002 異世界行き
――あれ、おかしいな?
さっきまで家のベッドで寝ていたのに、いつの間にか教室にいた。
久しぶりに見る教室の風景は俺が不登校になる前から何一つ変わっていない。
「ま、そりゃあそうだよな」
俺は自分の気持を落ち着かせるために独り言を呟いてみる。言葉は孤独なボールとなって誰にもキャッチされず床に落ちた。
「夢かな? 夢だよな」
こういう自分が夢を見ていることを認識する夢を明晰夢というらしい。数年前に夢の中でエロいことがしたくて必死に見ようとしたから覚えている。
結果的に明晰夢を見ることはできなかったのだが。
「つまり俺は数年来の夢をこうして果たしているわけだな!」
夢だけに、とつまらないことを心の中で付け足す。
窓際に行って教室の外を眺める。いつもならば見えるはずのビル群がやけに霞がかっている。まるで蜃気楼のようだ。これはいよいよ夢だろうな、と俺は確信した。
「さてさてさて、どうしたものか」
ここで言うどうしたものか、というのはどのような妄想をしようか、という意味だ。
なにせここは俺――榎本真紅の世界なのだから。
「榎本ワールド、いや、真紅ワールドの方がいいか?」
興奮と緊張で心臓が高鳴る。
そういうときにつまらない独り言や、意味のない言葉を口走ってしまうのは俺の悪い癖だ。
「よし、決めた! 俺のことをイジメてたあのクソ女をこの世界でメタメタにしてやるぜ!」
あるいはチョメチョメにしてやる。
げっへっへ、と鏡がないから分からないがおそらく自分で見ても悪い笑いを浮かべる。自分の席に座る。
これは教室の一番奥だ。なにせ不登校になる前から登校拒否気味だったからな。そういう生徒にとっては一番うしろの窓際というのは指定席である。
座りながら意識を集中させる。
それにしても、いったいどうすればこの世界に他の人を呼べるのだろうか?
分からない、から妄想してみる。
なんだかいつもと同じような感覚だ。夢にしては意識が明瞭だし、まるで現実みたいだ。
ともすれば、今にも教室のドアが開いて誰かが入ってきそうなくらいで……。
ガラリ。
と、音がした。本当に誰か入ってきた。
クラスメイトの女子だ。
――あ、こいつ名前なんだっけ?
そう思っている間に、あっちから「榎本くん、どうも」と意外そうな顔をして言った。
「あ、うん。あ、おはよう」
今はおはようと言える時間なのだろうか? 普通、夢は夜見るものだ。だからこんばんはが正しいのではないだろうか。どうでもいいけど。
女子生徒は不思議そうに教室を見回すと、おそらく自分の席だろうが、前の方に座った。
「ああ、そうか。これって夢ね」
と、そんな声が小さく聞こえた気がした。
なんだか猛烈に嫌な予感がする……。俺の嫌な予感はよく当たるのだ。
そして、この時もそうだった。
女子生徒を皮切りに、教室に続々とクラスメイトが入ってきた。
俺は慌てて机に顔を突っ伏して寝たふりをする。
こういときはとにかく寝たふりに限る。だってこっちは寝ているのだから、何か嫌なことをされても反応せずに済むのだ。
クソ、にしても夢の中でまで寝たふりか。夢の中なんだから少しぐらい俺に都合の良いようにしてくれよ。
――恨むぜ神様。
教室がどんどん喧騒に包まれていく。まるで授業が始まる前のようだ。誰かが俺の話をしている。「なんであいつ居るの?」と、言っている。「夢の中でまで見たくねー」と。「イジメちゃおうぜ」とも。
うるさい! と、思うが小心な俺には何も言い返せない。
いいや、違う。言い返せるさ。けれど言い返したらどんな仕返しをされるか分からない。だから黙っている。これは大人の対応なのだ。逆にあいつらはガキで、高校生になっても人にちょっかいを出すくらいしか楽しみがないのだ。可哀想なやつら。
誰かが俺の机を蹴った。
ドン、と衝撃がくる。
デコを少し打った。痛い。
とっさに俺は口の中で「死ね」と呪詛の言葉を吐く。相手には聞こえないように。……情けない。もしかしたら口には出していないかも知れない。心の中で思っただけかもしれない。
ギャハハ、と女の甲高い笑い声。
木ノ下の声だ。腹が立つ。こんなことならもっと前にさっさと夢の中であいつに酷いことをしてやれば良かった。いや、今からでも遅くはないのか? だってどうせこれは夢なんだから。
けれど本当にこれは夢なのだろうか?
