第三話「雨(3)」
いつものようにニット帽、眼鏡にくたびれたパーカーを着こみ、まっ黒い傘を差す。カメラは防水用のビニールケースに包み、その上からタオルを被せる。ショルダーバックの肩紐を短めに調節すると準備は完了した。男が家を出ると、雨は幾分かマシになりつつあった。
バス停までは、遅くて4分弱。だんだんと雨脚が強くなってきた。男の視界は悪く、ほとんど遠くは何も見えない状態で歩く。
いつもの家具屋の前まできて、違和感を感じた。看板が無いのだ。飛ばされたのか意図的に誰かが外したのかは分らない。それはあまりにも不自然な看板だったので記憶にも残っていた。ラプンツェル。童話の題であり主人公の名前でもあった。男はほんの少しだけ立ち止まると、またバス停を目指して歩き出した。
女はここ数日の出来事を思い出していた。夫にちらつく浮気の疑惑について、そして気付かないふりをしていた自分。どこか不自然な所はなかったか、円満な夫婦を演じられていたか。バスの中でそればかりを考えていた。ときどき自分がどこにいるのか解らなくなる。そんなときは、こっそりと長袖のシャツの上から右腕のシルシを撫でた。
すると、呼吸が楽になって、なんとか落ち着くことができるからだ。
夫とセックスする時は、必ず電気を消してから行為を行った。このシルシは夫の知らない唯一の隠し事だったからだ。
バスがよく買い物のために降りるバス停に停まった。こんな雨の日に乗ってくる客は少ない。
そこで、以前に見たことがあるニット帽の男が乗ってきたが、女は気がつかないふりをした。
男は眼鏡についた水滴をふき取った。急に纏わりつく湿気が疎ましく感じられた。
雨は思ったよりも酷かった。靴に入った水も不快だった。バスの空調の効きが悪いせいか車内は生ぬるい風に支配されていた。
男の座った席から二つ空けた後ろの席に女が座っていた。
男はその事に気づいていなかった。男はいつものように、どこを見ているか分からない目でどこも見ていなかった。