流れ星になりたい
流れ星になりたい
船長は猫男をこき使って軌道の計算をはじめた。そして途中で投げた。通常航法用の測定機からのデータなしでは難しすぎる。
それから、モンゴメリ猫男があちこちいじって操船を試みたけれど、愛しきボイシアナは、まったくいうことをきかなくなっていた。
つぎに、がさつな――私の意見ではなく、あくまでもメイジ操縦士の言い分だ――船長が細い指で操ったけれど、変わりはない。
つまり、操縦不能。
惑星の質量に引かれて、少しずつ加速しているような気がする。まあ……気のせいだろうけど……まっさきに猫男があきらめた。
「にゃん。できれば惑星の夜の部分に突っ込みたいね。再突入でマイナス八等級ぐらいの明るさで流れ星になってね。きれいだよ、夜だったら、みんなが見てくれる。あらかじめ知らせておかなかったのが残念だ」
「いやよ!」
ティプレイ主任は猫男に反対した。
ホイヤン船長はスキャナー席で、コンソールに肘をついて、自分の眉間を指先で揉んでいた。
長い息をついて、みんなに目を走らせてから
「まて、整理してみよう。ボイシアナはリゲル33第三惑星の大気圏に突っ込む。どうなる?」
「にゃん。我が愛しきボイシアナ号に大気圏突破能力はありません。解けてばらばらになって落下。吾輩たちは黒コゲ」
「シャーレイ君。そのとき地表の被害はどれくらいになると思う?」
予想していないときに、船長は私に質問してきた。でも、そんなの聞いたことがないから、適当に答えてやった。
「……良く分からないです。船体は約三万トンの容積で、組み立てられた鋼材はたしか三千トンくらい? 積荷に鋼材一万トン、雑貨で五千トン、合計して一万五千トンちょっとくらいかな……。半分燃え尽きたとして、地方都市一つか二つ、海か砂漠にでも落ちれば地表の被害は無いと思います」
顔をあげたホイヤン船長の眉間の皺が深くなった。猜疑心があふれている灰色の瞳も濃くなった。
「……そこだ。あの二人組みは、そんなことを狙っていたのか? これだけ大騒ぎして、たったそれだけ?」
「首都に落とすつもりじゃ?」
私が答えると船長と目が合った。猫男も気づいたようだ。
「なに、なになに?」
ティプレイ主任はきづかない。
私は教えてあげた。
「船の外に積んだ固体ロケットブースターです」
「メイジ君の調査では、異常なしだったけれど……」
船長も理解していた。
「にゃーん。やばいものが中に仕込んである」
「それって、もしかして、……NBCとか……ああ…………農業生態を破壊しちゃう窒素固定細菌用のウィルス……」
ティプレイ主任も結論を出したようだ。
船長が付け足した。
「しかも、外から来た郵便船が違法に運んでいたもので、こちらに責任を全部、押し付けられる」
唇を歪めた猫男が吐き出すように言った。
「にゃん。空から降ってきた惑星外物質に汚染されて大騒ぎになっているところで、油田地帯をいただく。良い手だ」
そのとき、船内に無重力がもどった。加速感が消えた。
すぐ、ホイヤン船長がつぶやいた。
「突入コースが決まったか……」
私は良いことを思いついた。
すぐ提案した。
「積んでいるブースターを切り離して、捨てちゃいましょう。宇宙服を着て船外作業十五分です」
ホイヤン船長は、ふふん、という顔になった。
「シャーレイ君。物理学を復習したまえ。むだだ」
そうだ。
ボイシアナ号は、いま等速直線運動している。固体ロケットブースターを捨てても、力を与えない限り軌道は同じだ。
よけいなことを言って、また、弱みを船長に握られてしまった。
でも、いーや。へーき。もうすぐ終わりだし。
「にゃん。人生って良いことがないんだな。急に終着駅とは」
猫男が嘆いた。船長の長いため息が跡を追った。
「あーーあ、ボイシアナ号とキャプテン・ホイヤンの名前が歴史に悪名を残すのか……また、女だからって言われるんだろうな……」
「いやよ!」
ティプレイ主任がわめいた。再突入への実感が湧いてきたようだ。
「まだ見てないビデオが残ってる。ホイヤン。船長でしょ! 指揮しなさい」
「指揮って……」
ドライブ主任は、きっとなった。液体ヘリウムが固化したみたいに、すげー気迫だ。やっぱり、女性は怖いや。子供のころ、ゲームを買うのに私がクレジットカードを勝手に使ったのがばれたときのかーちゃんみたいだ。
とーちゃんは黙って見逃してくれたのに。
「シャーレイの言った、捨てるってのは?」
「ブースターを捨てても軌道を変える機材がない。それに……軌道計算だけで、どれだけ時間がかかるか……」
「じゃあ、別の手で…………空間転移よ」
「ぶにゃーん! 反転しないと無理。進行方向が違う」
猫男が苦笑いしながら言った。ドライブ主任はそれを押さえつけた。
「このまま行くの」
みんな驚いた。
重力源に向かっての空間転移!
