第一話「雨」
ラプンツェルなんてふざけた名前の家具屋の前で二人は出会った。
目深に被ったニット帽の男と夏なのに長袖の女。面識は無く、興味も無かった。普段なら気にならない事が、ほんの少しだけ引っ掛かったりする。
そんな時ほど、とびっきり良くない出会いだったり反対に、とびっきり素敵な出会いだったりする事がある。
確率の問題なんかじゃなくて、誰が言った訳ではないが、実際にそうなのだ。
女の髪はとても長い黒で、今どき珍しいくらいのストレートだった。
男の視線が少しだけ上がるのを女は見た。どうってことない仕草。
すれ違い様にブーゲンビリアの香りがした。男は何故か懐かしさを覚える。だがそれだけで。
雨が降る予感がしていると、二人は思う。漠然と、しかし確信に満ちた予感。予言。
言葉も音楽もない、感覚だけの世界で二人は、雨を待つ。
男がバスに乗って立ち去る頃、女は自分の住みかへと帰る。
男はバスの窓から空を見上げた、女はテレビをつけて、買ってきたものをテーブルに並べる。
はぶらし、玉葱、にんじん、挽き肉、靴下、指定のごみ袋。日常からさほど遠くない所にそれはあって、希望とか夢とか陳腐な言葉に置き換えれそうなものだった。
女は結婚していて、子供はまだ居なかった。夫は帰りが遅くなる日には必ず電話をよこすような人間だった。女が不満を口にしないのは、この夫が優しすぎるからで、その優しさは彼女の心を遠ざけた。表面上では、円満な関係の夫婦を演じていて、女自身もその演技に酔うことができた。彼女が長袖を着る理由は別のものだった。
男は衛生局に勤めていて独身だった。二十歳を過ぎた辺りから煙草を止めて、酒も一か月に数える程しか飲まない。唯一の楽しみは、休みの日にカメラを持って散歩に行くことだった。
趣味という程、熱心ではないにしても毎週、義務のように出かけるうちに習慣になった。近所の人間にも顔を覚えられ、ときには立ち話にも付き合った。
男は小さなショルダーバッグを背負って、度の入っていないプラスチックの眼鏡をしていて、ニット帽を深く被っていた。知らない人が見れば、あまりいい印象を与えないその格好は彼が休日と平日を上手く区別するために意識してやっている事だった。
普段の男はスーツを着た神経質な研究員といった出で立ちで、とても冷静に振舞った。平日の彼は眼鏡をかけておらず、ニット帽もしていない。どちらが本当の男なのか、男自身も分らなかった。