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257 グリゼット


 レオンくんの借りている下宿のドアがノックされた。


「どうぞ」と、言うよりも少し前にドアが開かれた。


 入ってきてのはレオンくんの恋人のナナだ。


「今日も来てあげたわ」


 ナナは少し高慢にそう言うと、きれいな赤茶色の髪をかきあげた。


「お仕事、終わったの?」


 とレオンくんが聞くと、その質問に答えはなく、かわりに唇を吸われた。


 まるでそう、そんな話はしないでちょうだいとでも言うように。


 レオンくんの恋人のナナがやっている仕事はグリゼットだ。毎日、誰が着るとも知れない服を縫っている。それでもらえるお金は微々たるものだ。


 最近では自動縫い機――ミシンなるものも開発されたという。これはかなりの高性能で、どんなに熟練したグリゼットの6倍ものスピードで縫い物ができるとか。


 けれど、これが普及する気配はいまのところまだない。グリゼットたちが猛反対しているからだ。つい先日など、このミシンを作る工場が襲撃されたという。そしてそこに置いてあったミシンを全て叩き潰しただとか。


 ドレンス人というのは、他の国の人間からはお洒落で、素敵で、優しい国民性だと思われている。


 少なくともドレンス人は自分たちが他国からそう思われていると信じている。


 しかしその実、ドレンス人というのがガングー時代から見ることにも分かるように、意外と野蛮で好戦的な人種なのだ。


 自分たちの主張を通すためには暴力もいとわない。


 それで起きたのが、かつてのドレンス革命である。


 その血は現在もたしかに受け継がれているのだ。


「今日はなにしてたのさ?」


 ナナはベッドに座って足を組む。


 小綺麗に着飾った美少女には、田舎では絶対に見ることのない垢抜けた美しさがある。


「勉強してたよ」


 と言ってみる。


「嘘、女の子と会ってたんじゃないでしょうね」


 ナナは嫉妬深い目をレオンくんに向ける。


 そう言われても本当に勉強していたのだからどうしようもないのだが、しかし一度だけ冒険者の男――シンクに会いに家を出た。


 そのことがあったせいで、返事が一瞬遅れる。


「う、嘘じゃないよ」


「怪しい」


 ナナの目が、さらに険しくなる。


 ナナは重い女だ。


 容姿が可愛らしいのでグリセットの中ではとにかくモテるけれど、その性格のせいで他の男たちとはあまり長続きしなかった。


 レオンくんと付き合いだして1年ほど。これはナナの恋愛遍歴で最長記録だ。


「本当だって、信じてくれよ」


「ふん、べつにそうよね。あんたが私いがいの女に好かれるなんて思えないわ」


 そう言われては返す言葉もないのだが、ナナはきついことを言う。


「ナナはさ、どうなの? やっぱりいまでも男の人に声をかけられたりするの?」


 うだつのあがらないレオンくんはななにそんなことを聞いてしまう。


「当たり前じゃない。バカロレアじゃそんなこともならわなかったの?」


 バカロレアというのは大学に入るための資格のようなものだ。ガングー時代からあるもので、これに受かったものは大学に入学できる。


 地方ではここにつまずいてパリィに出てこられないような者も多いが、レオンくんは早々に合格することができた。


「ねえ、ナナ。夜ご飯は食べた?」


「まだに決まってるじゃない。なによ、ビストロにでも連れて行ってくれるの?」


「う、うん」


 レオンくんは財布を確認する。


 レオンくんの収入の主なものは田舎からの仕送りで、それはフランにして月に5万フラン。これではとてもではないが生活なんてできやしない。


 ではたらない分はどうするか?


 どうしようもないのである。


 この時代、職業とはすなわちその人間の身分をあらわした。どこを見渡しても職人仕事ばかり、一朝一夕で身につくようなものはなに一つない。


 なのでアルバイトのようにどこの馬の骨ともしらない人間を簡単に雇ってくれる場所など皆無と言ってもよかった。


「そうと決まったら早速でましょうよ。ほら、こんな辛気臭い屋根裏部屋にいたらカビがうつるわ」


 自分が住んでいる場所だって辛気臭い屋根裏部屋であるというのに、ナナはそんなことを言う。


 まったくひどい女だが、そこは惚れた弱み。


「そうだね」


 レオンくんはナナと外が歩けることが楽しくて、情けない笑顔になってしまう。


 2人で外に出て、学生街カルチェラタンからビストロの方へ。


 ビストロとは大衆食堂であり、レストランとは少し違う。ドレンスでレストランといえばそれはすなわちコース料理を出す店のことだ。レオンくんにはとてもじゃないが行くことができない。


「なに食べようかしら?」


「あんまり高いものはやめてね」


 なども言うようだが、レオンくんはお金を持っていない。


 もしも無理やりお金を作ろうとすれば悪いことをするしかない。レオンくんにはそういうことができない。


「なによ、ケチくさいわね。でも良いわ、今日は私が払ってあげる」


 前を行くナナが振り向いて、笑う。


「えっ、いいの?」


「当たり前じゃない、将来は大弁護士様のレオンくんにいまのうちにツバをつけておこうって魂胆よ」


「なあんだ、そうか」


 あはは、と笑う。


 ナナがそっと手をつないできた。恋人同士は手をつないで歩くものだとナナは信じて疑わないのだ。


「あんたって変な人よね」


「え?」


「べつに……ただそう思っただけよ」


 ナナは照れたように頬を赤らめている。そんな様子がレオンくんは好きで――そして彼女をどうしても恋人にしたかったのだ。


 もともとナナを狙っていたのは友人のロドルフだった。なんでも一時期はロドルフの先輩と付き合っていたそうで――。


 その先輩はもう学士号をとって仕事を始めている。そうなればグリゼットなど簡単に捨てられるというのが世の定めだった。


 では男のいなくなったグリゼットはどうなるか?


 またぞろ、新しい若い学生を探すのだ。そうして30くらいになるまで、グリゼットは奔放ほんぽうに恋を繰り返す。


「……可愛いなあ」


 と、思わずつぶやいてしまう。


「なにか言った?」


「あ、いや。なにも」


 レオンくんは初めて見たときからナナにぞっこんだった。それは今でもかわらない。


 ナナのことは、ロドルフから横取りするかたちになってしまった。けれど2人の友情に変化はない。というよりもロドルフはすぐに他の女を引っ掛けてきた。


 いまではその女とも別れて、金持ちの令嬢と付き合っているらしい。昼前に会ったあの女の人――名前はなんと言ったか、レオンくんはもう忘れてしまった。あの人はただの遊び相手なのだろう。


 あの人もたぶんグリゼットだと、レオンくんは当たりをつけた。


 グリゼットなどただの遊び相手、カルチェラタンに住む学生にとってそれはある種の共通認識だった。


 ――そんなグリゼットと、俺は結婚しようとしている。


 ナナがいう通り、自分は変な人間だと思った。


 でもまあ、それもまた惚れた弱みである。



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