転移航法の開発初期に検討されて否定された方法だ。
手っとり早く言えば、目をつぶって重力の井戸に飛び降りる。急な坂道を三輪車で下りながら、思いっきりペダルを漕ぐのに等しい。子供のころ、近所の坂道でやったけれど、たいていカーブを曲がりきれないで二、三回転したあと道路に叩きつけられて、膝の擦り傷に泣いたっけ。
宇宙でも同じだ。
確か、失敗が続いて放棄された方法だった。
そして、ふつうの航路なら空間歪曲については艦隊の探索船がデータを収集して公表しているが、不規則空間転移については航路のデータがない。
でも、船長は決断した。
「やろう。配置につけ。シャーレイ君。操縦士代理を頼む」
それから、みんなを見渡して、にがく笑った。
「結果がどう出ても、みんな恨みっこなしだぜ」
私も了解の意味をこめて首を縦にふった。操縦士席にすわって、コンソール画面で核融合炉の出力を上げていく。
……でも、あの写真はなんだろ? 気になる。失敗したら、死ぬ直前で聞いてみよう。と頭に浮かんだけれど、ティプレイ主任の声で我に返った。
「あぁ、だめ」
横から見たドライブ・コンソールの四つの円は、激しく飛び跳ねていた。この状態では空間解析ができない。四つの円を安定させなければ。
「ちょっと、待ってて」
ティプレイ主任は、そう言うと自分の船室へ走っていった。手持ち無沙汰の三人が椅子のうえに残った。
沈黙に耐えられなくなったように、猫男がつぶやいた。
「パパベル君。有機体は、きれいだと思わないかね。人類が宇宙に出るのは間違いではないかと、吾輩はつねづね考えている」
ディスプレイの真ん中に映ったリゲル33惑星を見ていた。
「猫男。シャーレイ君は資格試験で環境主任を希望している。講義してやれ」
猫男は私を見た。
「良い心がけだ。見よ。赤外領域を吸収して青く輝く水。それは恒星の核融合にあぶられて蒸気となり凝固して雨となる。白い雲、黒い雲、そこから降る雨。惑星は大きな蒸留器。洗い洗われ、水あふるるなかでシアノバクテリアはストロマトライトになり、酸素を作りたもう。お肌に有毒な紫外線は酸素を分解して、それをオゾンとなす」
「いいぞ猫男。祖先に劇作家でもいたのか」
ホイヤン船長が茶化した。
「灼熱の出来たて惑星は時の流れとともに冷え、塩酸の雨は大地のナトリウムを溶かし、すべてを生み出す偉大な塩水となる。鉄は二価のイオンになりせば、偉大なるオキシジェンにより三価になりて褐鉄鉱として沈殿す。我、スコップで掘りてコークスと打ち混ぜ火をつけて鋼材となす」
猫男は不安に立ち向かうようにつづけた。
「鋼は船となり、海に出て網をひっぱってタラを捕る。タラには海を泳ぐ権利があり、人と猫はタラを食う権利がある。環境倫理学とは、タラの立場から、惑星の将来を決める学問だ。それさえ知っていれば、試験で迷うことはない」
私は良く考えて猫男の言うことを咀嚼した。
「つまり、きちんとタラに説明してから、フライになるかスープになるか、選択させろってことですね」
「にゃん? まあ……だいたい、あっている。哲学的にはそんな感じさ。ただね……」
饒舌な猫男は、言いよどんでからつづけた。
「人は宇宙を開発するべきか? という、根本的な問題には依然として議論がのこっている」
続けようとして言葉を切ったとき、ティプレイ主任がもどってきた。ドライブ装置のまえにすわった。
「おまたせ。視覚強化剤、飲んじゃった」
「おいっ!」
ホイヤン船長がとがめた。
「らん、らん。まかせて~~らんらん」
……視覚強化剤。
眼球のサッカード運動と大脳皮質の視覚野を補強して、視覚の時間分解能を〇、二秒から五倍程度あげて、〇、〇四秒で処理できるようになるトリプタミン系薬剤だ。
これを使うとビデオがとてもきれいに見えるとの噂だ。とくに三十六型規格との相性が良い。ただし、大脳皮質に負担がかかるために、一部の星域では禁止されている。
ティプレイ主任なら、好きそうな薬かもしれない。
副作用はたしか……興奮。
「イエッイィーー」
雄たけび、というか、雌たけびというか、片手を上げて叫んだドライブ主任は、空間解析機の操作をはじめた。ノンストップアクションビデオを見たあとのように、かなりのっている。
「充填率九十六パーセント」
私は、報告した。
核融合炉は順調で、積層蓄電器も異常なし。
ドライブ主任は計器を早口で読み上げた。
「重力補正、八、五、七、八」
コンソールのディスプレイで四つの円が飛び交っている。
いきなり言われた。
「今よ!」
「えっ?」
四つの円が震えて踊っていた。そんな……言われても、できないよ!
