「君より彼女を選ぶ」そう言った婚約者を、私は二度と選ばなかった
「アリア・ベルフォード。君との婚約を破棄する」
祝宴の最中だった。
侯爵家の長男、エドワード・グレイヴァンは、集まった人々の前でそう言った。
彼の隣には、淡い桃色のドレスを着た令嬢がいる。
男爵令嬢のミレーナ。
最近、エドワードが頻繁に名前を口にしていた女性だ。
私は二人を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……理由を伺っても?」
「君といても、心が安らがないからだ」
会場がざわめく。
私は少しだけ眉を下げた。
「それは……私が悪いのでしょうか」
「そうだ」
エドワードは迷いなく頷いた。
「君はいつも僕の隣にいる。けれど、婚約者として僕を立てようともせず、何かと口を出してくる」
「……口を出す、というのは?」
「僕が先週の夕刻、ミレーナ嬢と話しているときに、帰ろうと言ったり、ミレーナ嬢に文句を言ったりしただろう」
「……婚約者のいる男性が、別の女性と二人きりで夜遅くまで過ごしていたら、普通は心配するものではありませんか?
あと、ミレーナ様にも良からぬ噂が付き纏うと思いましてお諌めしたまでのことです」
「それが嫌なんだ!
彼女も怒られて泣いていたじゃないか! そんなのあんまりだ!」
エドワードが声を荒らげた。
ミレーナも悲しそうな顔をする。
「君は僕を束縛する。ミレーナは違う。彼女は僕を信じてくれる。何も言わずにとも通じ合うことができる!」
エドワードがそう言い切る。
隣のミレーナが、申し訳なさそうに目を伏せる。
けれど、その口元にはわずかな笑みがあった。
私はそれを見てしまった。
そして、ようやく理解した。
もうこの二人に何を言っても無駄なのだ。
エドワードは感情論、ミレーナはその姑息な頭脳で私の意見を封殺してくる。
「……そうですか」
「だから、君との婚約は今日で終わりだ」
「分かりました」
「……え?」
エドワードが間の抜けた声を出した。
その様子を見ながら、私は静かに頭を下げる。
「婚約破棄、お受けいたします」
「いや……」
なぜか彼は戸惑っていた。
「君は……もっと取り乱すと思っていた」
「……取り乱したところで、いくら論理的に話したところで、あなたの気持ちは変わらないのでしょう?」
「それは……」
「でしたら、仕方ありません」
私は顔を上げた。
もちろん悲しくないわけではない。
十七歳で婚約者となってから、彼との結婚を夢見ていた。
同じ家に帰り、食卓を囲み、子供ができたら一緒に育てる。
そんな未来を、何度も想像していた。
けれど。
その未来を望んでいるのが私だけなら。
もう、しがみつく理由はない。
既に彼への愛情もなくなっている。
「今までありがとうございました、エドワード様」
「アリア……」
「どうか、お幸せに」
私はそれだけ言って、会場を出た。
背中にたくさんの視線を感じた。
同情。
好奇心。
面白がる目。
そのどれも、今の私にはどうでもよかった。
ただ、一歩ずつ歩いた。
一歩一歩踏みしめながら歩いた。
惨めにならないように。
そして何より。
自分で自分を嫌いにならないように。
◇
「本当に、これでよかったの?」
翌朝。
実家の食堂で、母が心配そうに尋ねてきた。
「うん」
私はパンをちぎりながら答える。
「お父様は?」
「まだ怒っているわ」
「そう……」
父は昨日の婚約破棄を聞いて、かなり怒っていた。
けれど、エドワードを責めるために侯爵家へ乗り込むようなことはしなかった。
私が昨日の顛末を説明した後、自分の気持ちをしっかりと両親に話したからだろう。
彼と新しい婚約者、その家族に謝らせた所で何も変わらない。
逆に、父が乗り込めば、面白がって見ていた人間達にさらなるエサを与えることになる。
幸い、あちらからの一方的な破棄であり、私が悪いことをしたという事実は無いし、それが傍観者にも伝わっている。
いくらかお金も慰謝料として頂くこともできる。
だから、怒鳴り込むのはやめてほしい。
私の話を静かに聞いた後。
父はただ、
『娘が望むなら、それでいい』
そう言った。
その言葉が、今はありがたかった。
「これから、どうするの?」
「分からない」
私は正直に答えた。
婚約者がいなくなった。
結婚の予定もなくなった。
ならば、これから何をするのか。
私はまだ決めていない。
「ゆっくりと将来について考えてみる」
「そうね」
母は微笑んだ。
「急がなくていいわ」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなった。
◇
