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痛い、痛い。
息が、……だめだ休むな!
「くそっ、くそっ!」
命からがら、やっとここまで来た。
「くそっ! くそがっ!」
トガギンのドアを、肩でぶつかるようにして乱暴に開ける。
吊り下げられたベルが、ガラガラと喧しく鳴いた。
「おや本田様」
「八木沼ぁ……」
昼も夜も変わりなく、そこにいるのは八木沼。
この悪魔は、寒気がするほど白々しく驚いて見せる。
……どうせ全部知ってるくせに!
「こんな時間にどうなさいました。……怪我もしてらっしゃる」
「てめぇ……っざっけんじゃねぇぞ!」
「落ち着いてください。まずは止血しませんと」
指摘されると傷が思い出され、痛みが倍になるようだった。
全身から零れる血のせいでくらくらする。
湧き上がる怒りのせいでくらくらする。
追われる恐怖のせいで、くらくらと。
「救急車を呼びましょう。それとも馴染みの闇医者のほうがよろしいですか」
とか何とか言っておいて、こいつは立ち上がりもしないのだから。
「くせぇんだよ八木沼ぁ! 全部てめぇの仕込みだろうが!」
「穏やかじゃありませんねぇ。どうしたというのです。一体何がありました?」
「何がだと? テメェがけしかけたバケモノのせいでこのザマだ!」
左手を突きつける。
そこには、くそっ、小指が根元から欠けていて……。
ほう、と八木沼は息をついた。
その態度に頭がカァっと熱くなる。
刃物さえあればこの悪魔を刺してやったのに。落としたナイフは拾う間もなかったから。
ふむ、と八木沼はもう一度息をついた。
「バケモノ……ですか」
「女だよ、女ぁ! とぼけてんじゃねぇ!
制服の小娘が、首輪! オレの、預けた罪! 巻いて現れやがった! てめぇが寄こしたんだろ!」
ようやく得心したようで、八木沼は鷹揚に頷く。
「それで、本田様はその少女に襲われた、と」
「そうだよ! 聞いてねぇぞ罪が『使える』なんて……っ! あんな、バケモノ、犬! あんな風に、くそっ!」
あれじゃあ魔法か……本物の悪魔じゃねぇか!
「本田様。その襲撃は、当方の与り知らぬことです。そもそも貴方を害する理由もメリットも、我々にはない」
「っ、……じゃあ、あのメスガキはなんでオレの首輪をしてやがった! お前がくれてやった以外にねぇだろ!」
「くれてやってなどおりません。融資したのです」
あんまりにもあっけらかんと、悪びれもせず、八木沼が言うものだから。
一瞬頭が真っ白になる。
「……なんだって?」
「ですから、融資いたしました。貸し付けたのでございます。
――本田様、ここはクライム・バンク、罪の銀行ですよ?
罪を預かり保管する。
そして罪を求める方へ、当方の裁量でもって融資する。当然、後に利子を付けて返していただきますがね。
本田様の首輪は、その少女に貸し付けられた、という訳ですな」
こいつは、何を言っている?
融資。貸し付けるだと?
「き、聞いてねぇ、聞いてねぇぞそんなの!」
「えぇ。始めのご説明の際に、本田様が『知らないうちに自分に罪が降りかからなければ何でもよい』と仰いましたので。省きましたね。
覚えていらっしゃいませんか? お訊ねになりたい事がございましたら都度ご遠慮なくお問い合わせください、とも申しましたが」
「……っ、だからって、そんな重要なことは教えろよ!」
「おや本田様、罪の借り受けにもご興味があったのですか? でしたらご相談して下さればよかったのに!
……そもそも預けた罪に利子が付くのだって、貸し借りが存在するからですよ。気付きませんでしたか?」
「このっ、悪魔っ!」
なんてことだ。こんな罠が仕掛けられていたなんて。
自由だと思ったのに。自由になれるシステムだとばかり、思っていたのに。
オレは今、あのメスガキに、復讐されようとしている。
このオレ自身の貯めこんだ、罪によって。
「なら……なら、オレにもだ! オレにも罪を貸せ! 融資しろ! 形になった罪は使えるんだろ! あの犬どもを殺せるくらいの罪を寄こせ!」
「それはもちろん、承りますけれども。
しかし、ただ預かるのと違って融資契約の際は、審査にも書類作成にも手続きにも時間が掛かりますからねぇ」
そして悪魔は酷薄に笑う。
「もう、手遅れかと存じますが」
「な――」
八木沼の指さす先、開け放たれたままのドア。
夜の冷気が吹き込むそこに、一頭の黒犬が立つ。
「おい、……よせ、」
猟犬は、ゆっくりと瞬きをして。
「やめろっ、」
おんおんと、天に向かって高く吼えた。
……群れが来る。
その息遣いが聞こえる、爪の掻く音が、牙の打ち鳴らされる音が!
いやだ、嫌だ嫌だ嫌だ!
「嫌だ、ふざけるな! 助けろ、助けろ八木沼! てめぇの撒いた種だろうが!」
「何を仰いますお客様」
悪魔は、オレを心底嘲るように、ころころと嗤う。
「これは貴方の種でしょう。貴方が養い、貴方が育んだ罪の結果だ! 貴方の犯した罪の数が首輪の数、すなわち魔犬の数にございますよ!」
ぐるぐると唸りながら店に入ってくる犬は、いったい何十頭いるのか、数えようとしても見当もつかない。
オレが、今までどれだけの罪を犯してきたのか、記憶に訊ねても……見当もつかない。
そのどれもが金色の目。
そのどれもが全身に殺意を滾らせて。
オレは、食われる。
そう、確信させられる。
「――八木沼さん」
だが、そんな犬たちよりも鮮やかに輝く金眼で、そんな犬たちよりも凶暴な殺意を宿した少女が、最後に店へ。
オレは、喰われる。
そう、確信させられる!
「八木沼さん、邪魔、しないよね?」
「もちろんでございます鏑矢様。お客様同士のいざこざに首を突っ込むような、出過ぎた真似は致しませんよ。
……というより、外でやってもらえません?」
だが八木沼の言葉を、少女は聞いているのかいないのか。
「よかった」
顔を綻ばせ、そしてオレへと何かを放った。
「ひっ、」
オレの足元に転がったそれ。
……刃の出たままの、バタフライナイフ、オレのだ。
「拾いなよ。本田将人」
「はっ、えっ?」
「そして足掻きなさい。私は今からお前を殺すけど、ほら、それがあれば、もしかしたら生き残れるかもしれないよ?」
馬鹿言え。
そんな訳ない。生き残れるなんて、そんな訳……。
嬲ってやがるんだ!
……そうと分かっていても、拾わずにはいられない。
せめて縋るものが一つでもなければ。このまま、崩れ落ちてしまいそうだから。
「はっ、ひっ、はっ、」
「覚悟はいい? じゃあ――殺し合いましょう」
飛びかかってくる犬。犬。犬。
今度こそ逃げられない。
いや、さっき逃げられだって、逃げ『させられた』のだ。
ナイフを持つ手なんてすぐ喰われた。
足も。
胴も。
肩も。膝も。腹も。喉も。胸も。爪も。腸も。目も。頭も。顔も。腕も。
咀嚼される。
オレの全身がバラバラに、別々の口の中で。
最期には、一欠片だけのオレが床に残った。
「――だから。店の外でやってくださいと、言ったのです」
八木沼の不機嫌な声を聞き。
オレは、ついに全部を、喰われ、、、、、