四話 後輩 真柩 絆①
今更ですが皆少し病んでます。ついでに主人公は中二病を患っています。
注 少々グロテスクなシーンがあります。
ビュオオオオォォォォォォォ
屋上への扉を開けると強い風が吹き込んでくる。元々生徒たちの憩いの場となるように作られた屋上だけあってのんびりと過ごすには丁度いい場所だ。
屋上だというのに芝生が植えられ、それなりに見栄えのする樹木まで生えている。気化熱の力で多少なりとも環境に優しいとか何とか、そんな説明を学校案内時に受けたような気がする。
木陰に設置された大振りな造りのベンチに腰掛け、持ってきた小型コンロにガスをセットするとどこかの名水で半分ほど満たされた薬缶を乗せてスイッチを捻る。青いガスの炎がちゃんと燃えているのを確認して、一服。
少し湿気を含んだ暑くも爽やかな風が吹き抜ける。昔は六月といえばもっと涼しかったらしいが詳しくは知らない。何でも梅雨という季節があったらしい。連日連夜雨が続くという何とも俺好みな天気だ。大幅な異常気象で日本に冬なんて時期が無くなってもう久しい。一応言っておけば原因は温暖化なんかじゃなく地軸が傾いてしまったと言う事だ。原因は不明だという発表があったが本当はどうだか怪しい。しかしもう確かめる術もないのでどうでもいい。お陰で今じゃ一年中通して気温は三十度度前後。日本の国土も半分ぐらい水面下になって東京辺りは地下都市と水上都市、さらにもう一つその上に施工された空中都市の三層構造になっていた。水没してしまったんだからそれを機会に集中していた機関を全国に移せば良いという案があったはずだが何時の間にか棄却され、結局全部東京に集まったままだった。考えてみれば高齢化は酷く、少子化は更に酷い。税金も上がるわ不景気は収まらない。今更中央集権を止めたところで未来は、少なくとも国家の未来はかなり危なかったかもしれない。何処に行っても人口と食料の問題が取り立たされて、世界が変わる少し前、去年の十二月には国連でクローン法と同時に人口調整法案が可決されたけど、こんな風になってしまうのなら何も慌てて決める事でもなかっただろう。
晴れの日はあまり好きじゃない。青空が苦手だ。見ていると何処までも落ちていきそうで眩暈がしてくる。それでもこうやって屋上で寛ぐのは嫌いじゃない。
お湯が沸騰したので火を止める。水道水の場合はこの沸騰した直後が一番塩素やトリハロメタンの含有量が多いらしい。五分間沸騰させ続ければ有害な成分はみな飛ぶそうだが、今回の水はボトリングされたミネラルウォーター。生産者が嘘をついていない限り余計な心配をする必要は無いだろう。
家庭科室から持ってきた急須にお茶の葉を少々多めに入れてお湯を上から勢いよく注ぎ待つこと三分。俺は玉露よりも茎茶の方が好きなのでお湯は熱いままで構わない。またこの三分という時間が微妙なところでこの三分目が一番ビタミンやカテキンが溶け出す時間なそうな。
家から持ってきた萩焼の大振りな湯飲みに並々と注ぎこれまた待つこと数分。
今度は別に薀蓄無し。俺が猫舌なだけだ。
がちゃん。
屋上の扉が開く音に顔を向ければそこに立っていたのは────
「あらら、お早いですね先輩。」
両手になにやら色々抱えた真柩。
時計を見る。まだ十一時前。まあ気にする程の事でもない。
「ははははは、何しろ俺は風流人だからね、こう青空の下でお茶など楽しんでいたのだよ、真柩クンも飲むかい?」
「頂きます。」
両腕に抱えていた雑多なものを芝生の上にどさどさと落とす。
「うむ、生憎湯飲みは俺のものしかないからコレで我慢するように。」
どさどさと落とされた雑多なものの中から適当に器を拾い上げ緑茶を注いで渡すと真柩が何故か渋い顔。
「───先輩、いくつか質問しても良いですか?」
