニュイで、だからこそエロティックでもあった。俺は生唾を飲み込む。


「な、なあシャネルさん」


「なあに?」


「キミはずっとそうして寝ているのかい?」


 つまりなにかい、俺のことを誘っているのかい?


「そうよ」


「どうして?」


「知らないの? 女の子は寝るのも仕事のうちなのよ。古いことわざにあるわ、『お姫様はよく眠る、王子様を待つ間』ってね」


 そんなことわざ、見たことも聞いたこともないし、そもそも意味もわからない。


 けれど精一杯の意訳をすれば、すなわちそういうことだろう。俺が王子様である、と。


 とうとうなのか?


 と、俺は思った。


 ここなのか、俺が男を見せるのは。


 榎本シンク、18歳。童貞である。


 異世界に来て1年以上の時間が過ぎている、すなわちシャネルともそれだけ長い時間を一緒に過ごしたことになる。


 雨の日も晴れの日も一緒にいた。


 しかし俺はまだ童貞、キスまでしかしかことがない。逆に言えばキスくらいはしたことがある。それってちょっと、すごいことだ。あっちの世界にいた頃の俺なら考えられない。


 こんな、こんな美少女とキスするなんて!


 ならさ、ほら。もう少し先までできるんじゃないだろうか。


 シャネルが顎をあげて目を閉じた。


 何かを考えているようにも、何かを待っているようにも見える。


「なあ、シャネル――」


 俺はゆっくりとベッドに近づく。


 そして、まずはキスでもしようと顔を近づける――。


「あ、そうだわ」


 その瞬間、シャネルが目を見開いた。


「ど、どうした?」


 慌てて後ろに下がる。


「シンクこそどうしたの、そんなによってきて? なにかあったかしら?」


「ナニモナイヨ」


 どうやらシャネルが俺のことを求めているのは、妄想だったらしい。


「まあいいわ、それよりもシンク。せっかくだから船の中を散策しましょうよ。そういうの好きでしょ、あなた」


「まあ好きだけどね」


 それ、このタイミングでやることでしょうか?


 いや、じゃあいつやるかって問題もあるけど。


「そうと決まれば――」シャネルはぴょんとベッドから立つ。「行きましょうか」


 どうやらいまだにテンションは高いままらしい。


 俺としては船の上というのはなかなか、しょうじき嫌だ。けっこう揺れるから酔いそうになるのだ。慣れていない人間はよく船酔いをするというが、本当にそのとおりだと思う。


 実際、俺もいま少し気持ちが悪い。


 部屋の外に出る。


「とりあえず甲板に行ってみましょうか」


「甲板ねえ……」


 ついていく。


 シャネルがこうして率先するのは服屋さんくらいで、こういう場所では間違いなく珍しいことだ。


「そういえばシンク」


「なんだ?」


「グリースについたらね、行きたいところがいくつかあるの」


「そりゃあ良い」


 住居区間から通路へ。船の内部は一本道なので迷うこともない。


 階段を登っていくと、甲板に出る。


 甲板には少しだけ人が多いようだった。


 なんだろうか、と疑問に思うがその理由はすぐに理解できた。


「見て、シンク」


 シャネルが太陽を指差した。


 空が茜色に染まりだす。


「ほう……」と、俺は思わず感嘆の声を漏らす。


 綺麗だった。


 太陽がゆっくりと沈んでいる。そうなればもう太陽という呼び方は適切ではなく、夕日と呼ばれるものになる。


 そして太陽が沈むことを斜陽といい、それは一般に勢いのあったものが衰退する意味でも使用される言葉だ。


 だとしても、実際に目の当たりにする自然現象としての斜陽は美しい。


「あれが沈めば夜になるのよね」


「そうだな」


 船の甲板に備えられたライトが点滅しはじめた。そして淡い光を放つ。しばらくするとその光は強くなった。


「夜の間も船は進むのかしら?」


「たぶんな。船乗りたちは星を見て進む方向を決めるんだ」


「本当?」


「ああ、もちろんさ」


 そういうのを聞いたことがある。


 けれど、近くにいた水夫さんが笑った。


「おいおい、坊主。そりゃあ大昔の話さ!」


「え、そうなんですか?」


 いきなり笑われたことにちょっとした羞恥心を感じた。


「当たり前よぉ! 最近じゃコンパスもある、海図もある。星を見て決めるなんて最終手段さ。もっとも、本当に海図と進行方向があってるか調べるために星を見る、ってのはなくもねえがな」


