020 自暴自棄
逃げ出して、後ろなんて振り返らないで、そして目に映る景色が美しいわけがない。
この部屋には怠惰と退廃と腐乱が渦巻いている……。
「シンク」
シャネルが帰ってきた。
俺はからになったワインボトルをかかげて、「おかえり」下品な笑い声が出た。でもやめられない。なんでこんなに楽しいのだろうか、酔っているからだ。
「また、飲んでたの?」
「悪いか」
「悪いなんて言ってないわ。でも飲みすぎたら体に毒よ」
シャネルが椅子に座った。きしんだ音がして、ホコリが舞った。この部屋はまるで倉庫のようだ。窓はあっても日差しは入らない。見えるのは隣の家だけ。いつも暗い。
フミナの屋敷で泊まらせてもらっていた部屋とは大違いだ。
ここは町の宿屋。それもとびきり安い。宿泊している人間はどこかヤバそうなやつらばかり。いつもクスリでラリっている男に、いかにも性病をもっていそうな売女に、軍人崩れみたいな乱暴者。そして俺たちのような負け犬。
酷い空間だった。
「これで一週間になるわ。仕事なんてありゃしない」
シャネルは両手をあげてみせた。
そうか、もうそんなになるのか。
実際にはこの宿に来てから一週間以上経っている。最初のうちはなにもしなかった。ただ怯えて――何に?――酒を飲んでいただけだ。
それが時期にシャネルが仕事を探しに行くと冒険者ギルドに出かけるようになった。だけど今日で一週間、俺たちにできそうな仕事は何一つないようだ。
外からは喧騒。
どうやらまだお祭りの真っ最中らしい。この様子だと勇者はいまだにドラゴン退治に出かけていないのだろう。何をしているのか……まさか俺のように飲んだくれているわけではあるまい。
「ねえシンク、外に行かない? いくらなんでも毎日こんなかび臭い場所にいちゃあ健康的じゃないわ。露店も建ってるしね、遊んできましょうよ」
「一人で行ってきな」
「やあよ、一人で行っても楽しくないもの」
俺はベッドに座っていた。この部屋には粗末なベッドが一つあるだけだ。他には小さなテーブル、脚の折れかけた椅子、そして火のつかない暖炉。ランプすらもない。
ああ、それとワインの空き瓶だ。
別にこんな苦いだけのもの、美味くもなんともない。けれど飲んでいる間は怖いことを考えないですむのだ。大人が酒を飲む理由が少しだけ分かった。
「なあ……シャネル。中身の入ってるワインはもうないのか?」
「はい、どうぞ」
コップなんて上等なものここにはない。だから俺はワインを瓶からラッパ飲みする。口元から少しだけ血のような液体がこぼれる。シャネルはすかさずそれを拭いてくれた。
「すまない」
「謝らないでよ」
シャネルに選んでもらった一張羅はこの部屋に来てからというもの、壁にかかりっぱなしだった。もしかしたらもう一生そでを通すことはないかもしれない。
「にしてもねえ、勇者様はいつになったらドラゴンを退治してくれるのかしら」
俺がにらみつけると、シャネルは肩をすくめる。
「あら、ごめんなさい。この話は禁句だったわね」
「……別に」
「同じよ」
「同じって、なにが?」
「ねえシンク、いつになったら外に出るの? しましょうよ、復讐。私はいつだって良いわよ、全力で手助けするわ。だからね、お願いよ。もうこんなこと辞めましょう。前に進みましょうよ」
シャネルは日に何度かこんなことを言う。
それは激励とも懇願ともつかない。
だが俺はそれに対して何も答えられないのだ。だから返事の代わりにワインを飲む。アルコールに逃げるのだ……。
シャネルは疲れたようなため息を付いた。そして、立ち上がる。
「あ、おい!」俺は慌ててシャネルの背中に声をかける。「どこ行くんだよ」
まさか捨てられるのか、俺は?
それはずっと不安だったことだ。こんな生活をしていればいつかはシャネルも俺に愛想を尽かす。彼女は、美しい隣人は俺の元から去っていく。それは当然のことだ。
それを回避するには、ただ俺がしっかりするしかなかった。けれど俺にはそれができなかった。だから不安だったのだ。
「なあ、シャネル!」
俺の声は切羽詰まっている。
立ち上がろうとして、俺はよろけた。
「ちょ、ちょっと大丈夫?」
シャネルが俺の肩を抱く。
「なあ、行かないでくれ!」
もう恥も外聞もない。シャネルがいなければ俺は死んでしまう。それこそあの日路地裏で見た日野のようにホームレスになってしまう。
だが、シャネルはそんな俺の不安を一笑に付すように、優しく微笑んだ。
「バカねえ、夜ご飯を買ってくるだけよ。そこで待ってて、ワインもなくなってるし」
「……ああ」
安心した。
安心?
バカな、そんなはずがない。この不安は俺がこの生活をやめるまで一生続くのだぞ。それが嫌なら二つに一つ。
今すぐ外に出て復讐を果たすか。
正体を無くすほどにアルコールを飲むか。
シャネルが部屋を出ていく。俺はまたベッドに腰掛けた。
もう一度いう、この部屋にはベッドが一つしかない。俺とシャネルは毎日この小さなベッドで寝ていた。けれど何ひとつ、エッチなイベントなどおきなかった。なにせ俺は毎晩泥酔して、寝ているのか気絶しているのか判断がつかない有様なのだから。
「もう俺は死んだほうがマシなんだ……」
それは本音だった。
この世界に来た当初は、俺のことをイジメていたやつらに復讐をするつもりだった。けれど、この世界で俺は幸せな日々を過ごした。シャネルと出会って、フミナと出会って、その日々は楽しかった。それを、あの男が壊したのだ。
俺は、俺は……復讐をしなくてはならないのに。
だが俺は怖くてなにもできなかった。あちらの世界で虐められていたから、もう負け犬根性が染み付いていたのだ。勝てるわけがない、そう思ってしまった。そう思った自分が腹立たしかった。
立ち上がる。今度はよろけない。
窓際に行く。
いったい今は何時だろうか? 分からなかった。この部屋には時計もないのだ。でも空は茜色に染まっている。といっても、こんな場所には光も差し込まないのだが。
誰かの叫び声が聞こえた。どうせ隣の部屋の薬中だろう。まったくここは地獄だろうか。
俺は苛立たしくなって壁を叩く。そしたら隣の部屋は静かになった。壁ドン、ってやつだ。
ははは、楽しくなってもう一回叩く。そしたら今度は悲鳴が聞こえた。
ははは、もう一回。
そしたら壁を叩いている部屋ではないほう、もう一つの隣の部屋が騒がしくなった。あそこにはたしか昔は軍人だったとかいう片目の男が住んでいるはずだ。
ははは。
そちらの壁を殴りつける。
なにやら怒ったような声が聞こえてくる。関係ない関係ない。俺にはなんの関係もないことだ。
なにせ俺は負け犬だ、もう誰とも戦わない。よってもう負けることもない。
誰かが部屋に乗り込んできた。
別に誰でも良いさ。
俺は壁に立てかけてあった剣をすばやく掴む。
「ははは!」
と、笑った。




