218 朝の水浴び、メメント・モリ
朝の井戸水は冷たい。その井戸水で顔を洗う。
昨晩のんだワインが少しだけ残っていた。二日酔いというのはこの世でもっともくだらない体調不良だと思う。そこにはなんの悲劇もなく、ただ自業自得の辛さがあるだけだ。
アパートの裏手の井戸には、日中になれば近所の人が集まってきて洗濯なんかをしている。けれどこんな朝の時間には誰もいない。
なので俺は全裸だ。
すっぽんぽん。
産まれたままの姿で、露出狂じゃないけどそれなりに気持ちがいい。
俺だってべつにこんな朝から起きるような健康的生活をおくっているわけではない。たまたま今日は目を覚ましてしまっただけだ。たまたま起きたからには、全裸になって体を洗うくらいするさ。
近くに生えた木の上ではチュンチュン、小鳥さんが鳴いている。くそ、こっちは頭が痛いっていうのに腹が立つぜ。
背後に気配を感じた。
シャネルだな、と思って俺は振り向きもせずに話しかける。
「なあ、背中拭いてくれねえか?」
井戸から水をくんでざぶんと水をかぶる。
ここらへんでも沐浴の習慣はある。なんでも何百年も前のガングーさんがはやらせたそうな。なんでもやってるなぁ、ガングーさん。俺はよく知らないけど。
ということで風呂屋なんかもあるんだけど、きいた話では風呂屋は衛生的にやばいらしい。いやいや、風呂でしょ? どうして衛生的に悪いのさ。
なんでもはってあるお湯をあまりかえてないとか……。
というわけで、俺はもっぱら水浴びで体を洗っている。寒いけどね、でもまあ目も覚めるから良いのだ。
それにしても、シャネルの返事がない。
変だな、と思ってもう一度言う。
「なあ、背中拭いてって。タオルとるだけでもいいからさ」
いつもならこんなことを言わなくても気を利かせてくれるのに。
「うふふ、朋輩。いったい誰と勘違いしているのですか?」
「げえっ」
うへえ、間違えた。
どうやら俺の後ろにいたのはシャネルではなくアイラルンだったようだ。
こういうのって無性に恥ずかしいよな。あれだ、学校の先生を「お母さん」って言っちゃったときみたいな恥ずかしさ。
「いやはや、今日も良い天気ですわね、朋輩。夜も蒸し暑くなってきて、寝汗もかかれたことでしょう」
「なんでもいいけどよ、アイラルンってシャネルともシノアリスちゃんとも雰囲気が似てるよな」
シャネルとシノアリスちゃんはべつに似ていると思わないのに、シャネルとアイラルン、アイラルンとシノアリスちゃんは似ていると思ってしまう。
たぶんアイラルンは、ちょうど2人の中間にいるようなものなのだろう。
「あら朋輩、わたくし誰かに似ているだなんて言われても嬉しくありませんわ」
「べつに喜ばせようと思ったわけじゃないんだけどな」
「あら、殿方みんな、レディを喜ばせることを生きがいにしているのではなくて?」
「ずいぶんと都合の良い男ばっかりなんだな、女神様よ」
タオルが投げられた。
まるでプロレスなんかの降参のように。
「そんな殿方ばかりですから、朋輩のようなかたをわたくしは好むのですわ」
「そういやお前の信者たちに会ったぞ。けっこう多いんだな、数」
「ゴキブリのように?」
「お前なあ……」
いちおうファンなんだろ。思ってもそんなこと言っちゃダメだぞ、アイドルがそういうのSNSとかで発言したら一瞬で炎上するから。
「まあさすがに言いすぎましたわ。もちろんわたくしも彼ら、彼女らのことはありがたいと思っております。少なくともわたくしがこの世に現界できるのは、わたくしを信仰する方々のおかげですし」
「あー、朝から難しいこと言わないでくれる?」
たのむから3行以上のことをしゃべらないでくれ。
「ふふ、朋輩は朝でなくても難しいお話は苦手でしょう?」
「よく分かってるじゃないか」
俺は真っ白いタオルで髪を拭く、最近少しだけ髪が長くなってきた。またシャネルに切ってもらわなくては。
いやあね意外とシャネル得意なのよ、そういうの。
「それで朋輩、少々助言をしに来ました」
「助言?」
珍しい。
こいつが俺が呼んで、ではなくてみずから俺のもとに助言をしにきてくれるとは。
「朋輩、4人目の復讐相手を殺すなら速いほうが良いですわよ」
「なぜだ?」
「メメント・モリですわ」
メメント・モリ? それってたしかあれだよな、「人はいつか必ず死ぬ」とか、そういう格言じみたやつ。いちおうもともとの意味はどうせ死んじゃうんだからぱーっと楽しもうぜ、くらいのものだったらしいけど。
でも使われ方として多いのは、いつか死ぬんだからいまが上り調子でも覚悟しろ、みたいな意味だ。
で、どうしていまその言葉を?