俺は机を蹴られてぶつけた額の痛みを感じながら考える。
夢ならそろそろ覚めてくれても良いころだ。
「本当に寝てんのかな?」と、木ノ下。
「そんなわけないだろ、寝たふりだよ」
「もう一回蹴ってみるか?」
「今度は本人蹴ってやれよ」
下品な笑い声がまた響いた。
誰も俺を助けようとなんてしてくれない。当然だ。
誰が誰かなんて目を閉じていても分かる。憎んでも憎みたらりない。憎しみだけで人を殺せたならば俺をイジメた五人は全員八つ裂きだ。
けれどそんなことはできないから、こうして亀のように耐え忍ぶのだ。
夢なら早く覚めてくれ!
俺は叫ぶようにそう思う。
ガラッ、と勢いよく扉が開く音がした。一瞬、教室が静まり返る。その静寂におぶさるように、凛々しいながらも美しい声が響いた。
「はいはい、腐ったリンゴども。さっさと席に座りなさーい」
その声の素晴らしさとは裏腹に、台詞はかなり乱暴だ。だからこそ、全員おとなしく席についたのだろうか。いや違う、きっと彼女の声には不思議な魅力があったからだ。
そう、彼女だ。
この声は確実に女性だ。新しい教師だろうか、俺の担任はうだつの上がらない初老のおっさんだったはずだ。
「そこー、狸寝入りしてないで起きなさい!」
確実に俺のことだろう。
俺はいかにもその声で目が覚めましたという体を装って上半身を起こす。目元に手をやり、眠たげなあくびを一つ。こんなことばかり上手になっても仕方がない。
「では、今から大切な話をしますわ!」
やけに周りが静かだな、と思った。
その理由はすぐに理解できた。
本来ならば教師が立つであろう教壇には、先程の美しい声の主が。
そして美しいのは声だけではない。その容姿も、だ。
正直、美しすぎて不気味なくらいだった。精巧すぎる人形でもここまで違和感はないさ。たぶんその女性の持つ美しさは人間が直視していい類のものではないのだ。
そういう存在のことを一言で言い表す言葉がある。
――女神。
そう、彼女は確実に人間ではない。その美しさを見ただけで分かる。
そもそもどこの世界にゆったりとしたローブを着て教壇に立つ教師がいるのだ。ALTの教師だってもう少しカジュアルな服装をしてくるぞ。古代ギリシャの絵画か彫刻でしか見たことのない服装だった。
その女神は教室の前をせわしなく歩きながら、歌うように言葉を続ける。
「大切な話……そうです、これからみなさまには異世界に行ってもらいます」
何を言っているんだ、こいつは。そういう雰囲気が教室を包み込む。
まったく大した夢だった。
何が飛び出してくるかと思えば、女神に異世界だって? まあ別にそういう展開は好きだけどさ。だからこそ、こうして夢にまで出てきたのかもしれない。
「あらあら? みなさま、あまり盛り上がらないのですね」
おかしいな、と首をかしげる女神。そんな様子もかなり美人なのだが……。
おかしいのはお前の頭だ、とはさすがに言わなかった。けれど誰だってこんなふうにいきなり言われれば、喜ぶよりも困惑するものだ。
と、思っていたら一人の男子生徒が声を上げた。
「やったぜ! ほらほら、お前らもどうせ夢なんだからさ、もっと楽しもうぜ!」
クラスの盛り上げ役。月元だ。こいつはバスケ部で、みんなの人気者で、そして俺をいじめている内の一人だ。
月元の言葉を聞いてクラスメイトたちが少しずつ騒ぎ始める。これはどうせ夢なのだから、というふうに。実際に「夢だしな」と口に出す生徒もいたくらいだ。
背筋が凍るような思いがした。
こいつらはいったいなんだ? 俺の周りにいるクラスメイトは本物の人間か? それとも俺の夢が作り出した幻か? どう見ても後者には思えない。
まさか……これは現実?
