9
回転扉を通ると、そこはガラス張りの小部屋のような空間で、目の前の自動扉の前には柔和な表情を浮かべたドアマンが立っていた。
「いらっしゃいませ、松枝様」と、うやうやしく頭を下げられた。
そして、ドアマンは風佳の方へ歩み寄った。
「申し訳ございませんが、身分証をお見せ頂けませんか?」
「俺の身分証は見せなくてもいいのか?」
「松枝様のお顔は存じ上げておりますので」
蓬は顔パスってやつか。うかがい知れる蓬のセレブとしての一面に、風佳は舌を巻いた。
風佳が座命館高校の学生証を見せると、ドアマンは満足したようで、目の前の自動扉が開いた。ドアマンはどこかにリモコンを隠し持っており、それで扉の開閉を操作しているのだろう。
蓬は勝手知ったる様子で中へと入っていくので、手をつないでいる風佳も歩調を合わせて蓬についていく。
「君はソファーで座っててくれ。俺は受付で確認することがあるから」
「分かった」
蓬が紫檀の受付カウンターでホテルマンとしゃべっている間、風佳はロビーにある白い革のソファーに腰かけた。
ずぼっ
「うわっ!」
軽く腰かけようとしたら、予想以上にお尻がソファーに沈み込んで、バランスを崩してしまう。
咄嗟に手をつくが、そこもソファーであったため、ついた手もずぶりと沈み、つんのめった風佳は横向きに倒れてしまった。
「くっ!」
風佳は恥ずかしさで顔が赤くなる。
受付で話をしていたはずの蓬は、こちらを見て笑っていた。
「お前、受付のホテルマンと話してたじゃないか! ずっとホテルマンの方を見とけよ! どうしてこんなときに限ってわたしの方を見てるんだよ!」
そう心の中で叫んだ風佳は、体勢を立て直し、ソファーに深く腰掛けた。すると、今度は横に倒れることもなく、座っているのにまるで寝ているような心地がした。
気持ちいい。これが高級なソファーか。こんなのが自宅にあったら幸せだろうな、と思う。
風佳がそんな夢見心地でいると、受付で話を終えた蓬が戻ってきた。
「悪い、待たせた。そのソファー気に入ったみたいだな」
ニヤっとする蓬に、先ほどの羞恥を思い出した風佳はまたも顔を赤らめる。
「まあな。うっかり寝てしまいそうなくらい気持ちいい」
「残念ながら、起きていてもらわないと困るな。君は今、俺といるのだから」
蓬は、風佳が足元に置いていた鞄を持ち上げ、自分のカバンと一緒にホテルマンに渡した。
「食事に鞄は不要だろうからホテルに預けておこうと思うが、いいよな?」
「問題ない」
財布と携帯電話はポケットの中に入っている。
風佳のカバンの中には、手つかずの教科書とシャープペンシル1本。盗まれたって構わない。……盗む奴なんざいないだろうが。
「さて、まだ18時だが、もう食べ始めないか? まだ空腹でないなら、どこかで時間を潰してもいいが」
「時間を潰すって、どこで?」
「このホテルにはプールもある。水着も販売しているし。どうだ? 俺と一緒にプールで泳ぐというのは?」
「すぐメシにしよう」
そう言うと思った、と蓬は笑って、そして、スッと手を差し出した。
風佳はその手に掴まってソファーから起き上がった。
「髪がはねている」
「ん? どこだ?」
「ちょっと待ってろ」
蓬は風佳の肩を腕をまわして抱き寄せると、手ぐしで風佳の髪を梳いた。
風佳はドキッとして、思わず跳ね除けようとしたが、その前に蓬は風佳から身を離した。
「うん、綺麗だ」
王子様がニッコリと微笑む。
「……ありがとよ」
「この程度で照れてたら、これからもたないぞ」
「っ!」
風佳はギッ!と歯を食いしばって、蓬を睨んだ。
――やられた。さっきわたしが手をつないだことへの意趣返しだろう。今度はわたしが無様にも頬を赤らめた。
「行こう」
風佳は蓬に手をつながれて、エレベーターに入り込む。そして、43階に上がった。
43階はすべて中華料理店になっているようで、エレベーターから出るとすぐに店の入口だった。
赤い壁に金色の文字で店の名前が書いてあるが、見たことのない漢字の羅列で、風佳には読めなかった。
