167 それぞれの春――シンク
さあ、春だ。
冬は終わり、俺たちはこの奉天を旅立つ。
目指す先ははるかな大地の先、長城すらも越え、ルオの首都。
頂上決戦であり最終決戦である戦争が始まるのだ。
しかしその前にそれぞれの馬賊たちはそれぞれの別れを済ませた。それは人との別れでありながら、自らの心への決別でもあった。
後ろ髪を引かれる思いは多かれ少なかれ誰にでもあっただろう。
だが、みんなは自分の気持ちに決着をつけてきた。
しかし俺は自分で分かっている。
俺だけは――まだなのだ。
シャネルと学校を出た俺は、その足でティンバイの屋敷に向かった。
警備の徒弟たちがいたが顔パスで中に入る。
別にティンバイに用があるわけではない。用があるのは師匠にだ。
しかしさすがに家主であるティンバイに挨拶もなしに、というわけにはいかないだろう。
「おい、ティンバイ」
と、俺は彼の部屋の扉をノックする。
「ん、なんだ兄弟か」
ティンバイはのっそりと部屋から出てきた。
ちらっと見えたが、机の上に分解されたモーゼルが並べられていた。どうやら手入れをしていたらしい。
「師匠に会いに来た」
「ああ、そうか」
「様子は?」
ティンバイは無言で首を横にふった。
まだ目を覚まさないということだろう。
師匠はずっと眠ったままだった。あれからどれくらい時間がたっただろうか、王に負けてからというものの、眠り続けている。
栄養は魔石を使って点滴のように入れているらしいが、見る限り師匠は衰弱している。
もしかしたらこのまま目を覚まさないで死んでしまうかもしれない。それは冗談ではなく目前に迫った危機だった。
「医者が言うには声をかけてやったりすりゃあ目を覚ますこともあるらしいが」
「声、か。うん分かった」
たしかにそういうの、聞いたことがある。
でも悲しいよね、返事のない老人に声をかけ続けるのって。
俺とシャネルは二人で師匠の寝る部屋へと行く。
部屋の中はしんとしており、なんだか遺体の安置所のようだった。
師匠は土気色の肌をして、ベッドの上に横になっている。
「師匠、来たよ」
俺はそう声をかけて、椅子に座った。
もちろん返事はない。
それでも話しかけるべきなのだろうが、俺はむなしさと悲しさがごちゃ混ぜになってしまい二の句をつげない。
「この前、家の掃除をしておきましたよ」
だから代わりにシャネルが師匠に話しかける。
「誰もいないと家ってすぐにほこりっぽくなっちゃいますから」
俺はなにも言えない。
シャネルは俺をいたわるように手を握ってくれた。
「奉天の人も心配していますよ、この前聞かれちゃいましたから。李小龍さんはどうした? って」
師匠はなにも答えない。
俺は思わず「もういいよ」と、シャネルに言ってしまう。
聞くに堪えないのだ。
こんなふうに寝ている師匠は見ているだけで辛い。あんなにも元気で赫灼としていた俺の師匠が、まるでこれじゃあ死体だ。
「シンク……でも」
「師匠、もう起きてくれよ。いつまで寝てるんだよ、なあ!」
俺は声をあららげる。
いろいろな思いが口から噴出したのだ。
師匠の肩をゆする。
「シンク、ダメよ」
「起きてくれよ、さっさと! 傷なんてもうないんだよ、だから師匠は起きれるんだよ。それとも本当にこのまま死んじまうのかよ、ちくしょう!」
どうしても師匠は起きない。
俺は全てを諦めて椅子に体重を預ける。
もうダメだ、と脳裏に諦念がよぎる。
「シンク、もうやめましょうか」
俺の悲痛な姿に、シャネルもそう言った。
「そうだな……師匠、俺たちは戦争に行くよ。この街はルオから独立したんだ、だからさ、ルオの軍隊と戦うんだよ」
全てのけじめをつけるために、俺は師匠に説明する。
「ティンバイは長城を越えるんだ。それでさ、俺は木ノ下を……殺すよ。俺さ、実は言ってなかったけど木ノ下。この国じゃ木大后か? に復讐するために来たんだ」
こんな話ししてもしかたがない。けれど――。
これは俺の懺悔なのかもしれない。
この国の人、とくに老人たちは木ノ下のことが好きらしいから。