「さてはお前、最近知った言葉を使いたかっただけだな」
「うふふ、さあどうでしょうか?」
アイラルンの笑い方はどこかシノアリスちゃんに似ていた。どちらだろうか、もしかしたらシノアリスちゃんの笑いがアイラルのものに似ているのだろうか。
にしてもなあ、人はいつか必ず死ぬか。
俺は少しだけ真面目にその言葉の意味を考えてみる。
そして思いいたる。
「死ぬのか、火西のやつ?」
「もうお年ですからね。さっさとしなければあの男の魂は憎きディアタナの元へと還ってしまいます」
「どれくらいの時間が残ってるんだ?」
「おそらくもう数週間かと」
「……それまでに火西を殺さなけりゃならいのか」
いっそのことゴリ押しするか? 暗殺みたいな感じで単身火西のいる場所に乗り込んで、あいつを殺す。そうすればシノアリスちゃんも喜んでくれるだろうか?
まあ、それは最後の手段だ。
いつだってその気になれば殺せるというのは精神的にかなり優位に立っている。
「というわけで朋輩、復讐はお早めに」
「ありがとうよ、不幸の女神様」
ただ感謝するのもなんかしゃくだったので、ちょっと悪態をつく。
「むう……朋輩、わたくしは因業の神ですわ」
「不幸って意味なんだろ? いっこ勉強になったよ」
「少し違いますわ、因業とは宿命的に不幸であること。ただ不幸なわけではありません。そういう星の下に産まれた悲しき者を言います」
あっ、と俺は察する。
「なあ、もしかして俺のパラメーター、運のあたいが『0』なのって!?」
「朋輩は因業ですわね」
クスクスとアイラルンは笑う。
くそ、やっぱりこいつ邪神だ。
どうせこんなの取り憑かれてるから俺の運気が下がってるんだ。
可哀想に、きっとシノアリスちゃんも不幸なんだよ。ああ、可哀想に。
そしてシャネルも――。
うん、シャネル?
そういやあいつは別に不幸じゃないんだよな……?
「なあ、アイラルン。シャネルってさ――」
聞こうとした瞬間、アイラルンが手で待てとしめした。
どうした? と、俺は首をかしげる。
「今日はここまでですわ、それではごきげんよう」
「えっ、ちょっと」
アイラルンはいきなり消えてしまった。
それと入れ替わるようにして、シャネルがアパートから出てきた。
「あら、シンク。水浴びは終わったの?」
「お、おう」
どうやらアイラルンのやつ、時間を停めていなかったようだ。
「ねえ、シンク。どうして裸のままなの?」
「えっ?」
……あっ。
まだ服着てなかったわ。
「風邪ひくわよ」
「すまん」
いそいそと服を着る。アイラルンと話し込んでたせいだよ、絶対これ。
くそ恥ずかしいぞ。
にしてもシャネル……こいつはべつにアイラルンの信者というわけではないのか?
「なあ、シャネル」
俺はパンツを履きながら、シャネルにたずねる。
「なあに?」
「お前さ、信じてる神様とかいるの?」
「いないわ」
はっきりと、シャネルは答えた。
ちょっと意外だった。でもべつにシャネルの口からアイラルンを信仰しているという言葉はただの一度も聞いたことはなかったはずだ。
ただ彼女は俺の、この世界での水先案内にすぎないのだ。
「ただし、私は復讐をアイラルンに誓ったわ。あの人に対する復讐を――」
「それってシャネルの――」
兄さんだよな。
いったいどこにいるのか。
そもそもどんな人なのか。
俺はまったく何も知らないのだが。
「さあ、シンク。体がきれいになったなら食事にでも行きましょう。ここらへんで美味しいパン屋さんを見つけたの」
どうでもいいけどドレンス人はパンが好きだ。
「そうだな」
俺は服を着て、シャネルについていく。
ふと、いったいこの子はなんなのだろうか、と思った。
あるいは神様よりも不思議で……俺はもしかしたらシャネルのこともなにも知らないのかもしれなかった。




