オレンジ色の花の名を求めて
瞬くと、無意識なのか意識的なのか、巧みに自分と距離をとっていた息子の歩幅が縮まるのが見て取れた。
「何かあった?」
意を決して駆け寄り横顔を覗くが、タイガは曖昧に頷くだけで小走りして私と微妙な距離を取った。離れて行ってしまう息子の背中を反射的に追いかけようとして、それでもはじめの一歩が遅れてしまう自分がいた。
今年で小学校三年生になった息子は、学年の中では小柄だと言っても親から見れば日々の成長は著しく、きっとそれに伴って心の方も変化しているのだなと思わせるような態度を近頃取り始めていたのだった。その最たるところが自分と距離をとるところにあると感じてはいるのだが、だからと言って無理にそれを縮めるべきなのかすら、私にはわからないでいた。
「ねえ、歌でも歌おっか」
努めて明るく声を掛けるが、タイガは首を縦に振ろうとしない。
せっかく久しぶりに散歩に連れ出したというのに、離れて歩いているだけでは何の解決にもならないではないか。私はあれやこれやと思いつくままに、昔、彼が好きだったお遊戯や絵本の話をして気を引こうとしたのだが、それらは悉く不発に終わってしまった。
「何? やっぱり何かあるの?」
そんな彼が再び歩幅を縮めた時、私は勇気を振り絞って背後から彼の見ているモノを覗き込んだ。
「なんだ、ハルジオンか」
「ママ、知ってるの?」
軽い気持ちで応えたが、思いのほか目を輝かせてタイガは食いついてきた。どうやら通学路に咲く花の名前に興味があったらしい。
―――それにしても、男の子なのに花の名前に興味があるなんて……。
言いたい言葉も今は飲み込んで、私は自分の知っている野花を見つけるたびにタイガにその名を教えて歩いた。
「ママ、これは?」
「オオイヌノフグリ」
「これは?」
「アヤメ」
「これは?」
「シロツメクサ」
名前を言いながら手早くその茎を編んで、輪っかにして見せる。子供の頃の遊びはいくつになっても覚えているものだ。
「これはオオバコ」
茎を交差させ引っ張り合い、先に切れた方が負けという遊び。これにはタイガも夢中になった。しばらく二人で太い茎を探し回った。
「これはタンポポ」
「それは知ってるよ」
笑って息子は種を吹き飛ばす。
私も自然と笑顔になって、久しぶりに息子と同じ歩幅で歩ける小さな幸せを噛み締めていた。
「ママ、これは?」
そろそろお家に戻ろうと話している最中に、ふと立ち止まった息子が訊いた。そこには長い一本茎から比較的大きな花弁を咲かせたオレンジ色の花があった。花弁は四枚。花色は根元が濃く、先端に行くほど淡くなっているように見える。鮮やかなオレンジ色のグラデーションだ。
「ねえ、ママ?」
タイガは私が答えられるものだと思って純粋な目で首を傾げて待っている。だが私はその花の名を知らなかった。というより、それは絶対、私が子供の頃にはなかった花だった。去年あったのかも疑わしく感じる。とにかく私はそのオレンジ色の野花の名前を知らなかった。
「ごめん、ママにもわからないや」
その言葉を聞いた息子より自分の方が思いのほか落胆してしまい、フォローの言葉すら見つけられなかった。
「パパなら知っているかな?」
「いいや、絶対に知らない」
夫の顔を思い浮かべて、期待感ゼロの声を出す。
―――このオレンジ色の花の名前を教えてやれば、息子は喜んでくれるだろうか。
私はしなやかな花弁を撫でながらそんなことを考える。
「よし、帰ろう」
折り返し地点より前に私は確かな足取りで踵を返し、後をついてくる息子を確認すると、こう告げた。
「お家に帰って調べよう」
自宅に戻ると夕飯の支度もそっちのけで一輪だけ摘んできたその花の名前を調べ始めた。パソコンとにらめっこして、【オレンジ色】【花弁四枚】【野花】など、様々なワードで検索を試みたが、同じような花が数多くあり、しかもほとんどが接写しか存在せず、路肩に咲いているイメージと合致するものには辿りつけなかった。