「可愛い後輩の質問だ、百でも二百でも答えてあげよう、さあなんなりと聞くがよい!」
「一つ目ですけど、何でそんな口調なんです?」
「はっはっは、今の俺は風流人だからな、こう少し華族チックなんだ。」
「………華族ってそういう話し方何ですか?」
「いんにゃ、イメージ。」
真柩、こめかみに指を当てて何やら難しい顔。
「………先輩の思考って理解しようとするのが虚しくなりますね。」
うわ、笑顔で言いやがった。
「………可愛いから許す。」
「はい?」
耳ざといヤツめ………
「こっちの事だ気にするな、他に質問は?」
「ハイッ」
「じゃあ真柩!」
「何で私の器がお玉なんですか?」
真柩の手元を見てみる。ステンレス製らしきお玉には緑色の液体がたっぷりと注がれ、真柩の手がぷるぷると小刻みに揺れる度に零れていく。
「その答えを───聞きたいか?」
少し声のトーンを落とす。
「えっ?」
「答えを聞けば毎夜悪夢に苛まされ精神崩壊するかもしれんぞ?」
見る見る真柩の顔が青ざめていく。素直な娘だ。
「そ、そんな恐ろしい理由があるんですか?」
悪そうなニヤリという笑みを見せて、一言。
「無いよ。」
……じゃー
頭の上にお玉のお茶が掛けられた。
暑さに身悶えする俺を真柩が路傍の石でも見るような醒めた視線で見てくる。
身悶え中。
「………コラコラ、ちょっと悪戯が過ぎるぞ。」
ハンカチで額を拭い、息を整えながら人差し指で真柩のおでこを軽く突く。
「あはは、だって先輩ってたまに本気でどつきたくなるんですもの。」
………可愛い笑顔でヤな事を言う。
「もうしたら駄目だぞ、熱湯はあのゴキブリだって一撃なんだからな。」
「大丈夫ですよ、先輩のしぶとさはゴキブリなんかが及ぶところじゃないですから。」
・・・・・・コケティッシュな笑顔で酷い事を言う。
「あはははははははははははは」
「うふふふふふふふふふふふふ」
一緒に笑う。何となく乾いているように聞こえるのは冗談の範囲だ。
「それで、どうして私にはお玉だったんでしょう?」
一頻り笑ったところで真柩が蒸し返してくる。
「まだ聞いてくるか?」
「ハイ、今日の私の命題ですから。」
重いんだか軽いんだか。
「それじゃあ教えてやろう。」
その前に今の騒動で喉が渇いたのでお茶を一口。程よく冷めている。
「実はな。」
ごくりと真柩が喉を鳴らす。
「可愛い女の子がお玉を持っている姿が好きなんだ!」
力説してみた。
真柩はにこにこ。
「先輩?」
「うん?」
「思考が軽く残念ですね。」
「俺もそう思う。」
「思ってるんかい!!」
ナイス突っ込み。けどステンレスは痛いぞ真柩!
「さてさて、そろそろお昼の準備をしましょう。」
すっきり晴れやか爽やかな笑顔の真柩、その手にはぼこぼこに凹んだ鈍く銀色に光るステンレス製のお玉。
俺もお玉に負けず劣らず凹んでいる。力加減を知らないヤツめ。
一瞬頭の中に力加減をしてこのレベルと何ともいやな考えが浮かぶが黙殺。
「先輩、これ見てください。」
俺の頭を散々どついて気が晴れたのか晴れ晴れした顔で差し出してきたのは保冷ケース。チャックを開き中に入っていたのは───
「真柩、こんなもの何処から?」
入っていたものは軽く見ても一枚三、四百グラムはありそうなステーキ用にカットされた生肉が数枚。しかも俺好みなサシの少ない赤身部分。
「ふっふっふ、近所のお肉屋さんの冷凍庫が自家発電だった事を思い出しまして、もしかしてと行ってみたらこの通りでした!」
真柩が胸を、それなりにたわわな胸を誇らしげに張ってみせる。
「偉いぞ真柩!」
俺も手放しで褒める。
何しろ野菜以外の生鮮食品なんて久しぶりだ。最初の頃は良かったものの二ヶ月ほど前から完全に電気の供給は断たれ、当然の如く魚や肉類は腐っていった。お陰でここ暫く缶詰や真空パックの物が続いていた。
真柩、本当に偉いぞ!
