126 ティンバイとおでかけ
長屋の壁は薄い。
隣の部屋の声どころか、下手したら隣の隣の部屋の声まで聞こえる。
だからみんなして石の下にいる虫みたいに静かに暮らしているのだが、ときどき声が聞こえてくることもある。どんな声かっていうとそれは喘ぎ声だ。
というか俺が童貞だからだろうか、生活音の中でも女の人の甘ったるい声だけが異常に敏感に聞き取られるのだ。
「あっ……んっ、ダメっ」
それはシャネルも同じなようで。
「朝からお盛んだこと」
呆れたようにしている。
「ほ、本当な」
昔どこかで聞いたのだが、興奮というものは視覚情報よりも聴覚情報から得られる割合の方が多いらしい。ためしにアダルトビデオを無音で見てみたが、たしかにぜんぜん興奮しなかったのを覚えている。
「ねえシンク」
「は、はいっ?」
なにが言いたいかって?
俺は興奮していたのだ。
なにが、とは言わないが目が覚めていた。起きていた、朝だから仕方ないね。(違うか)
「ちょっと文句言ってきてよ」
「な、なんで俺が。そういうのはシャネルの仕事だろ」
「……そうだわね。じゃあ行ってこようかしら」
立ち上がろうとするシャネルを俺は止める。
「あ、ちょっと待って」
手首を掴んだ。
「なあに?」
「あ、いや……」
おいおい、俺はいったい何を言おうとしたんだ?
自分でもわからない。
シャネルは不思議そうに俺を見ている。
「あっ、あっ、あぁん!」
声が大きくなった。曲で言ったらサビだ、盛り上がりの最高潮。ということはつまりもうすぐ終わる。
「べ、べつにわざわざ文句を言いに行かなくても良いんじゃないかな?」
「そうかしら」
「う、うん」
俺はシャネルの手を引き寄せる。
シャネルは思いのほか軽くて、そのまま抱きつくようにして俺に身を預けた。
「……ふふ」
薄くだがシャネルが笑った。
「あ、あのさ――」
なぜか俺は言葉を発してしまう。
バカか、俺。このクソ童貞。ここは無言でキスの一つでもして勢いで押し切るところだろう!
シャネルの青い目が、まるで期待するように俺を見ている。あ、いや。期待するようにってのは俺の願望か? これどういう目だ。ヤッちゃって良いのか、これ。
童貞だから分からねえ!
でもいい雰囲気なことはたしかだ。このままいくしかねぇ!
久しぶりに巡ってきた千載一遇のチャンス。ここで決めなきゃ男じゃねえ。感覚的にはあれだ、バスケで時間ギリギリでスリーポイントシュートをフリーでうつ感じ。そのまま入ればブザービートで逆転だ。(意味不明)
俺は無言でキスしようとシャネルに顔を近づける。
「真剣な顔ね」
微笑みながらシャネルが言う。
「ちゃ、茶化すなよ」
どうでも良いけど茶化すってなんだよ。お茶になる? くそ、興奮と緊張で変なことばっかり考えている。
くそ、やべえ。頭おかしい。いつものことか!?
俺は周りを見る。こういうときはあれだ、いつも邪魔が入る。だから俺は周囲を警戒。でも大丈夫、だってここは俺の家。邪魔なんて入るわけがない。
アイラルン、絶対いまだけ来るなよ!
心の中で願う。
どうやら大丈夫なようだ、
よし、やるぞ。本当にやるぞ!
ここから18禁だ!
興奮も絶頂、もうこれだけでいっちゃいそう。いや、どこにとかじゃなくて、うん、どっかに! たぶん世界の果てとかに!
シャネルが目を閉じた。
俺も思わず目を閉じる。いやいや、待て。俺は閉じちゃダメだろ。そう思って目を開けて、キスしようと――。
あ、なんか外が騒がしいぞ。なんか歓声みたいな。
さっきまでの喘ぎ声とは違う。
なんかこう……舞台とかであがる声だろう。そのうちブラボー! とか聞こえてくるかもしれない。
なんて思っていると、
次の瞬間、
家のドアが乱暴に開けられた。
「おおい、兄弟! いるか!」
……いるよ。
シャネルがそそくさと俺から離れる。
ああ、俺のシャネルが離れていく。恥ずかしそうにしている。
あーあ。
「なに……ティンバイ」
「あ、いや。あれか? 俺様もしかして邪魔だったか?」
「邪魔だよぉおおぉおおお!」
本気で叫ぶ。
たぶん長屋中に聞こえただろう。
だからどうした、このクソ野郎。
「おら、表にでろ! 決闘だ!」
謎のイキり発言。
「バカなこと言ってんじゃねえよ、それより付き合え」
「ああっ? ホモかてめえ、俺にそんな趣味はねえ!」
別に童貞なのはホモだからじぇねえぞ!
