165 それぞれの春――シャネル1
きちんと本を作ったシャネルは、ご満悦という表情だ。
「最近は大変だったからな」
「ええ、でもこれで全部終わり。あとはこれを印刷所ですってもらうだけ」
「印刷所ねえ……もしかして造幣局でやるのか?」
「まさか」
いまも造幣局では朝な夕なゲンをすっているという。もうそろそろすらなくてもいいのでは、と思うのがスーアちゃんいわく『戦が終わればルオ中でテールの価値が落ちます。そのときにゲンがたくさんあればまた儲けられますよ』とのこと。
うーん、なんだか癒着の臭いがするなあ……。
というかマッチポンプ?
「とりあえずこの翻訳書を届けて――あとは学校に行かないと」
「学校?」
「ええ。みんなにお別れを言わなくちゃ」
「お別れか」
もちろんシャネルも知っているのだ、もう戦争が始まるということを。
俺はシャネルになにも聞いていない、だがシャネルは当然俺に、俺たちについてくるのだ。そうだな、最後の戦いなのだ。俺だってシャネルがいてほしい。
「ちょっと行ってくるわ」
「俺も行くよ」
ついていくことにする。
さっきまでスーアちゃんといたことにたいする罪悪感、そのつぐないだ。分かっている。
でも二日酔いには散歩が良いから。だからシャネルと一緒にいようと。そう自分の心には言い訳をする。
「あら、そう? でもせっかくだから最後の授業もするわよ。面白くないかもしれないけれど」
「でも見てるさ」
最後の授業、か。
言ってしまえば今日が卒業式のようなものということか。卒業式、か。俺は高校の卒業式に出ていないけれど、それは引きこもりだったからとかは関係ない。
俺たちはクラス単位でこちらの世界に転移してきたから、みんな高校を卒業できていないのだ。
つまり俺たちって……中卒?
まあ、俺の場合は不登校で卒業できないことがほぼ確定してたけどさ、真面目に勉強してたやつらは残念だろうな。
もっとも、そいつらだって俺へのイジメを傍観していたクズどもだから、ざまあみろといえばそうなのだが。
シャネルはおめかしを始めた。
女の準備は長い、というのはまあ定説というか常識だけど、シャネルのそれはちょっと心配になるくらいに長い。
それに、今日はかなり気合が入っているようだ。
この部屋にまともな家具があるとすればそれはシャネルがこの長屋に落ち着いて真っ先に買ってきた姿鏡だけだ。シャネルはその鏡の前でポーズをとる。
「どうかしら、きれいかしら?」
「ああ」
と、しょうじき適当に答える。
だって、別にいまさら褒めるまでもないだろ?
シャネルはいつだってきれいなんだから。
お気に入りのゴスロリドレスを着て、シャネルは満足そうに頷く。
しょうじきシャネルのこの衣装――衣装と言ったら怒る――は、この街ではかなり目立つから最近ではチャイナドレスを着ていることが多かった。
けれど、こういうときくらいとシャネルは自分の一番好きな格好を選択したのだ。
しかも色はド派手に黒と赤。巻き上げのフリルスカートに、胸元にはリボンだかコサージュだかよく分からないフリルがこれでもかとてんこもりだ。
しかも、しかも、珍しいことにレースのヘッドドレスまで取り出してきた。
シャネルはゴスロリ愛好家ではあるが、俺の知っている限りあまり頭にものを乗っけることはしなかった。理由は聞いたことはないが、おそらく自分の白い髪を気に入っているのだろうと予想していた。
けれど、今日はきちんと頭までお洒落をしている。
完全装備。
ガ○ダムでいえばフルアーマー。
『FAシャネル・カブリオレ』って、なんかそれっぽいよね。
「よし、じゃあ行きましょうか」
「おともしますぜ」
と、俺は剣を担ぐ。
ドレンスの方にいるころは従者と間違えられた俺も、この奉天ではそういう勘違いをされることは少ない。
というよりも、俺はここではある程度の有名人だからだ。
とはいえシャネルさんもなかなかの有名人だ。なにせあの小黒竜の恋人で、しかも洋人で、なおかつ服装が奇抜。
目立つな、というほうが無理なくらいの称号ばかりである。