分からない、だが周りの人間が違和感を抱いていないということが、この状況を夢であると証明している気がする。誰も現状を不思議には思っていないようだ。
「はいはい、喜ぶのはまだ早いですわよ。なんと今回の異世界行きにはわたくし直々に特典をおつけしますわ! 全員の身体能力、精神力、運気、その他のパラメーターの底上げ。しかも、選ばれた五人には――」
そう言って、女神は自分の手を広げてみせた。
「この中から五人にはさらに特別なギフトをあげますわ! はい、拍手!」
まばらだが、拍手が起こった。
五人だけがもらえるギフト、これは是が非でも欲しいものだが……。
「はいはい、俺が欲しい!」
手を上げたのは月元。
「はーい、私もぉ!」
そして木ノ下。
まったく、ギャルって腹立つよな。別に好みじゃないのに可愛く見えることがある。とくにこういうふうにキャピキャピ笑ってる時とか。
「あら、そうですの? えーっと、他に立候補は? わたくしとしては誰でも良いのですけど、ジャンケンでもしてもらおうと思ってたのですけどね。まあ、早く決まるならそれに越したことはありませんわ」
「おいおい、火西はどうするよ」と、月元が半笑いで言う。
「じゃあ俺ももらっておくかな」と、こいつはバスケ部。俺と同じくらいの長身で、でも俺以上に筋肉はあって、それで俺のことをイジメてる。
あとは当然のごとく水口と金山が手を上げた。――こいつらもそう。全員俺の敵だ。
その敵共がクラスの中心人物なのだから、俺へのイジメなんてもう公然の行為として行われていた。
あーあ、全員不幸になってくれねえかな。
俺はいつもこの五人の不幸ばかりを願っていた。
「じゃ、簡単に五人決まったことですし。ちょっと前に出てきてくださいまし」
女神に言われて席を立つ五人。
ちょっと待てよ、誰も声をあげないのか? 女神が特別なギフトくれるって言ってるんだぜ。きっとすげえ聖剣とか、スキルとか、とにかくチート級のなんかなんだぜ?
だけどまあ、じゃあ俺が声をあげるかと言われればそうではない。俺だってその他大勢と同じ、物欲しげというか、羨ましそうな目で前に行った5人を見つめていた。
「では、チチンプイプイ。はい、これで終わりですわよ」
あんまり実感ねえなあ、月元が言っている。
「さてさて、ではみなさま、この教室を出ればそこは異世界ですわ。自らの本能、欲望の赴くままに好き勝手やっちゃってくださいまし。それがこの女神、アイラルンの望みでもありますのよ!」
手を振る女神、アイラルン。
ギフトをもらった五人は我先にと教室を出ていく。
それにならって他のクラスメイトも不安そうな顔をしながらも異世界へと旅立っていく。きっとあの扉を開ければこの夢は終わるのだろう。
いや、本当に終わるのだろうか?
誰も疑問に思わないのだろうか。
気がつけば教室には俺一人だけが残っている。
「やはり貴方は残ってくれましたわね、榎本真紅」
いや、違う。厳密には俺とアイラルンの二人っきりだ。別に女神と二人になることを狙ったわけではない。ただ外に出る機会を逃しただけだ。
「どうして俺の名前を?」
敬語を使おうかと思ったが、やめた。
これは夢かもしれないし、夢じゃないかもしれない。ならば夢である可能性の方が高いだろう。夢の中でまで誰かの下に立つなんてまっぴらだ。
「だってわたくし、女神ですもの。それに貴方はわたくしの朋輩ですわ」
「ほうばい、ねえ」
不思議な言葉だった。
朋輩というのは友達とは少し違う。対等な仲間というような意味であり、どちらかと言えば戦後にヤクザな人間たちが好んで使った隠語に近かった。
だからこそ、どうしてアイラルンと俺が朋輩なのだろうか?
「それにしても、さっきの五人。嫌なやつですわね」
それはもちろん俺をイジメている五人のことだろう。
月元。
火西。
水口。
木ノ下。
金山。
「俺はさ、心の中で曜日野郎どもって呼んでる」
「曜日野郎? ああ、名前が月から金だからですね。でも土日がないですわね。月月火水木金金ってやつでしょうか?」
「女神のくせにそんな戦中スローガン知ってるんだな」
「女神だからです、なんども言わせないでくださいまし、朋輩」
怒られたのか? よく分からない。
「でもさあ、女神様。嫌なやつらでもギフトあげるのな」
「そりゃあね。というかアイラルンで良いですわよ、朋輩」
「アイラルンね、たぶん夢から覚めたら忘れてるけど」
クスリ、とアイラルンが妖艶に笑った。まるで俺のことを嘲るみたいに。
「朋輩も、これを夢だと思っていらして?」
「は?」
「それは大いなる勘違いですわ。みなさま、最後まで分かっておられなかったみたいですけど」
「……マジで?」
いや、その言葉すらも夢の中での戯言では?