ちなみに、こういうのはイキるというのではなくささくれると言うのです。
「まったく大丈夫かよ、兄弟」
「シンクはいつもそんなのよ」
むしろシャネルがいつもそうだ!
タイミングが悪い。
いい雰囲気になったら邪魔が入る。
悪いのは誰か、俺か? そういや俺って運のパラメーターが0だったよ!
「それで、なんの用。俺、今日は非番でゆっくりしてるんだぜ」
午後になったら久しぶりに師匠のところにでも行こうと思っていたのだ。同じ奉天に住んでいるのにここ最近はめっきり会っていない。
「そうか非番か、そりゃあけっこう」
「用件を早く言ってくれよ」
「兄弟、ちょっと一緒に遠乗りに行くぞ」
「遠乗り?」
って、なんだ。
むかし『あいのり』って番組あった気がするけど。
「おうよ、高名な先生に会いに行く」
「それってつまり、仲間集め?」
「そういうことだ、察しが良いな」
「よく言われるよ」
遠乗りっていうのは字面から見るに遠くへ行くことだろうか。まさか電車やバスで行くわけがないから馬に乗っていくんだろう。
「出かけるの?」
「うーん」
正直断りたい。
シャネルとこのままイチャイチャしていたい。
でもティンバイは曲がりなりにも俺の義兄弟で、しかも俺の所属する馬賊のボス、つまりは攬把だ。断るわけにもいかないだろう。
「気をつけてね」
シャネルもそのことを分かってくれているのだろう。優しく見送ってくれる。
いい女だ、と思った。
でも俺がシャネルと離れたくないのだ。
「シャネルも一緒に行くか?」
良いよな、とティンバイを見る。
しょうがねえな、とティンバイは頷いた。
でもシャネルが首を横に振る。
「やあよ。私、馬なんて乗れないもの」
そういえばそうだった。シャネルってなんだかんだで色々できるから馬にも乗れるのかと思ってたけど、よく思い出してみればそんな姿は一度も見たことがない。
「そうか」
「留守番してるわ」
そうは言っているが、ちょっと寂しそうだ。
「できるだけ早く帰ってくるから」と、俺。
「しかし今日中には戻れないぞ」
「え、そうなの? 先に言ってよ」
「だからいま言っただろう」
ごもっともです。
「シンク、夜ご飯はちゃんと食べるのよ、歯を磨いて、寝るときはお腹を出さないようにね」
「わ、分かってるよ」
やめてくれよティンバイの前で。恥ずかしいじゃないか。
いってらっしゃい、と手を振られる。
「愛してるわよ」
俺もだよ。
さて、外に出るとなぜか人だかりができている。
「なんだなんだ?」
長屋の前の道は狭いから、かなり人がいてぎゅうぎゅう詰めだ。
「大攬把!」
と、誰かが叫んだ。
「はっはっは、ありがとよ」
ティンバイは舞台役者が声をかけられたときのように片手をあげて見栄を切った。
それでわっ、と群衆が盛り上がる。
どうやらティンバイ目当ての人たちらしい。
さすがの人気である。
「すごいな」
と、俺は思わず言う。
ティンバイはだろう? とでもいうように自慢気な表情だ。
「ちょっとどいてくんな、俺様たちはいまから行かなくちゃいけねえとこがあるんだ」
その言葉で海を割るように人がどいた。
ティンバイは乗ってきた馬に颯爽と飛び乗る。
「あ、待って」
「なんだよ兄弟、早く馬をひけ」
「いやあね、俺、じつは自分の馬を持ってないだ」
何いってんだ、こいつ。みたいな顔をされた。
俺も馬賊としてそれが恥ずかしいことだとは分かっているつもりだ。
「じゃあいままでどうしてたんだよ、この前の戦いでだって乗ってたじゃねえか」
「あれはダーシャンのだよ、借りてるんだ」
「なんだよ兄弟、駆け出しの見習いじゃあるめえし、情けねえ」
「そういうなよ、俺だって馬賊になったのはすぐ最近じゃないか。とりあえずダーシャンのところに行こう」
そして馬を借りるのだ。
ティンバイはしゃあねえなと一旦、自分の馬から降りた。
「案内しな」