どうにも気になって仕方なくなっている私を尻目に、タイガは空のペットボトルに水を入れ、その花を一輪挿しにして食卓に置いた。そして私の隣に腰かけて、これじゃない、これかもしれない、などと意見を述べてきた。頬杖ついて楽しそうに画面と花を見比べている息子を微笑ましく感じる一方、私には何としてもその花の名を調べなくてはという強い義務感が生まれていた。
「もうパソコンじゃ埒が明かない」
しばらく粘った後、痺れを切らしてパソコンを閉じた。
「明日、図書館に行ってくる」
そして私はそう宣言した。
「もう、図鑑を見まくって意地でも名前を探してやるんだから」
面白がるように母親を見上げる息子も、どこかウキウキした様子だ。
「ママ、なんだかやる気だね」
「うん、なんだかすごいやる気出てきた」
フン、と気合を入れて見せると、タイガも笑ってそれを真似た。
「あらやだ。もうこんな時間じゃない」
気づけば夕飯の時間が迫っていた。
「もうすぐパパが帰ってきちゃうよ」
「すぐに夕飯の支度するね。タイガ、手伝ってくれる?」
近ごろ言いづらくなっていた言葉も、この時は勢いで言えた。いつの間にか二人の距離が近づいたような気がして、私は素直に嬉しかった。
台所に立つとすぐにインターホンが鳴った。
「どうしようママ、パパ、帰ってきちゃった」
本当に心配そうな息子に、私はいたずらな笑みを向け、大丈夫、と告げる。
「今日のことを正直に話せば許してくれるはずよ、きっと」
そしてそう言いながら、食卓に飾られたその花を見た。
「あ、この花」
ただいまを言う前に夫はその名も知れぬ花に気付いた。
「キレイでしょう」
「本当だね」
「今日、一緒に摘んできたんだよね」
自慢げにそう言うと、タイガも共犯者然として私に同調して見せる。
「最近、この花、よく見かけるようになったよな」
ええ、今日はこの花の名を二人で調べていたの。そう告げようとした時だった。
「確か、ナガミヒナゲシっていうんだよな」
思いがけず夫の口から出た花の名を聞いて私は心底驚いてしまった。
「パパすごい! この花の名前しってたんだ」
「え? ああ。当たり前だろ? ほら、パパは物知りだから」
タイガの反応にまんざらでもない態度を夫は取る。
「どうしてあなたが花の名前なんてしってるのよ」
私は疑念に満ちた声を上げるが、
「どうして俺が知ってちゃいけないんだよ」
と夫は反論したのだった。
夕飯ではその花の話題で持ちきりだった。夫は意外なほど細かくナガミヒナゲシという花についての知識を持っていて、一時ではあるが息子のヒーローになっていた。
「実は、俺もこの前、ちょうど気になって調べていたんだよ」
タイガが寝たあとのリヴィングで夫はそう切り出した。
「ほら、俺たちが子供の頃にあんな花、絶対なかったじゃないか。だから、何となく気になってね」
カラクリは薄々感づいていたが、図鑑まで見たという夫に意外な面を見た気になった。
「帰化植物で、ここ十年で急速に分布が広がっているそうだ。繁殖力がすさまじいらしくてね、爆発的に全国に広まったらしいよ」
夫はどこか誇らしげにそんなことを話した。
だからではないが、私は今日の、タイガとのできことを話して聞かせた。息子と二人の散歩。様々な植物の名を教え、一緒に遊んだことを。
「あーあ、明日一緒に図書館に行く予定だったのに、白紙になっちゃった」
「いいさ、明日は少し遠出して、植物公園にでも出かけてみようじゃないか」
私の大して残念でもない声に、夫は穏やかにそう応えた。
「花に興味があるんだろう?」
「花に興味があるのか、通学路の花が気になっただけなのかわからない」
そんな言葉にも頷いて夫はニッコリ笑ってオレンジ色の花に手を添えた。
「いいさ、最近遠出してなかったら、たまには三人で出かけてみるのもいいだろう」
出不精の夫からそんな言葉が聞かれるなんてと思ったことは胸の内にしまって、私はできるだけ穏やかに頷いた。
オレンジ色の、名も知れぬ花。私たちの食卓を一瞬だけでも賑やかせてくれた。