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212 因業を抜けた者


 夜になって、俺は仮の住処へと帰った。


「おかえりなさい、シンク」


「うん、ただいま」


「あれあれ、お兄さん。なんだか元気ないですよ?」


 そうかい、と適当に答えながらジャケットを脱ぐ。それをシャネルが受け取って壁にかけた。


「シンクはいつもこうなのよね」


「なにがだよ」


 俺は椅子に座る。するとなにも言っていないのにシャネルがワインを出してきた。


 いらない、と手を振る。ギムレットではないけれど、ワインを飲むにはまだ早い時間だ。


「落ち込んでるんじゃないのよね、ただ気持ちの整理がついていないだけ」


「気持ちの整理がついていないだけ、なるほどな」


 そうかもしれない。


「でもこっちの方が私、好きかもしれません」


「シノアリス、貴女ってどんな育てられかたしてきたらそんな人間になるの?」


「おい、ちょっと待てシャネル」


 それってどういうことだ? 俺のことを好きな人間は育ちが悪いって言いたいのか? じゃあお前はどうなんだよ、とは恥ずかしくて聞けないが。


「うふふ、べつに普通の育てられ方ですよ。ちょっと両親とは小さい頃に離れ離れになりましたけど。けれど愛情たっぷりに育ててもらいました」


 愛情たっぷりにねえ……。


 俺の場合はそこらへん、どっちかというと放任主義で。両親は俺のことなんてどうでも良いと思っていたきらいがあるけど。


 シャネルはどうなのだろう? 意外と甘やかされて育っていそうだ。勘だけど。


 俺たちは夜ご飯を食べるために、近所のレストランへと行った。最近では面倒なので夜はこうして外で食べることも多い。


 というか、家で食べるとしたらパンをかじっているだけなんだ。スープだってない。それは俺もシャネルも料理ができないからで、そういえばシノアリスちゃんはどうなのだろうか?


 この子が料理上手ならば、宿泊費とでもいって料理を作ってもらうのもありかもしれないけど。


 でもシノアリスちゃん、いつまで泊まってくつもりなのかな。昨日は泊まってたけど。


 そもそもこの子、どこに住んでいるんだ?


 レストランで夜ご飯を食べながら、俺はどうでもいいことをうだうだと考えていた。


 料理、へスタリアでは魚料理が多い。というか海鮮類というか。ムニエルやらムール貝やら。さすがに生魚は海の近くのレストランでしか見られないが、それでも生牡蠣なんかはここらへんでも見る。


「うふふ、これが美味しいのよね」


「……それ、お腹壊すわよ」


 シノアリスちゃんが注文した生牡蠣を、俺とシャネルは疑わしく見つめる。


「ちなみにシャネル、これ食べたことあるか?」


「ないわよ、こんなゲテモノ」


 そうだよな。


 俺、一回だけ牡蠣でお腹こわしたことがあるんだが、あの時は酷かった。上からも下からもげえげえ汚物が出まくって、いや、マジで死ぬかと思った経験がある。


「白ワインと一緒に食べれば毒が中和されますよ」


「なんだよその知識、ぜったいにガセだろ」


 中世知識なんて誰が信じるもんか、俺はだまされないぞ。


「さあさあ、食べてくださいな」


「ねえシンク、私この国にきてから変なものばっかり食べてる気がするわ」


「本当にな」


 でもたしかに美味しそうではある。


 俺だって生牡蠣は嫌いじゃない。ただ食あたりが怖いだけで。


 シノアリスちゃんが一つ、生牡蠣を食べる。ご満悦な表情だ。


 それを見て俺も思わず手を伸ばす。


「た、食べるの?」


「1つだけ」


 生牡蠣を口に放り込む。とろっとした感触、噛んだ瞬間にコリコリとした食感がして、旨味が口いっぱいに広がる。これは、かかっているのはオリーブオイルだろうか? 酸っぱさもあるから、レモンかそれに類する果汁がかかっているのかもしれない。


 素直に美味い。


 飲み込んだ瞬間の独特な臭みを、白ワインを飲むことによって誤魔化す。


「どうです、お兄さん?」


「美味いな、久しぶりに食ったけど」


 もう1つ食べる。


 これはなかなかどうした、一度食べ始めると癖になる。なんだか昔食べたときよりも美味しく感じる。もしかしたら俺の味覚が大人になったということだろうか。


「お姉さんもどうですか?」


「そうね、試しに食べてみるわ」


 うん?


