第八話「後悔」
男は今の生活に満足していたし、もう昔のように旅に出たいとは思わなかった。
女は始まる前に終わる恋を知っていた。もうどんな男も、彼女をときめかせたりはしなかった。
あの雨が降った日が、どこか遠くに行くための最後のチャンスだったかもしれない。けれど、男は昔の恋人の事を思い出しただけだ。女は旅行に行かずに、家に帰った。
そして、二人がもう一度出会ったのは、ラプンツェルの前だった。 日曜日の朝、男はカメラを持たずに家を出た。散歩の延長で、少し遠くまで足を伸ばそうと思っていた。
女は、いかにも好青年といった風貌の若い男と歩いていた。
男はそれを見て、一瞬だけ立ち止まる。女はそのまま通り過ぎた。 女の髪はとても短く、派手なブラウンになっていた。そこには昔の恋人の面影はなかった。
からっと晴れた青空には、雲一つ浮かんでいなかった。
急に毎日の繰り返しが退屈だと男には思えてきた。このまま一生、自分のやりたい事をせずに、日本で暮らすという事に。
男はカメラを持ってこなかった事を後悔した。そして、黒い髪の女に声をかけなかった事を後悔した。
二人が出会う事は二度となかったが、ある休日の朝、ラプンツェルという家具屋の前で男は、ほんの少しの間立ち止まっていた。
そして、やがて歩き出し、いつものようにバス停へと向かう。 彼はいつもより荷物を多く抱えていた。バスに乗り込むと少しだけ雨の日を思い出して。扉が閉まるのをじっと見ていた。