「ごめん」
と、聞いてもないに謝る。
「シンク、それおそろ出ましょうか?」
「あ、もう少し。あのさ、師匠。俺、たぶんあの王と戦うことになる。そしたらさ、師匠のかたきをとるよ。じつはさ、もう一回勝ってるんだ。本当だぜ? もう負ける気しないよ。師匠に教えてもらった水の教え、ちゃんと分かったからさ」
だから負けないよ、と俺は言う。
そして、俺は部屋を出ようと立ち上がる。
だが、部屋を出ようとした瞬間、後ろから呼び止められた。
「シンクよ……」
俺はその声に万感の思いを持って振り向く。
「なんだよ、師匠。起きたのかよ、ジジイは早く起きるもんだぜ、寝すぎだよ」
「ああ……すまんかったな」
師匠はまるでつきものが落ちたような表情をしている。
こういうのを好々爺というのだ。
いま、俺の眼の前にいるのは武人、李小龍ではない。ただの李老師だった。
「私、人を呼んでくるわ」
シャネルは足早に部屋を出ていく。
もしかしたら俺たちを二人っきりにさせたかったのかもしれない。
「シンクよ、水の教え、体得したか」
「はい、師匠」
俺はきちんと頭を下げる。
親しき仲にも礼儀あり、というやつだ。軽口を言って良い場合とダメな場合がある。
「そうか……そうか、そして王のやつに勝ったのじゃな。全部聞こえていたよ」
「師匠、王は水の教えを会得したなかったのか?」
「ああ、そうじゃ。あやつはダメじゃった。あやつはな、強さのみを求めたんじゃ。そういう男は水になることはできん。そしてのう、シンク。強さのみを求める人間など、脆いものじゃよ」
「もろい?」
「そうじゃ、強さのみを求めたところで得るものなどなにもない。喉の渇きに海水を飲むようなものじゃ。そして、もしも自分よりも強い人間が現れたら、その時には一瞬にして心が折れる。幸か不幸か、王には才能があった。そしてあやつを倒せる人間はおらんかった」
師匠は俺を、どこか期待を込めた瞳で見つめた。
「お主以外には、な」
「師匠、もしかして俺を弟子にとってくれたのって。最初からそのために……」
「ふふ、それは結果論じゃて。わしはただお前さんの才能に惚れ込んだだけじゃ。シンクよ」
「そりゃあどうも」
「それにしても、そうか。長城を越えるか」
「はい」
「大変なことじゃぞ、それは。きっとこの国は根本からひっくり返る。しかし、そうでもせんとこの先どうにもならんのじゃろうな。頑張れよ、シンク」
「応援してくれるんだな」
むしろ反対されると思っていた。
「わしはその昔、グリースと戦った。あのときは『忠義の袁』の元でじゃが。といっても、お主のような若い者は知らんか?」
「いや、知ってるよ。その人なら会った」
そうだ。ティンバイが独立を宣言したとき、真っ先に奉天に来た男だ。
そうか、師匠は昔あの人と戦ったのか。
「ほう。もしや、あの御方はまだ戦っておられるのか?」
「うん。俺たちの、たぶん最後の相手になるよ」
「そうかそうか。さすが忠義の男よのう。泥舟に最後まで乗るか……」
もしかしたら、と俺は思った。
あの老人は俺たちに倒されることによって、ルオの国をティンバイに明け渡そうとしているのではないだろうか。
血の流れない革命があれば、それは素晴らしい。
けれど血の流れなかった結果にできた平和など、すぐに崩れ去りそうんだ。
戦い、戦い、戦いの果に手に入れた平和こそ人々はありがたく思う。
だからこそ、あの老人は俺たちの前に立ちはだかったのだ。
師匠の言ったとおり、ルオの国など泥舟だ。
奉天軍に勝てるだけの武力など、もうもっていないはずだ。
だがしかし、それでも最後の障害として俺たちの前に立つ。
――漢だな。
あの老人は人の戦い、と言ったはずだ。
「手を抜かず、倒してやると良い」
師匠も同じようなことを考えていたのだろうか、俺にそう言った。
「はい、師匠」
「行くのじゃ、シンクよ。この国の未来はお主たちにかかっておるぞ」
いつもならそんな期待するなよと思うところだが――いまだけは。
「対。任せてください」
そう答えるのだった。