蓬と風佳は窓際のテーブルに案内され、向かい合って椅子に座った。
「いい席だな」
西日に照らされて赤く染まりかけた海の一望には、蓬に敵対意識を燃やす風佳も素直に感嘆するしかなかった。
「眺めのいい席を頼んでよかった」
嬉しそうな風佳を見て機嫌をよくしたのか、蓬の口調はわずかに上ずっている。
「このホテルにはよく来てるのか? ホテルマンとは顔見知りみたいだったが」
「前に来たことがあるんだ。親がここで開かれたパーティーに招待されて、俺はただの付き添いだった。それでも俺の顔を覚えてるんだから、ここの従業員は優秀だと思うよ」
そりゃ優秀だ。
このホテルの外見は立派なものだが、中で働く人々のクオリティーも負けず劣らず素晴らしいようだ。
……と、そこまで考えたところで、風佳は大事なことを思い出した。蓬に言っておかないといけないことがある。
「いやらしいこと言うけど、わたしはここの食事代は払えないぞ? 街中の定食屋に行くんだと思ってたんだからな」
蓬に連れられてタクシーに乗ったのも、蓬が秀峰高校から座命館高校までの道のりでタクシーを使ったそのついでだと思ったからだ。
このホテルまでの距離――非常に長い距離を移動するのにタクシーを使うなんて、風佳は予想すらできなかった。
「分かってるさ。これは俺から君個人に対する謝罪だ」
「謝罪にしては、度が過ぎてないか? ここまでしなくても、わたしはお前に頭を下げられた時点で許していたのに」
「もちろん、謝罪だけじゃない。誘惑でもある。君に惚れていると言ったのは嘘じゃない」
食前酒が運ばれてきた。
未成年であるとかは気にせず、2人とも小さなグラスに注がれた茶色い液体を迷わず口に含んだ。中国酒特有の刺激が口内に広がり、2人とも眉間にしわを寄せた。
「君も、俺の気持ちを疑ったりはしてないだろう?」
「まあな。わたしみたいな扱いづらい女に言い寄ってきた時点で、まともじゃねえことだけは分かる」
2人は、これ以上ないくらい、ゆっくりと喋った。
口から発せられる言葉以上に、互いの視線が会話になっていた。お互いに、全身で、相手を屈服させようとしている。
「事実、君を見てると気が狂いそうになるからな」
「その狂気の結果、わたしを押し倒すのか? 昨晩のように」
「ご明察。今も早る鼓動を押さえつけるので手一杯だよ、俺は」
「その上、酒は飲んでいるし、とても優等生とは言えないな」
風佳が挑発するように言うと、蓬はニヤッと笑って肩をすくめた。
「俺は生徒会長なんて役をやってるが、『優等生』なんて称号は邪魔だと思ってるよ。特に、嵐山風佳を口説く際には」
「その柔軟な対応は、まさに『優等』だな」
風佳は食前酒が入っていたカップの口を、指でゆらりと撫でた。
蓬の笑みはいっそう深くなる。
「生物として君を求めている証拠だ」
「このホテルはロマンチックだが、お前の言い方は全然ロマンチックじゃねえな」
「役割分担だよ。このホテルは君の気分をのせる係で、俺は要求を伝える係だ」
「効率的だな」
「意欲的なのさ」
前菜が運ばれてきたので、2人とも箸を取って食べ始めた。口調はもっとゆっくりになり、長い無言を挟みながら会話を織りなしていく。
「お前がわたしをおとそうとしてるのは分かるが、だからってここまでする必要はあったのか?」
タクシーに乗り、高級ホテルのレストランに連れて来て、海を見渡せる席に座り、おいしい料理を食べている。
王子様のもてなしとしては似合っているが、ここまでしなくても、もっとお安い店に連れてきていても、普通の女性ならあっという間に陥落するはずだ。
「そりゃあるに決まってる。こんな豪華なところに連れてくれば、俺の本気具合が嫌でも分かるだろう?」
「だけど、もっと庶民的な店でも十分じゃねえか?」
「君が本気でそう思ってるなら、俺は君以上に欲が深いのだろうな」
「……どういうことだ?」
「恋はON/OFFのスイッチじゃない。好きという感情も、ちょっと好き、まあまあ好き、けっこー好き、ちょー好き、死ぬほど好き、というようにレベルがあるだろう?
