255 貧乏学生レオンくん
短編【お針子】です
「お針子」と書いて「グリゼット」と読みます
パリィのシャンゼリゼ通りには昔からカフェがたくさんあるけれど、最近は新しい形態のものが流行っている。
カフェ・コンセールと呼ばれるそれは、野外に並べられたテーブルやチェアに座りながら仮設舞台に立つ歌手の歌が聞けるというものだった。
野外であるため開放感があり、ここのところめっきり暑くなっているパリィではこの店が大人気だ。
木陰で涼みながらコーヒーか、あるいはビールでも飲み、美しい女性歌手の歌を聞く。興が乗ればそのままワインを飲んで泥酔してまうパリっ子もいたほどだ。
とはいえレオンくんにはそんな店で楽しむ余裕もなかった。だから楽しげな歌を右から左に聞き流し、背中を丸めて歩いていた。
「おおい、レオン。レオンじゃないか!」
ふと、レオンくんは呼ばれて立ち止まる。
見ればカフェの椅子に知り合いが座っていた。それはレオンくんの学友だった。帽子をかぶったまま、小粋にタバコを吸っている。
――まずいところを見られた。
レオンくんはそう思った。
このまま素知らぬ顔で立ち去ろうかとも考えたが、一度立ち止まってしまった手前無視を決め込むわけにも行かない。
「やあ、ロドルフ」
おずおずと手をあげる。すると、擦り切れた服の裾がよく見えた。慌てて隠す。
「こう暑いとなにもやる気になれねぇよなぁ。どうだい、レオン。お前も飲んでいけよ」
ロドルフが飲んでいたビールをレオンくんは物欲しそうに見てしまう。
「お、おごりかい」
久しくアルコールなんてものは飲んでいない。
「なんだい、金欠か?」
ロドルフは豪快に笑うと、タバコの灰を地面に落とした。
「恥ずかしながらそうなんだ」
と、レオンくんは言う。
お金がないせいで、とうとう持っていた服も売ってしまったのだ。なのでレオンくんはいま現在着ている服の他になにも洋服を持っていない。
田舎から出る時に両親に買ってもらった服は50万フラン(50万円くらい)もした。それでもみんなが持っている燕尾服よりかなり安いものだった。
つまりレオンくんは貧乏な学生だったのだ。
そえでもパリィに出て、なんとか法律家になるために勉強している。自分では真面目な学生のつもりだった。数ヶ月前までは……。
「まあ一杯くらいなら良いぜ。ほら座れって」
ロドルフは白い歯を見せてにかっと笑う。爽やかな男だ、そして不思議な色気もある。レオンくんは密かにこのロドルフを自らのジェントルマンとしての師匠と思っていた。
実際、田舎から出てきたばかりのレオンくんを初めて社交界に連れ出したのはこのロドルフである。
「じゃあお言葉に甘えて――」
そう言ってレオンくんが座ろうとしたときだった。
シャンゼリゼ通りの奥から、小柄な女性が歩いてきた。なかなか美人だなぁ、うちのナナほどじゃないけれど。レオンくんはそんなことを思いながらその女性を眺める。
だがロドルフは違った。女性を認めるやいなや立ち上がり、両手を大仰に広げてみせた。
「ああ、ジュリコ! ジュリコ・ポンメール! やっと来てくれたね。この俺を待たせるだなんて、キミは罪づくりな子猫ちゃんだ!」
「別に待たせたつもりはないわ、あんたが勝手に待ってただけ」
ジュリコと呼ばれた女性はすました顔をしている。
ああ、これは……とレオンくんはすぐに察した。
「じゃあ、僕はこれで」
たぶんこのジュリコという女性はロドルフの新しい良い人なのだ。いいや、この雰囲気だと狙っている女性というほうが正しいかもしれない。
「あら、もう行っちゃうの?」
と、ジュリコは聞く。まだロドルフに一抹の警戒心があるのか、いかにも人の良さそうなレオンくんに同席してもらいたいのだろう。
「引き止めちゃ悪いって、レオンは俺と違って真面目な学生なんだから。すえは法務大臣ってやつだぜ」
「頭、よろしいんですね」
「あ、いや……そんなには」
