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261 指輪を受け取ってほしいんだ


 ガス灯の明かりに照らされた大通りを、一組の男女が走っている。


「追ってきてるかな!」


 後ろも振り向かずに一心不乱に走るレオンくんだが、ナナのほうは意外なほどに冷静だ。


「相手もそう本気では追ってこないでしょう、どうせこっちにお金がないのは分かってるんだから。いっそのことそのこのまま逃げ切れば踏み倒せるわ」


「でもそんなことしたら田舎の両親のところに請求が――」


「はあ、呆れた。あんたってクソがつくほど真面目な男ね。バカ正直に仕立て屋に実家の住所を教えたの? そんなのてきとうに言っておけばよかったのに」


「その手があったか!」


「本当に、呆れた。……まあ、そういうところが好きなんだけど」


「え。なにか言った、ナナ?」


「別になにも言ってないわ」


 ここらで良かろうかとレオンくんは立ち止まる。


 ナナも息を切らしてそこらへんの壁に背中を預けた。


「それでレオン、これからどうするのよ。逃げられたのは良いわ。けどほとぼりが冷めた頃には私たち、帰る場所もなくなってるわよ」


「え、どういうこと?」


「あんたねえ、バカ正直な上にお人好しなんだから。あの大家がどうしてあんな真摯に私たちを逃してくれたと思うのよ」


「そりゃあ情にほだされてじゃ?」


「はあ……」


 ナナは自分の赤茶けた髪をいじりながら、唇を突き出す。


「そんなわけないじゃない。あんたこの時期って言ったら田舎から学生どもがこぞって出てくる時期よ?」


 レオンくんが大学を卒業するということは、しばらくすれば新しく入学する者たちもいるということだ。


「つまり?」


 そう察しのよくないレオンくんはナナがなにを言っているのか分からない。


「だから、あの部屋はそういう学生に貸し出されるに決まってるでしょ。家具付きの屋根裏部屋、日当たりは皆無だけど簡易ベッドはある。月になんスーで借りてたかしらないけれど、こんな条件ならすぐに借り手は見つかるでしょうね」


「つまり俺たちは体よく追い出された、と?」


「まあそういうことね。でも恨むようなものじゃ――」


「そっかぁ、大家さんもよく考えてるな」


「――怒ってないの?」


「え、どうして?」


「ときどきあんたって頭がたりないだけなんじゃないかって思うわ」


 さて、では下宿もなくなりどうしようかと頭を抱える。


 やはりこうなれば田舎に戻るしかない。


 しかし田舎に戻ったところで支払いは残るのだ。


 そしてそこにナナはついてきてくれない。


「あのさ、ナナ――」


 レオンくんはずっと手に持っていた指輪を差し出そうとする。


 こんな場所ではロマンもへったくれもないが、渡すならばいまかと思った。


「なによ」


「こ、これを――」


 しかし指輪を渡そうとした時、背後から怒号が聞こえた。


「こっちだ、いたぞっ!」


「うそ、追ってきた? レオン、逃げるわよ」


「う、うん」


 ナナもまさか追ってきているとは思わなかったのだろう、慌てた様子だ。


 こっちよ――とナナに案内されて裏道へ。パリィの裏通りはとにかく複雑というのは何度も説明したことだ。これを利用する場合、追う者と追われる者どちらが有利かは明白だ。


「なんでこんなに熱心に追われるのよ。レオン、あんたいったいいくら借りたわけ?」


「40エキューだよ!」


 5万フランは1エキュー。つまりレオンくんの借りた金は200万フランだ。ちなみにエキューの上にはピストルというお金の単位もあるのだが、これは庶民には関係のないお金なのでそうそう使われない。一生のうちに一度、見るか見ないかというところだ。