街を歩けばティンバイの人気は凄まじいもので、どこにいても歓声があがる。そのせいでいつもならばすぐにつく酒場まで3倍以上の時間がかかった。
店の前に馬をとめる。ティンバイは人々へのファンサービスのために大忙しだ。俺は1人で酒場の中へ。
酒場の店主が仕込みをしていた。
「いらっしゃい。あれ、今日は非番じゃなかったかい?」
「そうなんだけど、ダーシャンいる?」
「奥で寝てるよ」
「ダーシャン、いるー?」
俺はその場で大声を出す。すると、ドタドタと大きな足音をたててダーシャンが出てきた。
「朝からうるせぞ、シンク」
「おはよう、ダーシャン」
「さっき寝たばっかりなんだ、こっちは。オエエェ……」
どうやら二日酔いのようだ。目の下には青黒いクマがある。
「ダーシャン、馬かしてよ」
「馬? 今日は休みだろうに」
「そうだけどさ、ちょっと遠出に行くんだ」
「遠出?」
ダーシャが首をかしげる。
そのとき、外からティンバイが入ってきた。
「どうだ、話はついたか?」
どうやらファンサービスに区切りをつけたらしい。たしかにどこかで終わらないと一生奉天の人たちに担ぎ上げられているだろうからな。
「ら、攬把!」
「おう、ダーシャンだな」
「な、名前を覚えていただけたんですね! 光栄です!」
「当たり前だろう、俺様は部下の名前を一度聞いたら忘れねえ」
ふーん、意外に部下思いなのだな、ティンバイって。
「もしかしてシンク、お前遠出って攬把と行くのか?」
「おう」
「バ、バカ! それを早く言え! すぐに馬をお持ちしますので、少々お待ちを!」
ダーシャンは寝巻きのまま馬小屋のある外へと出ていった。外にはティンバイ目当てでたくさん人がいるというのに、恥ずかしいやつ。
すぐに馬は用意された。
「ありがとうな、ダーシャン」
「お前のためにやったんじゃねえ。攬把、こいつがなにかしでかしたら遠慮なく殴ってやってくだせえ。なにぶんまだ新入りで、腕っぷししか取り柄のない男ですから」
「それだけありゃあ十分さ」
「あ、そうだ。なんでしたら自分もお供しましょうか?」
「お前が……?」
ティンバイはダーシャンのことを上から下までじっくりと見る。
「はい! お役にたちます」
「あ、いや。おめえはダメだ。どうもその体じゃあ目立ちすぎる」
「そうですか、分かりました」
ダーシャンは目に見えてしょんぼりしている。なんだかかわいそうだ。
「ま、今度なんかあったらお前を頼るよ。そのときは頼んだぜ」
「は、はい!」
さすがは英雄たる男だ、フォローもかかせない。
俺は借り物の馬に乗る。なんだかいつもやる気のなさそうな馬だ。けど意外と言うことは聞いてくれるので不満はない。
「シンク、くれぐれも攬把にそそうのないように!」
「うるせえ! あ、それと明日もいないと思うから!」
「わかったぞ、攬把と一緒なら誰も文句は言わねえよ!」
「あばよ、お前たち!」
ティンバイが街の人たちに手を振る。
馬を進めると好奇心旺盛な子供なんかはその後ろに走りながらついてくる。ティンバイはそれを楽しげに見ながら、まるで遊ぶように馬の速度を早めた。
「で、どこに行くのさ?」
俺はティンバイに馬を並べながら聞く。
奉天の街は雑多だが、道さえ選べば馬でもちゃんと走れるのだ。
「鳳城市だ、ここから南に50里ってところか?」
「ほえー」
やべえ、ぜんぜん分からねえ。キロメートルで言ってくれない?
というかあれなのね、ドレンスにはメートルがあるのに、ルオの国じゃ使ってないのね。
「分かってなさそうだな、兄弟」
「うん、ぜんぜん。それって馬で何日くらい?」
「ま、3日ってところだろう」
「3日! いやいやいや」
なんだそれ、思ったよりも遠いぞ。マジかよ。
というわけで俺は突然にしてティンバイと一緒に街の外へ出ることになった。
とほほである。なかなかの距離、男2人旅。
乗りかかった船、ならぬ乗りかかった馬だ。しょうがない、やるしかないな。
馬はいつもよりやる気がなさそうだった。