「けど不思議です。野菜や果物はどうしたことか少し萎れるぐらいで殆ど腐ったりしないんですよねぇ?」
心底不思議そうに芝生に落とした雑多なものの中からフライパンを拾い上げながら首を傾げて見せる。
俺だって不思議だ。如何した事か肉や魚等は腐るのに対して野菜や果物が腐るということが滅多に無い。教室の教卓の上に置きっぱなしになっている野菜が良い例だ。数ヶ月、世界がおかしくなってからあそこにずっと置いてあるのにも関わらず腐ったり黴たりしてくる様子が無い。しかしいつでも新鮮な野菜が食べられるのだからそれで良いじゃないかと思うことにしている。考えたって分らない事なんて考えている程俺も暇じゃない。
さっきまで薬缶が乗っていたコンロの上には黒光りするフライパンが乗せられ油が爆ぜる音と一緒に肉の焼ける音が聞こえてくる。
「先輩、焼き加減はどうします?」
「勿論レア。」
「あらら野生的、先輩らしいですね。」
ステーキはレア
コーヒーはブラック
カクテルは冷たい内
これは世界の常識だ。
肉を裏返し塩胡椒、ブランデーを少々振りかけると素早い動作で火を付けられたマッチにより一瞬肉が炎に包まれる。見事なフランベだ。
しかし、真柩がこんなに料理の手際が良いとは、以外だ。昔家庭科の時間で作ったと言って持ってきたクッキーは緑青色の上に一口齧ると味覚が拒否反応を起こし、全身に鳥肌が立つと脂汗だか冷や汗何だかが滴り落ちてきて………それでも味を表現しろというのなら───難しいな、舌が捥げる程に苦くて口が解け落ちる程に酸っぱくて、脂汗が噴き出るほどにどす甘くていっそ殺せと言うほどに臭て………ああ、何だろう?臭いはキビヤック味はサッカリンとか、熟成を通り越して腐敗の域に入った熟れ寿し風とか、食べた瞬間余りの不味さに意識を失って、次の瞬間余りの不味さに意識を取り戻すとか………まあ、アレだ。人間日々進歩するものらしい。
感想から言えば非常に美味しかった。やっぱり人間たまにはこういうしっかりした物を食べないといけない。そう再確認させてくれた。炭水化物が無いのが淋しいといえば淋しいがそこまで望むのは贅沢というものだ。あったとしても素麺とかだったらやり切れない。
再びお湯を沸かして俺と真柩の分のお茶を淹れる。何か器がないかと探したところ真柩が家庭科室から適当に持ってきた食器類にマグカップが雑じっている事が発覚。そんな訳で食後のお茶を楽しんでいる。
気心の知れた後輩と、それも贔屓目に見なくても十二分に可愛い後輩とお茶なんて中々色んな意味で美味しい。ちなみに俺と真柩の関係を表すなら兄妹に近い友人、あるいは師弟の関係か。どちらにしろ俺としてはそう悪くないと思っている。
「先輩憶えていますか?」
「何を?」
「私と初めて逢った時の事。」
「勿論、俺は真柩との出会いを忘れるような野暮じゃあないよ。」
真柩がくすくす笑う。
「先輩が野暮かどうかは知りませんけど、そうですか、憶えていてくれたんですね。」
真柩が空を仰ぎ見る。
「あの日もこんな天気でしたねぇ………」
「言われてみれば、そうだったなぁ………」
つられるように俺も空を仰ぎ見る。薄く白い雲が浮かび黄色い陽光が降り注いでくる。
三年前のこんな日、俺は真柩と出会った。