 あ、まずい。


「シャネル、それダメだぞ」


「えっ?」


 シャネルが手にとった生牡蠣から、もうれつに嫌な予感がするのだ。食べれば十中八九腹を壊すだろう。


「こっちにしておけ」


「ありがとう」


「うふっ、お兄さん便利な毒見役ですね。その『女神の寵愛』のスキルからですか?」


「そういやシノアリスちゃん、人のスキル見れるんだったな」


 便利そうだな、そのスキル。


 あれ、でも俺も人のスキル見られたわ。あれ疲れるからあんまりしないんだけど。


 そういえば――火西のやつはアイラルンからどんなスキルをギフトとしてもらったのだろうか。


 俺たちがもらったスキルはそれぞれが五感に対応したもの。俺はすでに3人の復讐対象を殺し、『視覚』『嗅覚』『味覚』を手に入れている。残るは『聴覚』『触覚』のみで――。


 いや、待てよ。


 俺は牡蠣を一つ、食べながら思う。


 ――アイラルンにもらったスキルだって?


 そうだ、俺たちはアイラルンによってこの異世界に転移させられた。アイラルンは自分では女神だと言い張っているが、この世界での扱いをかんがみるに邪神と言って差し支えない。


 そのアイラルンを信仰しているのは異教徒だ。眼の前にいるシノアリスちゃんがそう。


 そして正教徒たるディアタナだとかいう女神を信仰しているやつら。その頂点が、なぜ火西なんだ?


 妙な話、逆ならば分かる。アイラルンを信仰している異教徒のトップが火西ならば、まあお似合いの地位だ。しかし現実として火西は教皇だ。つまり前回のコンクラーベで選ばれたということだ。


 どういうことだ?


「あらあら、お兄さんったら。また深刻そうな顔をして」


「そんなシンクも素敵だわ」


「同意しますよ、うふふ」


「シノアリスには渡さないわよ」


「うふふ」


 2人の美少女(キ○ガイ)がなにやら妄言をはいている。


 だとしても俺が考えているのは火西のことだ。


 あいつのスキル、『女神の寵愛』。それはもしかしたら聴覚ではないのか?


 聞こえなくなったという耳。なぜかディアタナに鞍替えしている信仰。やつの表情には因業なるものから開放されたような柔和さがあった。いままで俺が殺してきた復讐相手とは違う。


 それはあくまで仮設に仮設を重ねただけの予想でしかない。しかし――


「因業っていうのはいったいなんだ?」


 俺はつぶやく。


「なあに、シンク。知らないの?」


「知らん」


 悪いがこっちはただの元引きこもりだ。そりゃあ引きこもってたくさん本も読んだけど、たいていが簡単な小説ばっかりで。難しいことなんてなにも知らない。


「因業ってのはお2人のことですよ」


「だからその意味が分からないんだ」


「因業ってね」シャネルが、俺だけにこっそりと教えるように顔を寄せてきた。「不幸って意味よ」


 その瞬間、俺の中で点と点がつながる。


 やはりそうか!


 火西、あいつは捨てたのだ。アイラルンのことを。そして本当にディアタナを信じている。


 あの耳も、おそらくそのためだろう。流行り病なんて真っ赤なウソ。もしかしたら自分で潰したのかもしれない。


 なんのために――?


 ――信仰のために、だ。


 俺はゾッとした。


 俺はずっと現代日本に暮らしていた。だから宗教というものに一定の距離感を置いている。


 別に神仏を拝まないというわけではない。正月やお盆、クリスマスだってイベントとしてエンジョイしてきた。墓に行けば手もあわせるし、家には仏壇も神棚もあった。


 けれど自分から、なにかを信じて心の支えにしようとはしなかった。


 火西はそれをやっている。この異世界で。


 なにがあったんだ、あいつに?


 俺をイジメていて喜んでいたあいつに……。


 分からない、理解できないからこそ怖い。


 俺は唇を噛みながら、俺の知らない火西のことを考えていた。



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