「今だってば!」
ドライブ主任が、また叫んだ。私の目では追いきれない。空間転移機のスイッチカバーを跳ね上げて構えた。
「いま!」
あわてて、ボタンを押した。
りゅいん。
ぎっく。
ボイシアナ号は十七次元に飛び込んだ。いつもの軽い衝撃のあとに大きなのが来た。
ドライブ主任のいまいましそうな声が聞こえた。
「全然だめ。……あなた、にぶすぎるわ……しーーらないっと」
「ぶにゃににゃにゃーーーんっく!」
猫男が声をつまらせた。
十七次元の偽り星は見えなかった。中央のディスプレイは暗いままだ。
船長が星のスキャンをはじめた。
「猫男、空間欠陥に注意」
「にゃ、にゃ、ふにゃ。流れ星になったほうが良かった。星が見えなきゃ、位置が確定できない……これ、漂流だぜっ!」
猫男が呻いた。
ホイヤン船長は高速スキャンをつづけた。スキャナーの平面結晶センサーの光感度を上げたようだ。ディスプレイにざらざらの輝点が明滅しはじめた。
しばらくの沈黙のあと、船長は平然を装って言った。
「うん。シャーレイ君。良くやった。ボイドのなかに飛び込んだだけだ。安心したまえ」
それから、呆然としているみんなを見て、にこりと笑った。
「必ず、もどれる。私を信じろ」
船長がとても良い笑顔で私を慰めてくれた。その気持ちが痛いほどわかった。私のボタンが遅れたせいなのに……もっと運動神経が良かったら。
私の頭の中で破滅の鐘の音が夕暮れの茜色の記憶といっしょに色とりどりの音色の不協和音で鳴って響いて遠くに消えていった。
ああ、私も流れ星になりたい……
でも、現実は変わらない。
だから、気分を変えた。
とりあえず、私のポケットマネーでお茶でも入れて、船長とドライブ主任と猫男に媚を売っておこう。ボイシアナの気まぐれな乗組員がいつまで黙っているか、わからないから。風向きが変わって私が非難されるようになったら、避難できるようにしておかないと。
お茶で誤魔化せるものなら、安いもんだ。
ホイヤン船長は遠慮なしにホットミルクの『大』を希望した。
ディスプレイにかじりついてスキャンをつづけるホイヤン船長は、ドライブ主任に頼んだ。
「ティプレイ。看護士の服は持っているか?」
「えっ? うん……」
「メイジ君の様子を見てきてくれ」
ドライブ主任は、シートから浮かび上がった。
「らん」
視覚強化剤の興奮作用がまだ残っているのか、ティプレイ主任は大きな瞳孔で楽しそうに返事をした。ふわふわと飛びながら船室に帰っていった。
船長はまえを向いたまま保安主任に声をかける。
「おい。猫男。しょぼくれていないで、笑え」
「にゃん……」
「君は、にゃん、しか言えないのか?」
猫男は喉の奥から声を出した。
「かあかあ」
カラスのまねをした。本人はつまらなそうにしているけれど、なかなかうまい。
「よし。猫男。君はカラスだ。飛んでごらん」
船長の命令で猫男はカラスになった。電磁靴の磁石をゆるめると、両手で羽ばたいて天井まで上っていった。
「いいぞ。君はカラスの吟遊詩人」
「……我はオーディンの斥候。一軍のさきがけなり。思考と記憶をつかさどらん。……アーサー王は我が守護神。カラスの鳴かぬ日はあっても夜毎に猫男は人肌のぬくもりを求めんとす。かあかあ。太陽のなか、三本脚のカラスはいずこにありや」
上から、私を見下ろした。猫男にも元気がもどってきたようだ。いつものように軽く話しかけてきた。
「ところで、パパベル君。いつまで王子様をつづけるつもりかね?」
ああ……そうだ。
「船長。顔、洗ってきます」
ホイヤン船長は、ディスプレイをにらんだまま、片手を挙げて応えてくれた。
猫男は天井を押して降りてくると、もとの位置について空間欠陥を見張りはじめた。
私は船室に帰って、裸になった。