俺は、ちょっと好きとか、まあまあ好きになってもらうくらいじゃ満足できないんだよ」
そう語る蓬は、空気を隔てていても風佳が感じ取れるほど、熱を帯びていた。
「なら、相手にはどれくらい好きになってほしいんだ?」
「溺れきって水面は見えないのに死ぬに死ねないくらいかな」
「そりゃ欲が深いな」
風佳はおかしそうに笑った。
料理は次々と運ばれてくる。2人は時折グラスに入ったミネラルウォーターを飲みながら、食事を続ける。
窓の向こうの夕陽も、だんだんと陰ってきた。空は赤色からあかね色へと移っていく。
「君は、俺を警戒しないのか?」
蓬は言外に、昨晩無理やり押し倒してキスしたことへとの罪悪感を匂わせた。
「どうして? わたしの方が喧嘩強いのに、警戒する必要なんかないだろ?」
「……そういう意見もあるな」
「そういう意見しかねえよ、軟弱者め」
いたずらっ子のように風佳は笑う。
それに苛立ちと反抗心を抱いた蓬は、箸を伸ばして風佳の皿のおかずを奪い取った。
「あ! わたしのエビ!」
そしてすぐさま自分の口に入れる。
「ふん、反応が遅いぞ」
「おい! お前まだ自分の皿にエビ残ってんじゃん! なんでわたしのを奪うんだよ!?」
「他人から奪ったメシは本当にうまいな」
「くっそ、なんて男だ」
「君より喧嘩が弱くて、君より素早い動きができる男だよ」
「もしかしてわたしより弱いこと気にしてる!?」
「キニシテナイ、キニシテナイ」
「絶対気にしてる!」
「どうだ? 美男が茶目っ気を出すと、途端に愛着が湧いてしまうだろう?」
「自分で言うなよ」
「しかし事実として、今の会話で、君は俺をもっと好きになったはずだ」
そう言われた途端、風佳の箸が大きく震えて、皿に当たった。
「君はもっと俺を警戒した方がいいぞ? でないと、君は俺に夢中になりすぎてしまう」
「やけに自分に自信があるんだな」
「俺は君ほどのカリスマはないが、観察眼は優れていると思っている。ここに来る前から、君は微かに、俺に対して好意を持っていた」
「……それは否定しないが、恋愛感情じゃないぞ」
「そんなことは些細な問題だ」
「些細か?」
「最初の火種はあったわけだ。大恋愛に燃え上がるための小さな火種が。
俺は君が好きだし、こうして熱心にアプローチもしている。互いの会話を楽しめているし、負けず嫌いな性格も似ている」
ここまで材料が揃えば十分だ、とばかりの顔をして、蓬は洗練された手つきで北京ダックときゅうりを皮に巻き、味噌をつけて口に放り込んだ。
「このままじゃ、惚れた弱みは君が抱くことになるな。それはそれで俺としては嬉しいが、君は癪に障るだろう?」
蓬は、かつてないほど真剣な顔をした。
「必ず俺は君を手に入れる。君と俺は愛し合うことになる。この結末が明らかなら、君が俺を虜にするべきじゃないか? ホテルの前で手をつないできたように」
風佳は咄嗟に顔を赤らめた。
「っ! あれは――」
しかし、言葉は途切れた。
あれは――何だというのだろう?
蓬の手を握ろうとしたのは、蓬の計画通りに自分が動いていることへの、反抗心からだった。蓬が作り上げたこの状況をただ甘受するのは我慢ならなかった。
だけど、その反抗心は、蓬を虜にしようとする心と、何が違うのだろう?
目の前のこの男が、自分に惚れていることは、明らかだった。
反抗心だなんだと言っても、手をつなげば、それは相手を魅了するだけだ。虜にしようとしているのだ。
わたしは本当に気付いてなかったのか?
手をつなぐに至ったトリガーは、本当に“反抗心”だったのか?
“蓬の気を惹きたい”という気持ちは、一寸たりとも働いてなかったのか?
「……」
「……」
蓬は黙って、風佳の言葉を待った。
「…………否定はしない」
風佳は白旗を上げた。
これ以上の否定は無様なだけだ。蓬の言う通りだ。
「確かに、わたしはお前に惹かれている。お前を魅了しようともした」
「ようやく認めてくれたか」
蓬は心底嬉しそうに微笑んだ。
風佳はその笑みを恨みそうになった。自分はどうかしてしまったんだろうか? ここに着いたときから、心があっちこっちに飛び出そうとする。リードを全力で掴んでも、激しく動き回る機嫌を抑えきれない。本当のところで自分がどう思っているのか、それさえよく分からない。
蓬の瞳の前に身を晒すと、お腹の底が震える。心地よくて不安で、もっと欲してしまう危険な感覚。
――それこそ、蓬にわしづかみにされたわたし自身なのかもしれない。
蓬の興奮は最高潮に達していた。
俺への好意を、風佳が肯定してくれた!