近所の神社、戦死者の遺骨が大量に眠る納骨堂が裏手に作られた神社は正月以外人が来る事も無く、俺のお気に入りの散歩コースだったのだが、その日、納骨堂の裏手から微かに聞こえてきた人の声に何か進行中の犯罪でもあるのではないかと好奇心から覗きに行った俺の目に映ったのは同じ制服の同級生らしき女子を切り刻んでいる真柩の姿だった。
────真柩はちょっと厄介な病気というか体質を持っている。
無痛症。所謂HSANtype5(第五種遺伝性感覚自律神経性ニューロパチー)のような先天的なものでは無く、とある事故でそういった所の神経に損傷があったとかで、痛みに関する感覚が酷く鈍麻しているらしい。
痛みを感じないなんて便利なように感じるが、真柩の弁だと酷く不安定で、落ち着かなくて、自分の体が物凄く遠く感じるそうだ。
真柩の身体は傷が多い。痛みを感知できないせいで、無意識の内につけてしまった傷も多いが、殆どは自分でやったものだ。例えばピアス穴は滅茶苦茶に多い。耳たぶだけでなく外耳の、耳の軟骨部分にも八連、九連と穴が開いている。小鼻や唇、眉の下には見た目の問題という理由でやらなかった事は俺の美的センスから言えば実に幸いだ。そのかわりというべきかどうかは知らないが、舌が先端から真ん中辺りまで二股に裂け、それぞれその先端に穴がいくつか開きピアスが通されている。スプリット・タンだ。舌はアルコール消毒したカッターナイフで切り裂いたらしい。
絶対やり方間違えていると思う。
そんな舌を出して笑われると悪魔に笑われているみたいで結構好きだ。臍や乳首、性器の一部にも穴は開けられピアスが通されている。どれも痛みという感覚を味わいたいが為に開けたものだが、全て不調に終わったそうだ。切断行為まで行かなくて本当に良かった。一度だけ真柩が耳に穴を開けるところを見たことがあるが、冷やすような予備動作は無く、ピアッシングマシーンのような器具を使うでも無く単にアルコールで消毒した後おもむろに千枚通しを突き刺して終わり。
臍はまだしも乳首や性器のピアスなんて見ているこっちが痛くなるのに、本当世の中はままならない。
手首というか二の腕や足も結構凄い。そこ等のリストカッターなんて目じゃ無いほどに縦横無尽に傷跡が走っている。それも骨まで届くような深い傷跡。半ば自棄でやってしまったらしい。そんな傷痕を照れくさそうに見せる真柩がまた俺には可愛らしい。舐めると盛り上がった傷痕が舌に触って興奮してくる。ピアスもカッティングも全て中学時代に行った事で、痛みが分らないというストレスと嫉妬から真柩は自分の友達を一人壊してしまった。真柩の話だと無性に怒りが沸いてきたのだというが本当の所は知らない。
笑っているのか泣いているのかよく分らない顔をしながら涙を流して顔を歪めて既に空っぽになった女生徒の身体に何度も何度も包丁を突き立てる真柩。
俺が遭遇したのはそんな光景だった。
ちゃぐっちゃぐっと安っぽい穴あき包丁の刃が女生徒の身体を壊す音が今も耳に残っている。胸から腹を中心的に壊したらしく、胸はぽっかりと穴が開き、欠けた肋骨が穴からはみ出て赤系統の色をした管のようなものや肉の塊が黄色や白の粘液と一緒に当りに飛び散っていた。
時折骨を突くらしく、ちゃぐっという音の合間にごりっと不協和音が聞こえたり、肺に入った空気が馬乗りになった真柩の重みで押し出され口から間抜けな音が漏れたり、筋や血管、神経なんかが包丁や真柩の手指に絡みつきぶちぶちとそれを引き千切る音が聞こえてきたり、思い出すとぞくぞくしてくる。
