10
猟犬たちは、腹を満たすと空気に融けて消えた。
まるで全てが悪い夢だったみたい。
人を殺した。
私の家族を殺した男を、私がこの手で、殺した。
わるいゆめみたい。
まるで実感がない。
私の人殺しの証拠は、この血溜まりと、私自身の魂の穢れだけ。
なんだか、ひどく疲れてしまった。
私はつい今しがたやり遂げたことに放心し、壁に背中を預けて、冷たい床に座りこんでいた。
八木沼さんがどこへだか電話をかけるのを聞き、蟹沢さんがお店のシャッターを降ろすのをぼんやりと眺めていると。
目の前にマグカップが差し出される。
「え?」
「あ、あの……どうぞ……」
「あぁ……。ありがとう、ヒツジちゃん」
受け取ると、ホットミルクだった。
ハチミツでも入っているのか、仄かに甘い香りがして、私は、どうしてだろう……、
「あれ? なんで、」
涙が溢れて止まらなかった。
安堵だろうか。
恐怖だろうか。
罪悪感か、それとも解放感か、あるいは達成感かもしれない。
とにかく復讐をやり遂せた私は、いろんな気持ちを綯い交ぜにして、頬を濡らしていた。
ヒツジちゃんがオロオロとしている。
いけない、泣き止まなければ。そうは思っても……。
「……父さん、母さん、エヴァンス。――姉さん。私、やったよ……」
私は細く、私にだけ聞こえるように、呟いた。のに。
「えぇ。やりましたね」
――気付くと、八木沼さんが私の隣に立っている。
爪先で血溜まりを踏み、靴についた赤で床に顔文字を描いていた。……なんて悪趣味。
「お見事でした。これで貴女様の復讐は完遂した。
あれほどまでに『罪』を展開できるとは、いやはや。呼べても犬二・三頭が限度と思っておりましたが、お見逸れしました。才能ですね」
「……嬉しくないよ」
八木沼さんなりのお世辞か激励なのかもしれないけれど、私は正直なところを答えた。
すると彼は心底楽しそうだ。
「仇を討ったのに、嬉しくないと?」
「…………。そっちじゃなくて。罪を使うのに、才能があるのなんかが」
「確かに『罪を使う』こと自体にも罪が発生し、付き纏いますからね。イコール、咎人である才能というわけですから、お気持ちは察します。
今宵、貴女は何の罪もない人間を、罪で殺した」
いじわるな、言い方。
「まぎれもない罪人ですね、貴女は」
「…………」
そう、罪人。
どんな形であれ、どんな相手であれ、人を殺せば罪人だ。
法がどうとかすら関係ない。魂が、罪を負うのだ。
そして、いつか自らの罪によって裁かれる。
私が殺した、この男がそうであったように。
きっと、私も……。
首に巻いた罪の首輪が、少し締まった、ような気がした。
「鏑矢様。よろしければ貴女が今日犯した罪を、当店でお預かり致しますが。もちろん、その首輪も含めて」
あぁ、本当に八木沼さんは悪魔なんだ。
私を無罪潔白にしてくれるって。なんて甘美な、優しい誘惑なんだろう。
きっといつもこんな風に、罪を保存して循環させて流通させて、そして増やしていくのだろう。
「……うぅん、いい。預けない」
「本当に? よろしいので? 貴女、罪人ですよ?」
「うん。私は償う。自首する。私が憎んで私が殺した男と、同じことはしたくないから」
それに。
「それに、罪を預けることは合法かもしれないけれど……やっぱり、いけないこと、罪だよ、それは。
罪を預けて無罪になっても、魂は、罪を負ったままなんだ」
「……決意は固いのですね? 絶対に、どうしても、罪は預けない?」
「うん。八木沼さんは、残念だろうけど」
この人は、この首輪の形した罪をクライム・バンクで持っておきたかったはずだ。
これだけの力がある罪ならば、次の罪と悲劇を生むのは簡単だろうから。
――だからこそ、私が持ったままにして、私が償うんだ。
「でも、ありがとうは言わせて。
八木沼さんとクライム・バンクのせいで私の仇は捕まえられなくなったけど……八木沼さんとクライム・バンクのおかげで、私は私自身の手で、復讐を遂げられた」
「いいえ。全ては貴女の才覚と、覚悟の賜物です。我々は、何も」
「…………。じゃあ、私、これで。警察、行くから」
立ち上がる。
と。
八木沼さんの声音が、変わった――
「あぁ、それは叶いませんよ」
「え……?」
「警察は貴女を取り合いません」
いたずらが成功したような、八木沼さんの顔。
私はさぞ、ポカンとしていたことだろう。
「貴女はここで働くのです。ここ、クライム・バンクで。住み込みでね」
「え、え?」
何を言っているんだろう?
話が急過ぎて、全くついていけない。
「ちょ、ちょっと待って、え? なに、なんのこと?」
「貴女、罪の融資を受けるとき、ご自身の『人生』を担保にしたでしょう」
ほら書類、と鼻先に突きつけられる紙切れ。
そこにあるのは契約内容……人生を担保に、罪を借りる旨。
と、私自身のサイン。
「借りたものには利子を付けて返さなくてはならない。貴女は返済に必要なだけの罪を犯し、その首輪に合わせて返さなくてはならないのです。
……が、それは嫌なのでしょう? 償いたいのでしょう? その首輪さえ、禁庫には入れないのでしょう?
では仕方ない。当店は契約に則り、担保から回収することに致します。貴方の人生は担保分、当店のものです」
「……ちなみに、返済に要る罪って、どれくらい? 私いま、人殺ししたんだけど……」
「そんなものは使用した罪の補填分にしかなりませんよ。
分かります? 罪は『使え』ば『減る』んです。当たり前でしょう? 物は使えば減っていくのだから!
そんなねぇ、一人殺したくらいで、しかも正当で情状酌量の余地が多分にある復讐殺人では、返済には全然足りませんとも」
話についていけず呆然とする私を、八木沼さんは……八木沼は、楽しそうに覗き込んでくる。
「大丈夫ですか?」
大丈夫じゃねぇよ……。
「じゃあ、なに? 私、ここの従業員になんの?」
「返済分、罪を犯すのが嫌だと仰るのなら。
別に、わたくしはどちらでも構いませんが」
この人……。
「本当に、悪魔だね……」
それが私が出せる最後のぐうの音だった。
白旗を上げた私に、八木沼は満足そうに頷く。
「ようこそ、鏑矢果穂。今日から貴女は、クライム・バンクの一員です」
――こうして私はこの世の悪を増大させ、増長させる、最低な業界の末端になった。
上司は悪魔で、財産は仇の残した首輪だけ。
返済分に持っていかれる人生が果たしてどれくらいか……考えたくもない。
いろんな意味で終わってる。
それでも、私は、晴れやかだった。
きっと、私が悪人だからだろう。
復讐が終わって、心が軽いなんて。
「では、さっそく最初の仕事ですよ果穂。はい、モップ」
八木沼は、この時ばかりは裏なく、慈しむように微笑んだ。
何故だかは、私には分からないけど。
「まずは床掃除から。その血溜まりを残らず拭き取って、元通りのピカピカにしてくださいね。貴女が汚したんですから」
あぁ本当に。なんて意地悪な人なんだろう。