「まあ、信じてもらえなければそれで良いですわ。でもわたくし、朋輩にだけは信じてもらえると思っていたのですけどね」
シクシクと泣きマネをしてみせるアイラルンは、それが演技であるというのに俺の精神を鷲掴みにする。この女神を泣かせるなんて、人にはできない。
「信じる、信じるからさ」
「あら、本当ですか? ありがとう」
ケロリと笑顔になるアイラルン。やはり嘘泣きだったか。
「それで、俺が残ってると良い事あるのか? さっき『やはり貴方は残ると思ってた』って言ってたよな」
「聡明ですわね。そのとおりです、朋輩」
「それで、良い事って?」
ゆっくりとアイラルンが近づいてくる。
と、思ったら制服であるブレザーのネクタイを手繰り寄せるように掴まれた。
つんのめった俺はアイラルンに急接近する。
「ときに朋輩、わたくしがなんの女神かご存知?」
「い、いや。知らない。たぶん美の女神とかじゃねえのか?」
「あら嬉しい。けれど残念、違いますわ。わたくしは因業の女神アイラルン」
「因業?」
因業ってなんだ。聞いたことのない言葉。俺はオウム返しに聞き返した。
「原因、因縁、因子、その結果としての業。それをつかさどる女神。つまりはそうね、復讐の女神だと思ってもらえば良いです」
復讐か、それならば分かりやすい。
というか復讐をつかさどる女神ってそれ――
「邪神じゃね?」
「シャラップ! 朋輩、言ってはならないことを言いましたわね! わたくしは断じて邪神などではありませんわ。れっきとした女神、女神です!」
ムキになるところがなんとなく怪しい。
とはいえこれ以上言ってへそを曲げられても困る。
「まあ、なんとなく話が読めてきた」
「さすがは朋輩、察しがよろしいようで」
「つまり、復讐するは――」
「我にあり――と、そういう事ですわ」
俺はくっくと笑う。
その笑いは次第に大きくなり、最終的には腹の底からの大笑いになっていた。まるで狂ったように笑う俺をアイラルンは慈悲深い表情で見つめてくれた。
「ああ、朋輩か。たしかに俺とあんたは朋輩だ!」
「その通りですわ。さあさあ朋輩、貴方にもとっておきのギフトを授けますわよ!」
俺を復讐へと駆り立てようとするこの女神は、やはり邪神なのだろう。
「いいねえ、一体どんなもんだい?」
自分でも悪い顔をしているさ。そんなの分かっている。けれど楽しくて仕方がない。
あいつらに復讐できるなら俺は悪魔にでも魂を売る。
「わたくしが五人に授けたのは五感に基づいたギフトですわ」
「五感ねえ」
つまり、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のことか。
「そして朋輩に授けるのはその枠外のもの。いうなれば第六感、シックスセンスのギフトですわ」
「ほう」
「ま、どんなものかはお楽しみということで。はい、チチンプイプイ。どうですか朋輩、なにか変わりましたか?」
「いや、まったく。強いて言うなら凛々しい顔立ちをしていないか?」
「それはどうでしょうか? あまり変わっているようには思えませんが」
「そこは嘘でも褒めておいてくれよ」
「はいはい、素敵ですわよ朋輩。ではどうぞ、あちらからお出になってくださいまし」
俺は教室のドアを開けようとする。その前に、最後に振り返る。
なんですの? と、アイラルンは可愛らしく小首をかしげた。
「なあ、アイラルン。本当に復讐して良いんだよな」
「朋輩の気の赴くままに」
俺は彼女への感謝を示すために頭を下げた。
「ありがとう、アイラルン。いや、女神様」
アイラルンは俺にも手を振ってくれた。
俺はそれに見送られて扉を開ける。
この先には新たな世界が。
そこで俺は――
復讐者となる。