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おや、と思う。
「見つけた、見つけたぞっ!」
いや、恨まれること自体に不思議はない。
あちこちでいろんな形で、人を損なってばかりなのだ。どこでどんな怨恨を買ってもおかしくないだろう。
このノリは仇討ちにでも来たのだろうが、それだって別に驚くほどのことじゃない。
だがこの相手は……なんとも。
少女だ。女子高生。
何で分かるかって、そりゃ制服だもの。羽織ったコートの前を開けているからそれが窺える。
巻いたマフラーが解けかかっているところを見ると、さては走って来たのか。
「本田、将人だな……」
「そうだけど。誰?」
少女の握った拳が震えている。
これは……本当に復讐か。
ため息が出る。
舐められたものだ。
もちろん得物の一つも持っているのだろうけど、女の細腕ではむしろ返り討ちだとか、考えなかったのだろうか。
その結構な顔立ちで、男でも釣って連れてくればよかったのに。
ポケットの中で、ナイフを指でなぞりながら訊ねる。
「どっかで会ったっけ?」
「……鏑矢って名前を、覚えているか」
少女の押し殺した声。
……鏑矢? 参ったな、名前を覚えるのは苦手なんだ。
――一瞬。彼女の勝気そうな目元に、何かを思い出しかけるが。
結局何も出てきはしない。
少女は歯を剥く。
「吉祥寺の強盗殺人! 忘れたなんて言わせない! 私の父さんと母さんを殺し、飼い犬のエヴァンスも殺して……姉さんを犯して殺したことを!」
「……」
覚えてない。
どれのことだ? 吉祥寺?
せめて無言を貫いたけど、まぁ表情に出たんだろう。
少女はぎりぎりと激昂していった。
「覚えて、ないの……? 私はお前を忘れたことなんてないのに!」
「あー……いや、だったらなんで君は生きてんの? 見られたらオレ、君のこともその姉さんと同じにしてるはずだけど」
「クローゼットに隠してくれた……姉さんが、私を! お前に犯されて、拷問されても、姉さんは……私は旅行中だって、言い張って……」
あったかなぁ、そんなこと。
まぁ殺すパターンのときはいつも、家族写真なんかで確かめて、その家に足りない住人があった場合には念入りに所在を訊ねているから。
その吉祥寺の事件とやらが、いつも通りだとすれば、あったんだろう。
不覚ではある。
顔を見られたなんて、以前であれば背筋が縮み上がるくらいの。
今は?
どうでもいい。
オレの罪はとっくにトガギンの禁庫の中だ。当然その、吉祥寺のも。
そういえば、買い物に行った女、まだ戻って来ないな。
「私は! お前を探した! 警察にも言ったけど、私も動かずにはいられなかったから!
顔から、名前を調べて、今日ついに! 辿り着いたんだ!」
キャンキャンうるさい。犬みたいだ。
「そりゃご苦労さまでした。で? どうすんの?」
「……え?」
「だから。オレを見つけて、どうすんのさ」
あぁなんだか。
愉快になってきた。
「警察を呼ぶ? 無駄だけどね。トガギンって知ってるかなぁ。信じられないかもしれねぇけど、オレは罪を預けて、もう無罪になっちった! 警察はとっくに、オレの相手なんかしないよ。
じゃあ君が自分で復讐する? したらオレのほうが警察呼んじゃうけどね。今オレ、善良な一市民だし。
……てめぇは現れんのが遅すぎたんだよ。とっくの昔に! オレは自由だ!」
立ち上がり、少女の襟首を掴む。
「やっ、」
「ほら、刺すなら今だぜ? 何か持ってきてんだろ。刃物か、それともスタンガンか? 催涙スプレーくらいなら簡単に手に入るよなぁ! 早くしないとオレが先に刺しちゃうぜ!」
抜き出したナイフを小娘の鼻先に突きつけると、あぁ、いい。憎悪の目が、一瞬恐怖に揺れた。
そうしてすぐに、自分を鼓舞するように怒りで表情が燃えた。
その目がいい。すごくいい。
この娘を食ったら、すごく美味そうだ。
「なぁ、オレは君の姉さんをどんな風にシた? 見てたんだろ、教えてくれよ。箪笥ん中で、姉さんの喘ぎ声を聞いてたんだろ? 君のことも同じようにヤってやるからよ。自分と姉さん重ねてみろ、復讐なんかブッ飛ぶくらい良くしてやる」
「……ってない」
「あ? なんか言ったか?」
「お前は、分かってない。何も分かってない」
「なんだと?」
その目が、今度は鬱陶しい。
どんな苦痛にも恐怖にも、変わらず射ぬいてくるような、侮蔑の目……あれ、どこかで……?
