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そこに立っているのは、松枝蓬と嵐山風佳だけだった。
他の者は、蓬によって地に伏したまま動けなくなっている。倒れているのは9人。たった1人で9人を圧倒した蓬は、やはりかなりの武芸者だ。
これまでの人生が喧嘩に明け暮れてきた風佳をして、蓬の闘いぶりは見事であった。
複数を相手にしても怯えは一切なく、隙のない足さばきで相手の懐に潜り込み、容赦なく地面に叩き伏せていく。
<百花繚乱>のメンバーは、ほとんど蓬にダメージを与えることができなかった。
風佳は蓬を見据えながら、唇を噛んだ。
わたしの目の前にいるこの男は、とても強い。ただの力が強いだけではなく、闘いのセンスがある。
風佳は、この戦闘が始まったときを思い出す。最初に蓬に殴りかかったのは、ヤマネコだった。
ヤマネコが殴りかかった途端、蓬はサッとその場を飛びのいた。ヤマネコの攻撃を避けるためではない。風佳から遠い場所に立つためだ。
風佳から誰よりも遠い場所に立てば、蓬は背中を風佳に晒すことはない。それどころか、風佳の動きを牽制できる。ヤマネコのような短気な者が蓬に肉薄している状況では、風佳は無暗に殴りかかれない。その拳が、蓬ではなく、仲間に当たる可能性があるからだ。
その蓬の策は見事に功を奏し、9人は敗れ、残るは蓬の相手は風佳唯一人となった。
蓬のズル賢さに舌を巻きつつも、風佳は余裕を失ってはいなかった。
たしかに風佳の仲間は倒された。誰彼構わず投げ飛ばしていく様から、風佳は、蓬が合気道の有段者だと推測している。
そして、その推測は当たっていた。
蓬は小学生の頃から合気道を習っており、細身ではあっても、10年以上に渡る鍛錬の結果、服の下の肉体は引き締まっている。ヤマネコたちは、長きに渡る蓬の研鑽の前に敗北を喫したわけだ。
しかし、それでも、風佳に焦燥はない。
――わたしは勝てる。
風佳は勝利を確信している。
ここまでの蓬の奮闘を、風佳は目の当たりにしている。その観察を以て、蓬の洗練された体技にも対抗可能と断じていた。
蓬は、歩幅を小さく保ったまま、それでも確実に、風佳にジリジリと近づいていく。蓬の目は、まるで縫いとめられたように、風佳から離れない。
対する風佳は、心の中で構えを取り、いつでも攻撃に移れる体勢をとっている。
迫りくる目の前の男の背後には、地面に倒れた<百花繚乱>の仲間たちの姿が。風佳は舌打ちしたい気分だった。
――情けない!! 相手は一人で、こっちは複数。しかし負けているのはこっち。おかしいだろ。
ヤマネコを始めとする<百花繚乱>の強者たちは、スーパーインテリ集団秀峰高校の生徒会長様に一網打尽にされてしまった。
風佳の心中には、仲間を倒された怒りよりも、仲間に対する情けなさがあった。
箱庭育ちのお坊ちゃんに負けたとあっては、<百花繚乱>の名折れ!
しかも、相手は、信じられないくらい美しい顔立ちの男なのだ!! まるで王子様のような!!
面白い、と風佳は思った。
まさか秀峰高校の生徒会長と殴り合いをすることになろうとは思ってもみなかったが、事ここに至れば、もはや一興。
自分の拳によって、蓬の白い肌にはクッキリとした痕が残るだろうが、風佳は気にすることを放棄した。財界・政界の人脈の核とも評される秀峰高校――その生徒に危害を加えれば、その復讐はとても怖ろしい。どんな目に遭わされるか分からない。
だから、風佳は、喧嘩が始まった時は、蓬を少し殴ってお終いにしようと思っていた。
しかし、今や風佳の胸の中にあった臆病な用心はどこかへと消え失せてしまっていた。
後々のことなど、考えても仕方ない。
一目見て上流階級と分かる王子様のような男と、こうして泥臭い下町の河川敷で対峙することになったのも、単に、そういう縁であったのだろう。
もはやこの状況を覆せない以上、自身の拳と熱に任せて暴れよう。
あの男を、ボコボコにしてやろう。
風佳は覚悟を決めた。
先に仕掛けたのは蓬だった。
鋼にも勝らんほどの弾力で伸ばされた腕は、果たして企図した通りにはいかず空を切る。風佳はその場にしゃがんで攻撃を避けたのだった。
――しまった! 勢いがよすぎたか!!