俺の姿が目に入っているのかどうか、俺が来てからも真柩は泣きながら、笑いながら女生徒を壊し続け、漸く俺に視線を向けたのは眼窩に思い切り突き刺した包丁が中程からばきんと鈍い音を立て折れた時だった。
以下回想
「………壊れちゃった。」
ふにゃりと頭の螺子が数本飛んだような顔で真柩は笑っていた。
「けど、壊したのは君だろ?」
「壊した?…………うん、私が壊しちゃった?」
「聞くなよ。」
真柩が立ち上がる。手には刃が半分になった包丁。先端は女の子の眼窩にささったままになっている。眼球を両断したのかガラス体が毀れ、とろりとした半透明の液体に赤が混じっている。中華風デザートにありそうな配色だ。
「………何で?」
真柩が小さく声を漏らす。
長い髪は乱れ、顔は蒼白、視線は遠く、額には汗が浮かび、濃紺と白を基調にするセーラー服には彩るという言葉を使うにはどう見ても多すぎる程に鮮血で染まり、しかも服のあちこちには肉っぽいものがこびり付いたりして、その上手にはこれまたねっとりと真っ赤な液体が糸を引く半分に折れた包丁。
小さい子どころか結構イイ年齢の人間にも軽くトラウマの一つや二つ叩き込みそうな有様だが、生憎俺はそういうのとは何故か無縁。
ま、色々あったのだ。
「────何で、居るんですか?」
真柩が再び小さく漏らす。今度は途中で消えることも無く最後まで聞こえる。口調と声は一転してマゾなら昇天しそうに冷たいモノだが、顔は相変わらずの笑顔で何とも微妙。
「そうだな、哲学的な答えと在り来たりな答えと社会学的な答えと、少なく見積もっても二十六種類の返答があるけど、希望は?」
俺のウィットな返答に対してもやっぱり真柩は何も無い笑顔を浮かべていた。
回想中断
湯飲みを持ち替え左手を開く。
生命線、運命線、頭脳線の手相で見る主要三本線を断ち切るかのように太い傷痕が手の平にハッキリと残っている。
「消えてませんね。」
真柩が俺の手を覗き込んでくる。
「いいさ、俺の中じゃこの傷は真柩からのプレゼントって位置づけだからな。」
この傷は他でもない真柩に付けられた。半分に折れた包丁だと見縊っていたが意外と切れ味は良く、振りかぶってきた真柩の腕を掴もうとして目測を誤り切られた訳だ。刃が折れていなかったら俺の手の平は半分になっていたかもしれない。
「それじゃあ私もこれを先輩からの贈り物と思いますね。」
真柩がリボンタイを解きシャツの前を少しはだける。そこには首筋から肩にかけて見事な傷痕が、それも大型の動物に噛み付かれたような……要は俺が噛み千切った痕がハッキリと残っている。
三年前、包丁で切りつけられて不覚にも興奮してしまった俺は真柩に襲い掛かり気がつけば首筋に喰らいつき、慌てて顔を離したが口の中には血の味が溢れていた。自分の獣性には呆れてくる。幸い急所をそれていたから良かったものの、なんにせよ俺はその傷痕を見てしまう度に気まずい。
「でも、私結構嬉しいんですよ。」
真柩がどこか愛おしそうな様子で傷痕に指を這わせる。
ああ、罪悪感が募る。
「先輩が初めてでしたよ、私に怖いなんて思わせたの。」
それは、そうかもしれない。あの時は何とか正気に戻れたがそうじゃなきゃ間違いなく俺は真柩を食い殺していただろう。
「先輩だけです。私の事を厭わないでちゃんと相手してくれるの。」
何故か真柩が真摯な顔を浮かべて擦り寄ってくる。例え肉体関係のある相手とはいえ、こういった表情で来られると俺としてはどうも弱い。