シャワー室のなかで顔じゅうを石鹸で洗って化粧を落とした。なかなか、ルージュが落ちない。女性って大変なんだな。毎日、これをやっているなんて。
紫外線で消毒したタオルで体をふいて、作業服に着替えてブリッジにむかう。
とちゅうで気が変わって、医療室に足を運んだ。足を撃たれたメイジ操縦士はだいじょうぶかな? と思いついたからだ。
ドアを開けると、ピンク色の看護士さんがメイジ操縦士のそばに椅子を置いてすわっていた。
すげー。
ティプレイ主任が、桜色の薄い看護士の服を着ていた。でも、これって医療用って言うより、別の目的のためみたいな服だ。裾が短い。どうして、太ももが見えて、ストッキングを吊っている紐が見えるんだろう? 胸元も広く開いているし……ちょっと怪しい通信販売で……いや、そうとう怪しいところで買ったように見える。
と言うか……ぜったいに、これはあれ用だろ。
もう、メイジ操縦士なんか、どうでもよくなった。
「あら、シャーレイ様。メイジは良く寝てます。だいじょうぶみたい。王子様は、やめちゃったの?」
「ええ、作業にはもったいないから」
「ふーん」
ティプレイ主任は、看護士の服を着たまま、空中に上がると一回転した。頭には看護士さんの帽子をつけていた。
この人、プロだ。肝心なところが見えそうで見えないや。
「とっても似合いますよ」
「そう?」
私は目のまえの白いナイロン繊維に包まれた形の良いふくらはぎを無視した。
思い切って、気になっていることを聞いてみた。
「せ、船長って……」
「あーーー!」
ドライブ主任はすぐ、楽しそうな声をあげた。
「ホイヤンてね、小さいころは泣き虫だったの」
「えっ! そうなんですか」
「お家でセントバーナードを飼ってて、泣きながら帰ってくると、ワンコが慰めてくれてモフモフするのが趣味だって」
それから、意味ありげに笑って、つけくわえた。
「だ・か・ら、犬が好きだし、犬になるのも好きなの」
「へー。意外ですね。もしかして、ティプレイ主任が飼い主だったりして」
「だ・め・よ」
天井に手を伸ばして、反動で降りてきた。
「その手には乗らないわ。ホイヤンはすっごいまじめだから、私がしゃべりすぎると、いじめられちゃう。ちょっとしたパーティのハプニングなの」
それからは、何を聞いても曖昧な返事をもらうばかりだった。そのくせ、足を組んだり、ストッキングをずりあげたりして、大人ぶって挑発してくる。
新しい情報は手に入りそうにない
メイジ操縦士はティプレイ看護士にまかせて、ブリッジに行った。
壊れたドアをくぐると、猫男が呼びかけてきた。
「かあかあ」
「わん!」
私が犬の鳴き声をまねしてやると、スキャンしていたホイヤン船長がふりむいた。
「ああ、シャーレイ君。猫男と交代してくれ。保安主任、君も少し休んで来い。長くなりそうだ」
保安主任は持ち場をあけた。
「かあ。王子よ。心の眼もってして空間欠陥に立ち向かうのだ。船の安全を守るためだ。光子魚雷はためらわずに撃て。かあ」
保安主任はカラスの声でアドバイスをくれた。冷たく船長がつけたした。
「交代は四時間後だ。つぎはティプレイにやらせる」
保安主任代理も楽じゃない。ディスプレイを見つめて緊張しっぱなしだった。交代したあと、がっくりと疲れた。自分の船室にもどって、パジャマに着替えて寝袋にもぐりこもうかと思ったら、誰か来た。
個人船室のチャイムが鳴った。
「かあかあ」
ドアを開けた。
抱き枕を手にした寂しがり屋の猫がいた。お気に入りのピンクのネグリジェを着て、長めのナイトキャップをかぶって、しょんぼりしている。
その姿を見て、どうしようか、迷った。
夜は一人で寝たい。でも、猫男はうつむいて、じっと足元を見ている。
「カラスは……やっぱり……猫の鳴き方が似合っているよ」