たぶん、本当に頭が良ければこんなことには鳴っていなかったと思う。この前の試験も思ったほどの結果は得られなかった。このままだと弁護士の道は諦めるのも一つの手かもしれない、などと思っていた。
だがその迷いすらも、いまでは可愛らしいものだ。
「とにかく、キミは帰って大いに勉強したまえ! そしてこの親友であるロドルフの危機があれば矢も盾もたまらずとんできて弁護してくれ!」
「あら、あんたも弁護士の卵だったんじゃないの?」と、ジュリコは目を細める。
この感じでいえば、もうジュリコはロドルフに心を動かしているようだ。
「俺はただの不良学生さ」
わっはっは、と笑うロドルフは同時にジュリコには見えないようにウインクをする。ごめんな、とでも言ってくれているのか。それとも空気を読んでくれてありがとう、か。
どちらにせよレオンくんはこの場にはいられない。
「じゃあ、末永くお幸せに」
できる限り嫌味であることをさとられないように言う。
そして逃げるようにしてその場を去る。
もしもロドルフが放蕩学生ならば自分は貧乏学生である。そんな自分がきらびやかなシャンゼリゼ通りに足を踏み入れるだなんて、それこそ間違いだったのだ。
レオンくんが現在向かっているのは、ここより裏通りの方に言ったアパルトメントである。
このパリィの街は蜘蛛の巣のように道が張り巡らされており、住み慣れた者でもときどき迷うほどだ。レオンくんのような田舎から出てきた学生であればさらに難しい。
それでもなんとか目当てのアパルトメントを見つけられたのは、女神ディアタナの思し召しだろうか?
信心深いレオンくんは胸の前で祈りの動作をしてから、アパルトメントの呼び鈴を鳴らす。
しばらくすると小柄な老婆が中から出てきた。片方の目が細い不気味な老婆だった。
「はい……なんでしょうか」
「あの、ここにその冒険者のかたが住んでいると聞いたんですが」
「はあ? わしのアパートにそんなもんは住んでおりましたかね?」
なんのための疑問符なのか分からないが、とにかく老婆はごびを上げた。
「あの、これ――」
クソババアめ。
そう思いながらレオンくんはチップを渡す。
本人も爪に火をともすような生活をしているのだ、本当ならば1フランすらも失いたくないのに。
「ああ、そうじゃったそうじゃった。思い出しましたぞ。申し訳ない、最近めっきりと記憶力が落ちてしまってのぅ……。むしろ500年前のことのほうがよく覚えておるくらいじゃて」
この老婆はきっと頭がおかしいのだなとレオンくんは思った。
なのであまり触れないようにする。
「どうぞ、こっちですじゃ」
老婆に連れられて階段を登る。
2階の部屋の前で立ち止まる。
「アポイントメントはあるのかのう?」
「い、いちおうギルドのほうから……」
ただし、ギルドでは変に気難しい人だから対応には気をつけることだと言われた。いわく、横にはとても美しい女性がいるがその人にちらりとでも視線をやったら追い返される、と。
いちおうギルドでの評価は「B級」で、とにかくなんでも受け持ってくれるということだったが……。
「そうですかい」
老婆はさっさと戻っていく。
1人取り残されるかたちになったレオンくんは恐る恐る部屋の扉をノックした。
返事はない。
しょうがないのでドアに手をかける。鍵はかかっていなかった。
「お邪魔します」
言いながら、中にはいる。
すると男の姿が目に入った。
窓際でワインを飲んでいるようだ。外を眺めながら、じつは景色ではなく、どこか遠くを見ている。
「ああっ?」
男はレオンくんを見た。けれどすぐに視線を外し、瓶からワインをラッパ飲みする。
「あ、あの……」
「ノックなんてしたからな、誰かと思ったら。やっぱりシャネルじゃないのか……」
男はワインの瓶をそこらへんに投げ捨てるように置いた。たぶん中身はもうないのだろう。
「あ、あの……冒険者の貴方にお願いがあるのです!」
レオンくんはそう言って、頭を下げる。
男はそのレオンくんを見て照れたように頬をかいた。
「俺、そういうの苦手」
意外とシャイな男なのだとレオンくんは直感的に感じとった。




