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268 風邪には長ネギ


 もういったい何杯目だろうか。分からないけどたくさん飲んだのは覚えている。


「ガングー法典を知っているかね?」


 美少女、ここではかりにビビアンと呼ぶことにしよう。


 偽名らしいがいまはそう呼ぶしかない。


「知りませんね」


「知らない? まさか、名前を知らないだけさ。ガングー法典と言ってもべつにガングーが考えたものではなく、ガングーが主導で作ったものだがね。このドレンスの現行法だから覚えて置かなければいけないよ」


「べつに俺は弁護士じゃありませんよ」


 酒に口をつけて、やっぱり飲むのはやめる。


 完璧に飲みすぎた。たぶん明日は二日酔いだろう。


「つまりガングー法典によると、25歳になるまで親、ないし保護者の許しがなくては結婚できないのだよ」


「へえ」


 たしか日本でも同じような法律があったな。男の子は18から。女の子は16からだったか。それに比べたらドレンスの場合はずいぶんと遅いように感じる。


「つまり我々はまだ結婚できないのだよ。それまで愛を育もうね」


「なに言ってるんですか、あんた」


 またわけの分からないことを。


「それはそうとして生きるというのはじつに因業なことだねぇ」


「なに言ってるんですか、マジで」


 この人、酔っ払ったらてきとうなこと言いまくるタイプだな。


 俺とは真逆かもしれない。俺はどっちかというとふさぎ込むタイプだからだ。


「生きる! 生きるというのは死への長い旅路である!」


「詩なら自分の部屋で、1人で日記帳にでも書いててくださいよ」


「なかなかキツイこと言うじゃないか。あれ、それよりもキミ。シャネルさんはどうしたんだい? 一緒じゃないのかい?」


「いまさらそれを聞きますか?」


 もう何時間一緒に飲んでると思ってるんだよ。


「もしかしたらあれかな、浮気かな? 私、もしかして浮気相手にされてる!?」


「なに言ってるんですか。シャネルは風邪ですよ、いま家で寝てます」


「風邪?」


「はい」


 ビビアン(偽名)はあごに手をあてると、真剣な様子でなにかを考えはじめた。


「どうしました?」


「あ、いやね。風邪か。大丈夫なのかい?」


「たぶん」


「たぶんってキミも無責任な男だね」


「無責任……たしかにそうかも」


 言われてから気づいた。


 ビビアンは酒をあおるようにして飲むと、ケラケラと笑った。「そのうち愛想つかされても知らないよ」と、俺を脅すように言ってくる。


「そう言われると不安になってきた。俺、そろそろ帰ります」


「おやおや、そんなに酔っぱらって家に帰れるのかい? どうだい、今晩はお姉さんと一緒にこの上で寝ないかい? キミがしたことないような経験をさせてあげあれるよ?」


 こ、こいつ……俺が童貞だと知っている!?


「す、すいません。初めては好きな人と一緒にって決めてるんで」


「おいおい、キミ! もしかしてまだシャネルさんとやってないのかい! いったいどれくらい一緒にいるんだ? 1年、2年?」


「まあそれくらいですけど……」


「不能なのかい?」


「なんでそーなるんですか!」


 いや、客観的に見てそう見られてもおかしくないのか? なんにせよ失礼な話しだ。


「まあそれは冗談としてもさ、キミ。さっさと帰ってやればいいんじゃないか? 店主、店主、ネギをくれたまえ」


 ビビアンが叫ぶように言う。


「ネギですか?」


「風邪といえばネギだろう?」


 え、いや。聞いたことない。


 俺は店主が持ってきたネギを持ち、店を出る。支払いはなんだかんだでビビアンがやってくれた。最初は俺が払うって話しだったんだけどな。


「じゃあ、帰りますんで」


「うむ、さっさと帰りたまえ。そしてシャネルによろしくね」


 ビビアンはどこか親しげにシャネルの名前を呼んだ。


 それに違和感を覚えながらも、その違和感の正体が分からなかった。


 ばいばーい、と手をふるビビアンを背後に、俺はシャネルの待つアパートに帰った。


 手にはネギがある。ネギと言っても長ネギだ、どこぞの電子アイドルみたい。


 それを持ってアパートへ。


 タイタイ婆さんに嫌な顔をされた。


「すごい臭いだねえ」


 ネギだ。


「新鮮なんで」


 アパートの鍵を開けてもらい、部屋へ。


 静かにノック。もし寝ていたら起こさないように、と。


 返事がないのでそっと入る。


「ただいま」


 小さな声で言う。


「……ううんっ? シンク?」


 シャネルは寝起きのほうけた声で俺を迎えてくれた。


「起こしちゃったか?」


「そうね、でもべつに深くは眠ってないわ。なあに、それ?」


「ネギだよ。風邪にきくらしいけど」


「ああ、臭いが独特だから風邪の病魔が退散するってやつ? うふふ、田舎の風習よ。パリィでそんなことやってたら笑われるわ」


「そうなのか?」


「まあ、でもありがとう。懐かしいわね。小さい頃は風邪をひくたびにお兄ちゃんがとってきてくれたわ。べつにこれで治るわけじゃないでしょうけど、あるだけで気休めにはなるわ」


「なら良いもんもらったよ。ビビアンさんに感謝だな」


「ビビアン?」


「あっ」


 口が滑った。


「女?」


「偽名らしいけどね」


 なんの言い訳にもならない。


「ビビアンなんて偽名、普通ドレンスじゃあ名乗らないものよ。そうとう変な人ね、その人」


「そうなのか?」


「だってビビアンってガングーの妻、つまりは王妃様が名乗ってたっていう偽名よ。ある意味では由緒正しい偽名ね。私はそんな名前、嘘でも名乗れないわ」


 ぼうっとしているようでシャネルの目はうつろだ。


 もしかしたら意識も半分くらいしかないのかもしれない。


「変な人ね、でもなんだか気になるわ。ねえ、その人きれいだった?」


「お前のほうがきれいだった」


「あら嬉しい」


 このネギどうするんだろうか、と俺はシャネルにネギを渡す。


 シャネルはそれを首に巻いた。


 ああ、なんかこういう民間信仰みたいなの聞いたことあるわ。


「ごめんなさい、もう一度寝るわ。どうにもこうにも疲れがたまってるみたい」


「分かったよ」


 俺も酔っているからな。


 ベッドはシャネルが占領しているので、ソファに横になる。この前、たまたまもらってきたソファだ。


 依頼主がお金がないというので、このソファで手をうった。


 一眠りするのに丁度いい大きさ。これが家に来てからというものの、俺の寝床はここになっている。


「ふふん、ビビアンねえ。ねえ、シンク。その人まさかビビアン・カブリオレって名前じゃなかったわよね?」


「知らない、そこまで聞いてない」


「ちょっとだけ気になるわね、ちょっとだけよ」


「早く寝ろよ」


 俺も寝るから。


 明日はシャネルの風邪が治っていればいいな。そしたら2人で出かけられるんだけど。そう思って、俺は眠りにつくのだった。



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