「そうなんですか」


「そういうもんよ」


 トントン、と肩を叩かれる。水夫の男は中に戻っていった。


 甲板からは中にいくための階段が2つある。1つは俺たち客のためのもの。もう1つは水夫さんたちのためのもの。そっちは俺たち客は立ち入り禁止だ。


 にしてもなあ。うわぁ……知ったかぶりしったった。恥ずかしい。


 おそるおそるシャネルを見る。


 シャネルはニコニコしていた。


「と、いうことだそうです」


 俺は言ってみる。


「そうね。初めて知ったわ」


「本当にね」


 俺が恥ずかしがっているだけで、シャネルはぜんぜん何も思っていようだ。


 空が暗くなってきた。


「中に戻るか?」


「いいえ、もう少しいるわ」


 俺たち以外の人が中に戻っていく。


 そりゃあそうか、こんな暗くなってきたら見るものもないしな。それこそ星くらいか。


 シャネルが甲板の先に向かって歩いていく。


 さっきまで先客がいたからな、人がいなくなって順番が回ってきたとばかりだ。


「あ、おい。あぶないぞ?」


「平気よ」


 舳先へさきまで行くと、シャネルは海を覗き込んだ。


 俺も隣へ行く。


「なんか見えるか?」


「なぁんにも」


 シャネルはそう言ってケラケラと笑った。それはまるで酔っぱらっているような笑い方だった。俺は彼女が何を考えているのか、まったく分からなかった。


 俺の覗き込んでいみた。


「本当に何も見えないな」


「楽しくないわ」


「じゃあ戻るか?」


「いいえ、もう少し」


 わけがわからない、と俺は首を傾げた。


 変なやつ、なんだかココさんにも似ているように思える。いや、2人は兄と妹なのだ。ある程度は似てもおかしくないだろう。けどシャネルはいままでこういうことをしなかった。


 言うなればワガママ、それを言わなかった。


 俺が戻ろうと言えば素直に戻っただろう。


 まるでそう、人形のように。


「なあ、シャネル? なんかあったか?」


 気になって聞いてみた。


 もしかしたらまた体調でも悪いんじゃないかと思ったんだ。


「ううん、なにもないわ。ただね――」


「ああ」


「私はあの人とは違うわよ? ティアさんって言ったかしら、あの人とは」


 どうしてここでティアさんの名前が出てくるのだろうか。


 でもすぐに察した。


 シャネルは嫉妬しているのだ、あの子に。俺がエルフばかり気にするからだろうか。俺が他の女の子を見てばかりいるからだろうか。


 この船に入る時にシャネルの手を取った。それはシャネルに気を使ったのもあるが、金山への対抗心もあった。


 ――張り合うな。


 と、シャネルはこの前、俺に言っていた。


「ごめん」


「なんで謝るの?」


「え、だってお前。俺がティアさんに目移りしてたから怒ってるんじゃないのかよ」


「まさか。だってあたなは私のこと、大好きでしょう?」


「そりゃあ……」


 そうだとしても面と向かって言われると困るぞ。照れるぞ。言葉に詰まるぞ。


「そうじゃなくてね、私が言いたいのは。あの人、気味が悪いから。人形みたいでさ、自分の意思なんてないじゃない。帽子をあげたのにさ、喜びもしない」


「そうか?」


 喜んでた気もするけど。それに気に入ってるからこそつけているんだと思ったが。


「だからね、私もああなっちゃ怖いから、少しだけワガママ言ったの。嫌だった?」


「いや、そういうことならぜんぜん」


 ただ、俺はシャネルに嫌われるんじゃないかと恐れただけだ。


 やれやれ、俺はいつもそうだ。


 シャネルのことは好きだけど、自分に自信がない。だからいつか彼女に嫌われるんじゃないかと戦々恐々としている。


「ま、あんまりワガママを言うのも得意じゃないから、この程度で許してあげるわ」


 やれやれ、と俺は思った。


 やっぱりこの子も変だ。


 でもそんなシャネルが、俺は好きだった。



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