蓬は咄嗟に後悔するが、もう遅い。
しゃがんだままの風佳は、蓬のみぞおちに向かって拳を突き入れる。蓬は反射的に上半身をくねらせて回避に成功するが、そのせいでバランスを崩し、地面に尻餅をついてしまった。
風佳がその好機を逃すはずもなく、体重をかけて渾身の蹴りを叩き込む。
「ぐっっ!!」
風佳の脚は蓬の腹に突き刺さり、蓬は苦悶の表情を浮かべる。その顔には脂汗が滲んだ。
至近距離からの反撃を恐れ、風佳はいったい蓬から距離をとった。
蓬は痛みに喘ぎながら、立ち上がる。上空を仰ぎながら、懸命に喉仏を震わしている。逆流する胃の中身を必死に抑えているのだろう。ポケットから280ミリリットルのミニペットボトルのお茶を取り出すと、ふたを開け、浴びるように飲んだ。すぐに中身はなくなり、そのミニペットボトルは投げ捨てられた。
吐き気は収まったようだが、相当のダメージを負ったのは間違いないだろう。蓬はしきりに腹をさすっている。
しかし、その瞳に灯る闘志は、消える気配はない。
いや、それは純粋な闘志ではなかった。巻きつくような煙い焔が、蓬の背後にあった。
「……まるで戦鬼だな」
蓬の必死の形相に、風佳は思わず腰を引いた。
風佳の蹴りは、蓬に相当のダメージを与えたはずだ。だが、蓬はまだ風佳に立ち向かおうとしている。
喧嘩は今まで何度もしてきたが、この男ほど全身に闘争の鬼気をみなぎらせた奴は過去にいただろうか?
「あの王子様が鬼になるとは」
先ほどまでの優雅さは、今や欠片もない。目は血走り、唇は震え、あご先からは脂汗が滴り落ちている。垂直に立っているのも難しいようだ。
その無様な姿に、しかし風佳の胸には一筋の好意が芽生えていた。
――こいつ、なかなかやるじゃん。
しかし、その肯定的な感情は、あるいは油断だったのだろう。
蓬は、なりふり構わずに、風佳に体当たりをしかけた。
対処が遅れた風佳は、その体当たりを受け、そのまま地面へと仰向けに倒れる。
そして、蓬も倒れた。
風佳にのしかかるような恰好で。
力尽きた蓬は腕で上体を支えることもできず、結果として蓬の体と風佳の体はピッタリと密着する。
「おい、どけよクソが!」
「……どくわけないだろう」
お互いに密着している体勢は、蓬にとって都合が良い。傍から見れば蓬は女性にのしかかっている強姦魔だろうけれど。
「なぁ、俺は今、最高の気分だ。君はどうだ?」
「…………はあ?」
最高の気分!?
わたしの渾身の蹴りをモロに食らって苦しみもがいていたのに!? この男はマゾヒストなのか?
などと風佳が考えていると、蓬は恐るべきことを口にした。
「俺はお前に惚れたぞ、嵐山風佳」
「…………ほ!?」
――この男、今、なんて言った?
「きさま、何言っ、んっ…………」
風佳の唇が蓬に塞がれる。
風佳の体温は一気に上昇した。
口いっぱいの湿潤な感触。表面をなぞるような軽いものではなく、もっと濃厚で深いキス。
それと同時に、風佳は蓬の体の熱さを感じる。そうだった、そういえば今、この男はわたしに覆いかぶさっているんだ。
全身から伝わる男の体の硬さと、唇と舌先を愛撫する柔らかさは、どちらもじんわりと溶けていくような熱を宿している。
目と鼻の先には、白皙の美しい顔。
風佳は混乱のあまり、されるがままになっていたが、やがて正気を取り戻すと、両手で蓬の体を突き飛ばした。
だが、そこから先は何もできず、風佳は地面に座り込んだままでいるしかなかった。
突き飛ばされた蓬は、羞恥に震える風佳をしばらく見ていたが、やがて立ち上がった。
「今日は失礼した。後日、詫びに参ろう」
先ほど投げ捨てたミニペットボトルを拾うと、それをポケットにねじ込み、蓬は去って行った。
残された風佳は、地面に倒れていた<百花繚乱>の仲間たちが復活して起き上がるまで、その場から動けずにいた。