「たったそれっぽっち、普通じゃない!」


「じゃ、じゃあどうして?」


「もしかしたら仕立て屋も必死なのかもしれないわね」


「え?」


 いまから1年以上前に、勇者が死んだ。


 それにより魔王討伐戦――これは言い方が違うだけでようするにドレンスによりグリース進行のことなのだが――が中止される。


 それをうけて、各地の商人たちは抱えていた武器の在庫を余らせることになった。


 この未曾有みぞうの災害とも呼べる出来事に一番の被害をこうむったのはパリィの大商家、ウォーターゲート商会だ。


 けっきょくのところウォーターゲート商会は破産し、それによりパリィの経済状況は一時的に混乱することになる。


 そしてその混乱はいまでも収まったとは言いがたく、いまでもその余波は残っているのだ。


「どこもかしこもお金がないってことよ」


「そのせいで俺たちなんかからも必死で集金してるの?」


「かもしれないわね。もしかしたら、もう学生ってだけで無条件でツケを許すって時代も終わりに近づいてるのかもしれないわ」


 それにしてもせないのは、どうしてウォーターゲート商会があそこまで武器の仕入れをしたのかということだ。ほとんど無理やりに近いかたちでの武器の仕入れだった。


 もともと武器は絶対に売れる手堅いものだとされていたが。


 そこまで自分の商才に自信があったのか。


 だとしたらあの武器の暴落は、その商才以上のなにか外から働く力があったのかもしれない。

それがどのようなものなのか、時代という大きなうねりに流されるだけの人間には分からない。


「よし、抜けたわ!」


 裏道から大通りの方へ。


「こ、これで大丈夫かな?」


「分からないけど。ちょっとレオン、情けない顔しないでよ!」


「ご、ごめん……」


「すぐに謝るのも禁止! あんたはこれから弁護士になるんでしょ、そんな自信のない顔をしてたら上客なんてつかないわよ!」


「うん」


 レオンくんは無理にでも平静をよそおう。そうしていると、なかなかどうした。目から鼻に抜けるというような頭脳明晰さが見られるようだった。


「まったくもう……あれ?」


 ナナは大通りの道端にある広告塔にひょこひょこと近づくと、そこに張られたポスターを見る。


 ポスターといっても写真や絵がついているわけではなく、ただのビラのようなものだ。


「ねえ、あんたさ――」


 ナナの声が、少しだけ寂しそうなものになった。


「なんだい?」


「あんた、オペラって見たことある?」


 広告塔は人間の背丈よりもずっと高くて、2人の身長の2倍以上もある。上の方のビラはよく見えない。そうでなくともガス灯の光が当たっていない場所は見えないのだが。


「あるよ、一回だけ」


 広告の内容は、パリィにある劇場の演目ばかりだった。


 そもそもこの広告塔はそのために置かれたものだ。


「なによ、あんた。見たことがあったの? 良いなぁ」


 パリィに来たばかりのころ、一度だけオペラ座に行った。といっても一番安いB席のチケットしか買えなかったのだが。


 けれど田舎から出てきたばかりのレオンくんにとって、それは夢のような経験だった。


「ナナは?」


「私? 私は行ったことないわ。だって私、グリゼットよ? そんなお金ないわ。そりゃあ仕事仲間の中には演劇が大好きでそれにばっかりお金を使ってる子もいるし、男を選ぶ時にたくさん演劇に連れて行ってくれる人を選ぶって子もいるわ。でも私は、違うの」


「本当は行きたかったんじゃないの?」


 ここで、じゃあ連れて行ってやるよと言えない自分が情けない。


「ちょっとね。でも人間にはそれ相応ってもんがあるのよ」


 それ相応……。


 それはレオンくんもここ最近考えていたことだ。


 それで無理して背伸びすれば、どこかでツケを払う必要が出てくる。


 自分にとっての不相応とはなんだろうか、とレオンくんは考えた。


 もしかしたら目の前のナナは自分には過ぎた存在7日も知れないと思った。


 ナナは良い女だ。ちょっと気は強いが、それくらいのほうが小心なレオンくんには合っている。容姿の良さは言わずもがな。


 こんな女は、この機を逃せば一生出会えない。そう思った。


 でもどうしてナナはこんな情けない自分と一緒にいてくれているのだろうか? きっとそれはただなんとなくとか、そういう意味だろう。


 ナナが自分のことを好きでいてくれるのかすら、もう分からない。


 だからこそ、レオンくんは勇気を振り絞った。


「ナナ――」


 レオンくんはナナに対して手を差し出すようにして、指輪を見せた。


「えっ?」


 ガス灯の揺らめく光に照らされて、指輪はキラキラ、キラキラと光っている。


「な、なによこれ? まさか手切れ金じゃないでしょうね」


 ナナの目は泳いでいる。


 期待と不安が入り混じってどちらに体を預けていいのか判断できないようだ。


「これを受け取ってほしいんだ、ナナ」


「い、嫌よ。こんなのいらないわ。あんた、私がいなくてどうやってこんなパリィで生きていくのよ。あんた1人じゃ弁護士になったところで他に食い散らかされておしまいよ!」


「そうだよ、だからさナナ。俺と一緒に居てほしいんだ。ダメかな?」


「そ、それってつまり……」


「だからさ、その。結婚してほしいんだ」


 ナナは指輪を手に取ると「バカ……」と呟いた。


「あんたって本当にバカだわ……だって私グリゼットよ。あんた分かってんの?」


「分かってるさ」


「こ、これ! 返せって言われても返さないからね!」


「もちろんだってば。そんなこと言わないよ」


「うううっ……絶対後悔するわよ」


「しないって」


「後でひどい目みるわよ!」


「見ないって」


 ナナは左手の薬指に指輪をはめた。


 それを光に照らしながらいろいろな方向から見る。


 そして、ニッコリと笑った。


「あんた、やっぱり好きだわ」


「えっ? ナナ、俺のこと好きだったの?」


「はあ? 当たり前じゃない」


 ちょっとだけ意外だった。


 ナナはてっきり、惰性で自分と一緒にいてくれるのかと思っていたから。


「あのね、いくら私が下賎なグリゼットでも好きじゃない男の人と一緒にはいないわよ。バカにしないでくれる?」


 たしかに、とレオンくんは思った。


 自分がバカだったのだ。ナナとは相思相愛だから、そうだったから一緒にいてくれた。


 指輪も受け取ってくれた。


 それだけのシンプルなお話だったのだ。



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