蓬は静かに食事を進めながらも、味はもはや感じられず、ただ風佳のことだけが頭の中を占めていた。
「風佳がその気になってくれたのなら、今夜が楽しみだな」
「…………ん?」
フカヒレスープをすくったスプーンが、空中で止まった。今、風佳の耳に、信じられないワードが飛び込んできたような気がした。
太陽はやっと沈んだところで、それでも日差しの残滓が海の波の狭間を際立たせていた。
「今夜が楽しみって、そう言ったか?」
「ああ。それがどうかしたか?」
蓬は可笑しそうにしている。
まるで、笑い声を必死に抑えているかのようだ。
「食事が終わったら、家に帰るよな?」
「無論、家には帰らせない」
まさかの回答に、風佳は絶句した。
無論、ってなんだよ!!
「いや、ちょっと待て。お前が帰らないのはお前の勝手だが、わたしは帰る」
「どうやって?」
「どうやって?って…………電車はあるだろうから、ここから駅までは歩けばいいだろ? 電車賃くらいなら、財布に入ってる」
「……君は、このホテルに何の違和感も感じないのか?」
蓬は少し呆れたような声をもらした。
「違和感、だと?」
「客が少なすぎるとは思わなかったのか?」
言われてみれば、確かに客は少ない。
風佳と蓬の他に、このレストランにいるのは、男女のカップルが4組ほどか。どのカップルも、男性はスーツ、女性はドレスっぽい服装で、他に制服姿の人間はいない……というか未成年は蓬と風佳しかいない。他の客はみんな社会人で、あからさまにお金持ちだ。
「金曜日の夜にしては、客が少なすぎる。レストランが複数あるとはいえ、これでは普通のホテルは破産する」
「じゃあ、ここは普通のホテルじゃないって言うのか?」
「そうだ。このホテルは要人の御用達で、非常に防犯に優れている。君は俺の許可なしにホテルの外には出られない」
「なっ!?」
「受付で俺がホテルマンと話していたのは、ここの高層階のスイートルームをチェックインするためだ。君にはここで一晩を過ごしてもらう」
「……」
風佳は声どころか息も出なかった。
――こいつは、今、なんて言った?
瞬きすらも忘れて、目の前の、賢しらな笑みを浮かべた蓬の顔を見つめる。
やがて、フリーズした脳みそが正常に稼働し始めると、風佳の胸に渦巻いたのは怒りや驚愕が混ざり合った末の呆れだった。
風佳の都合を完全に無視した強引なやり口には腹が立つ。最初から、夜を共に過ごすことまで計画されていたわけだ。
だが、よくよく考えてみると、高級レストランで中華料理を食べたいだけなら、わざわざタクシーに1時間も乗る必要はなかったのだ。もっと近場に、同じくらい高いランクのレストランはあっただろう。そこに気付くべきだった。このレストランに来たのは、単に味が上等だからという理由だけじゃない。ホテルに入ったレストランであることに、意味があったのだ。どうして気付かなかったのか? 自分の愚かさが悔やまれる。
そして、夕食に誘うという口実でホテルにわたしを連れてきた手管と執念には、恐れ入った。
普通、そこまでするか?
しかもそのホテルは、見たこともないほど高級で、加えて、スイートルームに泊まるという。
蓬の顔を見る。笑顔は計算高く高慢だが、目の奥の光は野性的で獰猛だった。
――お前は、そんなにわたしが欲しいのか?
風佳は人の考えを読むのが得意だ。人を見る目もある。彼女の鑑定は、蓬が異性としてとても魅力的だと判じている。
デザートの杏仁豆腐とダラスのポットに入ったウーロン茶がテーブルに置かれた。
これを食べ終えたら、食事は終わりだ。
わたしは一杯食わされた。
まるでだまし討ちだ。
激怒したわたしに殴られても、蓬は文句は言えないはず。この取り澄ました男も、わたしが激怒すれば、このホテルからわたしを解放して家に帰してくれるだろう。
外は暗くなった。窓ガラスにはこの店の照明が反射して、虹色が泡立っている。
海の向こう側では、白夜のように明るい光が、ビル群のデコボコを平らかにしている。
杏仁豆腐を食べ終わり、風佳はウーロン茶を一口飲んだ。
熱いお茶だった。食べた料理の余韻が薄まり、逆に喉が渇くようだった。潤いが欲しくなる。その潤いをわたしに与えてくれるのは……。
風佳は蓬の唇を見つめた。
「わたしは、はねっかえりで手の付けられない女だ」
わたしが求める潤いは、すぐそばにある。
「引くなら今だぞ、松枝蓬」
「忠告はありがたいが、もう引けないところにまで来てるんだ」
「……そうか。わたしはお前が気に入っている。どうしようもない女に惚れてしまったお前の転落人生は、わたしが見守ってやるよ」