172 木ノ下
その拝殿に入った時、むっと鼻を突くような甘いにおいがした。
シャネルとスーアちゃんが顔をしかめる。ティンバイは苛立たしげに舌打ちをする。
「なるほど『忠義の袁』。あんたの言ってた意味がよく分かったぜ。木太后こそがこの国そのものか。よくもまあ――」
この蔓延した甘いにおい、それは魔片の臭いだ。
木ノ下は王座に腰掛けているのだろうか、しかし一段と高くなった王座の前には御簾がかかっており、その姿までは伺えない。
「俺様が来てやったんだ、そのすだれを上げな」
ティンバイがそう言うと、腰を曲げた宦官が横から出てきた。
「それはなりません。龍体を拝見するなど、おこがましいくも――」
言い終わらぬうちにティンバイのモーゼルがその宦官を撃ち抜く。
「てめえと話しをしてんじゃねえよ、俺様は」
ティンバイは御簾に近づくやいなや、破り去るようにしてそれをはぐりとった。
そして中から現れた老女の姿に、俺たちは全員が息を呑んだ。
痩せ衰え、骨と皮ばかりの女だった。
そのくせ着ている服は仰々しく、こういうのを服に着られるというのだろうと俺は思った。
なんて重たそうな服だろうか――その服の重さがこの国の重さだろうか?
ティンバイが英雄として民を背負ったように、木ノ下は女帝としてこの国を背負っていたのだろうか。
魔片にまみれ、生きているのか死んでいるのかも分からないほどに衰え、貧乏人から恨まれて。それでもこの女はこの国に君臨してきた。
それは――どう考えても欲望からではないだろう。
俺は疲れ切った木ノ下を見て、きっと彼女も大変だったのだろうと思った。
「だれ……?」
木ノ下は目がうまく見えないのか、そんなことを聞いてくいる。
もしかしたら頭ももうダメになっているのかもしれない。
俺たちがどうしてここに来たのか分かっていないのだ。それを証拠に、
「……ああ、鏡ね。鏡を持ってきてくれたのね」
と、呟くように言う。
「まったく、話にならねえ。やめだ、でるぞ鳳先生」
「は、はい」
たしかに、この女にもう女帝としての価値などないのかもしれない。
政治をとりしきっていたのはきっとその側近たちだろう。
ティンバイとスーアちゃんが部屋を出ていく。
「シンク……」
「シャネル、悪いが二人っきりにさせてくれ」
と、俺は言った。
ええとシャネルが頷いた。
部屋の隅に宦官たちがいる。俺はそいつらも睨みつけ、外に出す。
二人っきり、か。
あんなに可愛らしかった木ノ下が、こんな老人になっているとはな。それだけでも衝撃なのに、なんだよこれ、いますぐにでも死にそうじゃないか。
嫌いだった、けれど少なくとも可愛い女の子だとは思っていたのだ。
「ここまでの道のり、長かったぜ」
俺は剣を抜く。
「……あれ、榎本くん?」
なつかしいなぁ……と木ノ下はつぶやく。
その口ぶりは女子高生だった頃に戻っているようだった。
「魔片にまみれて、情けねえな」
俺はバカにするように木ノ下に言う。
「魔片……?」
もしかしたら本人は分かっていないのだろうか。
俺は怒りを覚えた。
きっとそうだ、周りのやつが勝手に木ノ下に魔片を投薬したんだ。それは医療用の魔片だろうか。いや、それとも勝手にのませて、頭をおかしくして、そしてこの国の政治を自分勝手に動かしていたのだろうか。
……それだってありえるが、しかしいまさらそんなことは関係ないさ。
俺にとって大切なのは、俺の前に3人目の復讐相手がいるということだけ。
「魔片はこの国ではご禁制よ……私の国でそんなものを吸っている人はいない、わ」
木ノ下は少しだけ微笑む。
やっぱり頭がおかしくなっているのだと思った。
「そうかよ」
「昔は……グリースとの戦争をしているときはそれが原因だったのよ……あの頃はまだ私も若くて……あら、貴方だれだったかしら?」
「誰でもいいだろ」
そうね、と木ノ下は笑う。干からびた老婆の笑いだ。
「そういえば息子はどこにいるのかしら? 外で遊んでいなかった?」
「外には誰もいねえよ」
「あら、そう。私の可愛い皇帝陛下と、夜は一緒に御飯を食べたいと思っていたのだけど……」
いったいこの女はいつから頭がおかしいのだろうか。
それを民は誰も知らずに、ただ悪女として糾弾していた。
それで良いと、誰もが思っていた。
俺だってそうだ。
この女はいったいどうして女帝なんてことをやっているのだ。俺はどうしてこの女を憎んでいたのだ。俺は、俺は、俺は……。
木ノ下だってただの一人の人間、女だったはずなのだ。
それなのに国一つ背負わされて、それは見方によっては大出世だろう。異世界に転移して国を一つ手に入れました。ああすばらしいじゃないか。
けれどそんなに楽しいことじゃないんだろうな。
「国は今日も平穏なのでしょう? そうでしょう?」
「どうだろうな」
違う、とも言えなかった。
「きっとそうよ……だって朝も報告があったもの。世は並べて事も無しって――」
「それは良かったな」
「あれ、榎本くんじゃない?」
「そうだよ」
俺は悲しくなってきた。
「ひさしぶりねえ……懐かしいわ。あの頃は楽しかったわね」
「楽しかった?」
「みんなで、遊んだじゃない……」
「遊んだ、か」
ふつふつと怒りがわく。
やっと殺せる。
その決心がついた。
「懐かしいわね……」
「お前、どうして『昔日の大鏡』をほしがってたんだよ」
俺は聞く。
「夫に……会いたかったの。どうして私ばっかり……こんな……」
「そうかよ、お前が殺したんじゃねえのか」
「さあ……どうだったかしら……。榎本くんは……?」
どうしてここに、と木ノ下は聞く。
俺はその優しげな口調に毒気を抜かれたような気分になる。
だが復讐心をふるいたたせる。
「お前を殺しに来たんだ」
「……そう、殺してくれるのね」
「――ッ!」
そうだ、とも違う、とも言えない。
だが、俺は頑張って頷いた。
「……ありがとう。やっと、終われるわ」
俺は剣を振り上げる。
そして、一突きで木ノ下の心臓をつらぬいた。
血はあまり出なかった。もしかしたら俺が刺す前に、すでにほとんど死んでいるようなものだったのかもしれない。
こうしてこの国そのものだった女帝は死ぬ。
俺は喜びよりもむしろ悲しさを感じた。
――俺がやらなくても、どうせこの女はすぐに死んでいたさ。
そしてこの国も――ティンバイがやらなくても滅びていただろう。
一人でとぼとぼと外に出る。
「なんだ、兄弟。返り血なんてあびて」
「返り血?」
ぜんぜん血なんて吹き出さなかったと思ったのだが、なるほどよく見れば服の胸元に血をかぶっていた。
木ノ下の血だ。
「シンク、終わったの?」
「終わったよ」
「お前、まさか――」
「悪いなティンバイ、そのまさかだ」
「そうかい、理由は聞かねえよ」
「そうしてくれ」
復讐の味は甘い、と誰が言ったのだろう。
たしかに今までの2回はそうだったかもしれない。
けれどいまは?
ああ、苦々しい気分だよ。
「シンク、おめでとう」
シャネルはそんな俺をいたわるように言う。
「ありがとう」
の言葉は、どこかむなしく響いたのだった。




