彼は如何にして「てへぺろ」を受け入れたか
てへぺろ――いつごろからだろう、そんな言葉が耳に入るようになったのは。
ウィキペディアには「何か失敗してしまった時に、『てへ』と笑い、『ぺろ』と舌を出してごまかす様子を組み合わせることで誕生した」とある。
しかし、失敗したときにこれを使ったところでごまかしになるだろうか、むしろ炎にガソリンを注いでいるだけではないだろうか。
そんなこんなで、俺は「てへぺろ」という言葉にあまり良い印象を持っていなかった。
そして今日も電車のあちこちからそれは聞こえてくる。聞きたくもないのに。
「そういえばさ、この前頼んだCD持ってきてくれた?」
「あっ、ごっめーん! 忘れてた、てへぺろ☆」
ほら、使った。
耳障りな濁った声が俺の耳を侵食する。乗り物酔いする方ではないのに、なんだか胸のあたりがむかつく。朝から気分最悪だ。
使ったやつらの顔が見たくて声の方向へさりげなく視線を向けた。
……小さい目を黒々としたひじきで覆い、おたふくみたいに真っピンクな頬、そして不自然な茶色い黒目、いわゆるギャルという人種だった。しかもギャルの中でも下の方のギャル――つまり、彼女たちは決して美人ではなかった。
こういう電車の中で馬鹿でかい声で話すアホっぽいのに限って、てへぺろとか使いたがる。こんなやつが俺に向かっててへぺろとか言ってきたら殺意をこらえるのに苦労することになるだろう。
俺はそんな事を考えながら目的の駅が来るのをぼんやりしながら待った。
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廊下中に興奮気味な声が響き渡る。語尾を伸ばしてけだるそうに喋ってみたりと、口調こそ大人ぶっているものの、その声はまだ声変わりの途中なのか妙に甲高い。
「――でさぁ、彼女マジ怒っちゃってぇ! もう大変だったわぁ」
「マジで!? ヤバイじゃん、てへぺろだね!」
おそらくてへぺろの使い方が間違っている、という事よりも男子がてへぺろを使っていることに衝撃を覚えた。
もうこんな、瀬戸際までてへぺろが迫ってきているという事実に戦慄する。
もし俺の友達が「てへぺろ」と言ってきたら、失敗をごまかすために舌を出しながら「てへぺろ」を使ってきたとしたら――俺は、俺は一体どうしたらいいのか。
恐い、恐くてたまらない。
誰か俺に正解を、てへぺろへの対処法の正解を教えてくれ――
「サトル君? 大丈夫?」
俺の横から発せられる甘い声に耳を揺さぶられ、ハッと我に返った。
そうだ、こんなことを考えている場合じゃない。せっかく学校のマドンナ、雪乃さんと一緒に日直の仕事ができているんだ、このことだけに集中しよう。こんなチャンス、そうは訪れないのだから。
「あ、そういえば雪乃さんはさ、料理がすごい上手って聞いたんだけどなんかコツとかってあるの?」
昨日の夜から対雪乃さん用の話題はいくつかストックしてある。これで話題に困ることもないはずだ。
俺の考えを裏付けるように雪乃さんはこの話題に食いついた。
「うーん、コツってあんまりないよ。レシピ通りに作って、あとは慣れかな。サトル君も料理とかするの?」
「たまにするよ。あんまりうまくないんだけどね」
嘘だ、カップラーメンにお湯を入れるくらいしかしたことがない。でも雪乃さんが俺に興味を持ってくれて……それだけでもう天にも昇るような気分だった。
雪乃さんが日誌を書くための準備をしている隙に、少しだけ彼女の方に自分の座っている椅子を寄せた。
「あ、サトル君ペン持ってる?」
彼女が甘い声で俺に問いかける。
「持ってるよ、忘れちゃったの?」
「てへぺろ☆」
彼女は確かにそう言った。しかも、赤く可愛い舌をその唇からちらりとのぞかせて。
でも全然嫌な感じはしなかった。今朝ギャルたちが言った「てへぺろ」とは違う言葉みたいだ。あれだけ嫌悪感を抱いていた「てへぺろ」だったのに――今では彼女の甘い声にピッタリの言葉だとすら思う。
それからの事はあんまり覚えてないけど、平静を装って作業を続け、家に無事帰ったのだと思う。
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家に帰ってからも俺の夢心地の気分はちっとも萎えていなかった。
「サトル、部屋ちゃんと掃除しなさいよ。母さんが掃除したら見ちゃいけないものも出てきちゃうでしょ?」
いつもなら壁を殴って部屋に閉じこもるレベルの母さんのお茶目も、この時の俺の気持ちの高揚を吹き飛ばすレベルのものではなかった。俺は笑顔で母さんの言葉にうなずく。
「ははは~、分かったよ掃除しとくよ~」
「あら、今日はずいぶん素直ね。めずらしい」
一向に壁を殴らない俺を見て、母さんは不思議そうにしながらも上機嫌になった。しまいには鼻歌まで歌いだし、夕飯の支度を始める。
母さんの取り出したはんぺんを見て、消しゴムが極限まで小さくなっていることを思い出した。昨日買ってくるように頼んでおいたはず。
「そういえば母さん、頼んどいた消しゴム買ってきてくれた?」
母さんは大袈裟に頭を押さえ、小さく舌を出して言った。
「忘れちゃった~てへぺろ☆」
母さんがそう口にした途端、さっきまでの甘いほわほわした気分は吹き飛び、代わりに何故だかわからないけど虚無感が襲ってきた。
そうだ、あくまでも神聖なのは雪乃さんであり、てへぺろは神聖な言葉でもなんでもなかった。誰でも使える、お手軽な著作権フリーのただの言葉だったのだ。
なんで俺はこんなにガッカリしているのだろう。振出しに戻っただけじゃないか。
そう思い込もうと努力するも、全然ダメだった。自分の中の大切な何かが壊れてしまったような、そんな気がする。
この喪失感を和らげようとソファにどっかり座り込み、食い入るようにテレビの画面を見つめた。しかし大好きなバラエティ番組も、今の俺の深い心の傷を癒してはくれない。
クスリと笑う事の無いまま、画面はひな壇に並んでいる芸人から白い犬にパッと切り替わった。
そこには緑色のセーラー服を着た天使がいた。豊かな茶色い髪に白い肌、そして彼女は可愛い声で確かに発した。「てへぺろ」、と――
「あ、サトル? そういえば今朝頼んどいたネギ買ってきてくれた?」
「忘れた、てへぺろ☆」
恐ろしくくだらない小説を書いてしまったと反省しています。
何が言いたいかというと、言葉(流行語)って使う人のイメージが大切だよね、です。
ギャルのみなさん、そして「てへぺろ」愛好家の方、すいませんでした。