「そうか?神和だってそうだっただろ?」
「───ちょっと違うんです。具体的にどうとは言えないんですけど何かの拍子に越えられない壁みたいなもの感じちゃったんです。」
それは多分誰だって自分以外の人間には多かれ少なかれ感じている事だと思う。現に俺なんて自分にすら時々壁を感じたりする上に何処にいようと誰と話そうと何時も一人でいるような気がする。数少ない例外を除いて。そしてこの真柩も数少ない例外の一人。
「そうか………それでも残念だったな。」
それとなく肩なぞ抱いてみる。甘い匂い。華奢な骨格、柔らかな身体。男の肩を抱くより数倍気持ちがいい。
「………しょうがないです。」
少し困ったような笑みを浮かべたまま、真柩は抵抗するわけでもなく、そのまま俺に身を預けてくる。
「先輩?」
「うん?」
「先輩って好きな人いますか?」
また唐突な。
「好きというか、好意的な感情を抱くとか興味があるのは昔もいたし、今も数人残っているけどそれがどうした?」
俺の答えにどこか不満らしく、真柩は少々渋い顔。
「ちょっと違うんですよね、私が聞きたいのは先輩が好きな、つまり愛してるとか愛したいと思った事がある人はいますか?って事です。今先輩が答えてくれたのはLIKEで私が聞きたいのはLOVEの方なんです。」
態々下唇を噛んでヴの発音までしてくれる。が、どうしてこの娘は唐突にこんなことを聞いてくるんだろう?それとも世の婦女子ってのはみんなこんななのだろうか?
「そうだな─────」
少し
ほんの少しだけ困る。
「ちょっとだけ真面目な話をするとな、俺はここが少々壊れているんだ。」
とんとんと人差し指で自分の胸を突く。顔には多分苦笑が浮かべられていると思う。勿論壊れているのは心臓ではなく、抽象的だがこれ以上ないってほどに的確な言葉で表すなら『心』というもの。
「心臓?」
真柩ナイスな勘違いだ。小首を傾げる姿が可愛すぎるぞ。
「いやいや、心の方だよ。もっとも俺はここに異常をきたしていない奴なんて見たことが無いが、まあそれは置いといてだ、どうも俺の心も例に漏れず少々壊れているらしくてな、その好きとか好意とか、ましてや愛なんて感情がどうにも理解出来ないんだよ。」
真柩が無言で呆れたように俺を見ている。
何故だ?
にんまりと真柩が笑う。
俺が疑問を抱くよりも早く、するりと真柩の両腕が俺に絡みつき顔が近づいてきたかと思うとそのままキスされていた。
それもフレンチとは程遠いこってりとしたディープなヤツを。
口腔内が甘く、蕩けそうになる。
「先輩、そんなの当たり前ですよ。」
漸く唇を離した真柩は一つ舌なめずりをした後、そう話し出した。
「好きとか、愛とかは理解するものじゃなくて───」
俺の手をとり真柩が自分の胸に当る。柔らかくて、暖かくて、鼓動が伝わってくる。
「感じるものなんですよ。」
満面の笑み。
何人にも曇らすことは許されないとしか思えない完璧な笑み。
「私は先輩のことを考えるとここを中心にして色々感じるんです。」
真柩の胸の上で俺と真柩の手が重なる。
「そして私は全身で先輩の事が大好きだって感じているんですよ。」
敗北。
俺の頭の中を過ぎったのはそんな言葉。それも完全な敗北。完敗。
が、悪い気はしなかった。
そう、負けるのだって悪くない。面白ければ良いのだ。
当初は単純に純粋で可愛らしい後輩の筈でした。