「にゃーん」
話しかけて部屋の中に招いてあげると、うれしそうに鳴いた。
「抱きつくのは無しだよ。背中合わせだからね」
私は寝袋に入った。猫男が背中を押し付けてきたので、そのまま、腰の周りを拘束スリングで止めて、離れないようにする。猫男は抱き枕を両手と両足で抱えて、満足そうにごろごろ言っていた。
船室の照明を暗くして、早起きタイマーをセットした。
「ねえ、猫男。……いつから猫になったの?」
「にゃん、子猫のときからかも知れないけど、思い出せるかぎりは、生まれたときからさ。にゃん」
「事故のことは、思い出す?」
「……」
返事はなかった。
「ごめん……悪いこと聞いちゃった?」
私の後から呟きが聞こえた。
「いにゃん。吾輩はつねづね、人は宇宙に出るべきではない、と思っている」
「それ、矛盾している。僕たち……」
「にゃん。だから、吾輩は猫になったのさ」
ふーん。
いいかげんそうに見える猫男でも、そんなことを考えていたのか。
「でもさ、なんで、猫になってまで飛び続けるの? 地球で餌もらってれば楽しく暮らせるのに」
奴は体を押し付けようとするけれど、無重力でうまく行かない。
「……無辺なる宇宙。それは人類に残された最後のフロンティア。男たちには、空白の地図が必要なのだ。見よ。野望を抱く少年は地表の整然とした秩序のなかで窒息していく。彼ら、そして我らには冒険が必要なのだ。おお、輝く星たちの歌を聴け、足跡のない無垢の世界を勇気と誇りで塗りつぶせ。いまこそ進軍のラッパを轟かせよ……」
猫男は、ぶつぶつとしゃべりつづけた。
その背中のぬくもりを感じながら、私は、猫男が乗っていた『灰色マルハナバチ』の事故を考えていた。
――聞いている範囲では、ボイシアナとは事情がちがうけれど、あれも漂流事故だった。空間転移中に積層蓄電器が焼け落ちて、乗組員たちは、無理に空間復元を行った。もどった場所は通常の航路から二光年ずれていた。
空間転移航法が使えないと、絶望的に遠い距離だった。事態を把握した乗組員の意見は二つに別れた。灰色マルハナバチの船長は個人の判断に任せた。十八人は避難ポットで脱出して、みんな回復不能なほど精神を病んだ。残った八人も二ヶ月は協力しあっていたけれど、一年たつとみんな部屋に閉じこもって心を壊された。
宇宙は広すぎる。
乗組員は、どうしようもない徒労感と絶望に十八ヶ月さらされた。避難ポットを使った人たちはたった一人で。
艦隊の捜索艦がたまたま一年三ヶ月後に救難信号をキャッチして全員を救助した。でも、体に傷一つついていないのに、みんな心に深い傷を負って地球の病院送りになった――
その中から、ただ一人、宇宙に舞い戻った男がいる。
猫男。
医療担当の女の子を美貌の微笑みでだまして静止軌道まで這い上がると、艦隊のデータ収集艦の勤務に退屈して、ステーションの療養センターで、ふてくされていたホイヤン船長といっしょになってボイシアナ号を買い取った。同級生のティプレイ主任――航路開削艦のドライブ主任をしていたけれど、艦内でみんなから孤立していた――を呼び寄せて、もうひとり、薬物で艦隊をクビなって謹慎していたメイジ操縦士がくわわった。艦隊司令部も、宇宙船で飛び続けてくれるなら所属はうるさく言わない。
それが、ボイシアナ号のはじまり。
やっぱり、すげーや、この猫。
やっていることはスフィンクスみたいに変態っぽいけれど……
そして、『灰色マルハナバチ』の事故報告書を読んだ船長たちの一部は、避難ボットを撤去した。深宇宙の事故では、どうせ助からない。それならば、みんなで最後まで船に残って、いっしょに楽しくやろうぜ。
それがキャプテンたちの合言葉になった。
猫男のいびきがうるさくて、その夜はなかなか寝付けなかった。