でもシャネルはこの街によく馴染んだと思う。
子供たちの先生としてもしっかりやっていたし、翻訳の作業だってやりとげた。きっとシャネルの名前はこの奉天に――いや、ルオの国に長く残ることだろう。
それくらいの大事業を彼女は一人でやり遂げたのだ。
偉い、と思う。
そして同時にすごい精神力だとも思う。
いく万、いく億の語句をたった一人で翻訳してみせたシャネルには、誰にも真似できない不屈の精神があった。
俺はそんな彼女のことを誇らしく思う。
シャネルは街の雑踏の中を歩いていく。こういうとき、目立つシャネルは便利だ。行き交う人が相手の方から距離をとってくれる。
「ねえ、シンク。手、つながない?」
「はあ?」
いきなりとんでもないことを言い出す。
そんな恥ずかしいこと、できるかよ人前で。
いや、二人っきりのときに手をつなぐってのも恥ずかしいけどね。
「ね、良いでしょ? はぐれちゃわないように」
「はぐれるかよ、子供じゃあるまいし」
「子供よ――私も貴方も」
その言葉の意味は分からなかった。
でも、その意味を考えるよりも前にシャネルは抱きつくようにして俺の手を握る。
顔が赤くなっているのを自分でも感じる。
恥ずかしい。
でも、わざわざ手を振りほどくのも悪い気がする。
「ふふっ……」
シャネルも自分で握っておいて少し恥ずかしいのか、顔が赤くなっている。シャネルの肌は白いから、頬を染めると赤というよりもピンクに見える。そして、それはすっごく分かりやすいのだ。
「こんなに人がいるのに、みんなわざわざ道を開けてくれてるわ」
奉天にはいつだって人がたくさんいる。
冬の間は少なかったかもしれないが、最近では春めいてきて、秋までよりさらに人が増えたと思う。
「俺のおかげさ」
「小黒竜の御威光ね」
「ご、ごいこう?」
さすがシャネル先生だ、難しい言葉も知っている。
でも説明してくれる気はないようだ。
ごいこうってどんな意味だろうか? って考えていたら、「威光」に「御」の接頭語がついたものだと理解した。
こういうの、耳で聞いてるとわからないことあるからな。
「そういやさ、シャネル。たけなわって分かる?」
「たけなわ? 竹で作った縄かしら」
「宴もたけなわって言うだろ?」
じつはこのルオの国に来てからずっと気になっていた言葉なのだ。
でも誰も教えてくれなかったから、意味が分からなかった。
もしかしたらシャネルならば知っているかもしれないと思い聞いてみる。
「ああ、そのたけなわね。宴もたけなわ――宴会が一番盛り上がってる時期って意味だわ」
「え、そうなの?」
てっきり、これで終わりって意味かと思っていた。
宴もたけなわ=終わり時、みたいな。
でも実際には最高潮の時って意味なんだな。
「登りきれば後は落ちるだけでしょ? だからその前に宴会を終了しましょうって意味なのよ」
「登りきれば……落ちるだけ」
うむ、たしかにそうだ。
そういう意味では俺たちはいま、まだ登っているのだろうか。それとももう頂上? 下降を始めているという可能性はないだろうが。
「で、たけなわってのはね、お酒を作るときに甘くなって飲み頃になった時期のことなのよ。つまりはお酒を飲むのに最高の時。たぶん、だから宴会の締めの言葉に使われたんじゃないかしら」
「へー、勉強になるなぁー」
たぶん明日には忘れてるけどね。
なんなら三歩先ですら忘れてるかもしれないけどね。
「ま、そういうわけよ。どうかしら、答えに満足いただけたかしら?」
「はい、ありがとうございます先生」
シャネルはクスクスと笑うと、よろしいと頷いた。
なんだか繋がれた手から水気を感じる。シャネルの手からサラサラとした汗が出ているのだ。
うーん、美少女は発汗もきれいなんだな。知らんけど。
けっきょく、俺たちは学校のある建物まで手をつないで歩いてきた。途中でたくさんの人に見られたが、気にしないことにした。
どうせ最後なんだ。これくらい見せつけてやろうと思ったんだ。
たまには良いだろ?