「お前は分かってない。
罪を取り払ったって、事実は無くならないんだ。
魂の穢れは、無くならないんだ。
罪自体だって、物になって外れただけで、消えて無くなりはしないんだ!
お前は! お前の犯した罪によって! 必ず地獄に落ちるんだ!」
「っ、あぁそうかい! じゃあせいぜい生きてるうちに天国を見とくとするよ!
だけどなぁ、クソガキ! 今日生き地獄を見るのはテメェだ! 死にたがったって殺してやんねぇからな!」
さらに強く首を絞め上げる。
そしてそのまま宙吊りだ。こんな小娘一人、片手で足りる。
少女が苦しそうに顔を歪めるのが心地良い。
それでも、この女は、絞り出して言うのだ。
「っだから、お前は、分かってないっていうんだっ」
「うるっせぇな、マジでハジくぞ!」
決めた、太腿に刃を突き立ててやる。
それで大人しくならなきゃ、足もう一本だ。
ガキはまだ喚く。
「本田将人……っ! お前の罪は、お前に追いついた! この私が! お前の地獄よ!」
「あぁ? わけわからんことを――っ痛ぇ!」
右手に激痛が走り、ナイフを落としてしまった。左手の小娘も同様に。
「てめ、なにを、」
この女が何かしたのかと思うが、地べたで咳き込むばかりのこいつに、何が出来る訳もない。
右手を見る。
「なん、だこれ、……」
掌から血が流れていた。何で付いたのか分からない傷。
待て、見覚えがある。
これは……歯型、噛み傷?
噛まれたのか? 何に? 一体いつ?
「……あ?」
見間違い、だろうか。
いや違う!
間違いじゃない。
今、地面に積もった雪、その上に……足跡が走った。
そこには何も、いないのに。独りでに刻まれていく……獣、獣の足跡だっ!
何頭分も、何頭分も。
気付けば息遣いを感じる。むせ返るほどに。
体温も。
視線も。
……殺意も。
馬鹿な。馬鹿な馬鹿な馬鹿な。
透明なケモノがいるっていうのか?
いつの間にかオレは、足跡に、囲まれていた。
「なにがっ、なんでっ、」
「――お前の罪よ」
這いつくばっていた小娘が、ゆらりと立ち上がる。
その拍子にコートが落ち、マフラーが解けた。
「私の家族を忘れても、これは忘れないでしょう。お前は、自分の罪を『形』にした。
八木沼さんから聞かなかった? 形になった罪は、物になった罪は、『使う』ことが出来るんだ。道具として、武器として。
……ほら、唸る声が聞こえる。爪が地を掻いてる。牙が鳴って、空気が震えてる。
――私の持ってきた刃は、ナイフよりもスタンガンよりも、催涙スプレーなんかよりも、よっぽど鋭いぞ」
「てめぇ、それ……」
小娘の瞳が、不可思議な金色に輝く。
いや、目なんてどうだっていい。
それよりも。
マフラーの無くなった、その細く白い首に絡まっているのは。
「オレの、『罪』の首輪か……?」
ぐにゃりと空気が揺らめいた。
そして、雪の上に、唐突に現れたのは……犬だ。
夜闇を固めたように黒い、大型の犬。
出した舌が赤い。
剥いた牙が白い。
オレを見据える双眸が金色で。
それが、何頭も、何頭も。
みんな、小娘と同じ、オレの罪の首輪を巻いていて。
「本田将人。お前は自分の罪を噛みしめろ」
どうするかも頭に浮かばない。
オレはとっくに猟犬の群れに取り囲まれている。
小娘は、その奥に、女王のように君臨していた。
「私たちは、お前の肉を、噛みちぎってやるから……っ!」
毛並みを逆立てる犬たちに、肌が泡立つ。
オレを喰うのか。
こんなことがあっていいのか。
オレを喰うのか。
ナイフで?
こんなことが。
どうにかなる?
飛び来るケモノの、喉の奥が、赤い。