一方、その頃。
グレイヴァン侯爵家では、エドワードが父親から呼び出されていた。
「婚約を破棄したそうだな」
「はい」
「そして、ベルフォード伯爵家も了承したと?」
「……そうです」
侯爵は長く黙った。
「それで、ミレーナ嬢と結婚するつもりか」
「もちろんです」
「彼女の家は?」
「男爵家です」
「……」
侯爵は額を押さえた。
「……好きな女性と結婚すること自体を否定するつもりはない」
「なら――」
「だがな」
侯爵は冷たい目を向けた。
「婚約者を大勢の前で捨ててまで手に入れた女性との結婚を、周囲がどう見ると思う?」
「……」
「貴族社会は恋愛だけで成り立ってはいない」
「ですが、僕はミレーナを愛しています」
「……ならば、最後まで責任を持て」
侯爵はそう言った。
「ベルフォード伯爵家との付き合いがなくなる。それだけではない。お前自身への信用も落ちる」
「僕は何も悪いことをしていません」
「それを決めるのはお前ではない」
エドワードは唇を噛んだ。
だが、それでも彼は後悔していなかった。
アリアよりミレーナを選んだ。
それでいい。
そう思っていた。
少なくとも、そのときまでは。
◇
婚約破棄から一か月。
私は少しずつ元の生活を取り戻していた。
友人と街へ出かけたり、家族と食事をしたり。
以前は婚約者の予定に合わせていた休日も、今は自分で決められる。
そんなある日のことだった。
「アリア!」
街の広場で声をかけられた。
「……レオン?」
振り返ると、幼馴染のレオン・ハートウェルが立っていた。
とある辺境伯の第三男であり、彼が領地に戻る年齢になるまではよく一緒に遊んだ仲だった。
そして1年ほど前から、またこの街に戻ってきていた。
……理由はなんど聞いてもはぐらかされているけれど。
「久しぶり」
「久しぶりって……一か月前にも会っただろ」
「そうだった?」
彼は呆れたように首を振る。
「婚約破棄されたばかりの時だったからな。忘れてしまっても無理ないか。……少しは落ち着いてきたか?」
レオンは苦笑する。
彼は昔から、こういう人だった。
特別に目立つわけではない。
剣の達人でもなければ、魔法の才能があるわけでもない。
ただ、人の話をよく聞いてくれる。
そして人の感情の機微によく気づく。
それだけの人だった。
「もう大丈夫」
「本当に?」
「うん」
私は笑った。
「最初はつらかったけどね」
「……そっか」
「でも、今は少し楽しい」
「何が?」
「自分で予定を決められることとか」
レオンが笑った。
「じゃあ、今日は?」
「買い物」
「一人で?」
「そうだけど」
「なら、付き合ってもいい?」
「どうして?」
「俺も暇だから」
「ふふ。じゃあお願い」
その日、私たちは街を歩いた。
特別なことは何もなかった。
店を見て。
食事をして。
くだらない話をして。
夕方になったら別れた。
ただ、それだけ。
なのに。
家に帰ってから、私は鏡の前で自分の顔を見つめた。
少しだけ、頬が赤くなっている。
「……どうして?」
理由は今はまだ分からなかった。
だけど。
少し心臓が跳ねたような気がした。
◇
さらに二か月が過ぎた。
その頃には、エドワードの周囲で少しずつ問題が起き始めていた。
ミレーナとの結婚を望んでいたエドワードだったが、彼女は侯爵夫人になることに強い不安を感じ始めていた。
侯爵家の親族との付き合い。
夜会への出席。
社交界での振る舞い。
男爵令嬢として生きてきた彼女には、想像以上に負担だったらしい。
ある夜。
「私、こんな生活をするためにあなたと一緒になったんじゃない」
ミレーナはそう言った。
「どういう意味だ?」
「あなたは私だけを愛してくれる、他は全部任せろって言ったでしょう?」
「もちろんだ」
「だったら、どうして私はこんなに我慢しなくちゃいけないの?」
「我慢って……」
「毎日のように知らない人と会って、笑って、挨拶して。私には無理よ」
エドワードは黙った。
それは理解に苦しんでいたからだった。
婚約者だった頃のアリアも、同じような社交をしていた。
夜会に出れば隣に立ち。
親族に挨拶をし。
自分の都合ではなく、婚約者であるエドワードに合わせていた。
けれど。
彼はそれを当然だと思っていた。
なぜなら彼女はそれら全てを、そつなくこなしていたから。
「アリアならできていた」
思わず口にした。
ミレーナの顔が強張った。
「……じゃあ、アリア様と結婚すればよかったじゃない」
「違う、そういう意味じゃ――」
「私は帰る」
「待ってくれ!」
ミレーナは振り返らなかった。
そんなことがいくつも続いた。
毎日のように喧嘩を行い、顔を合わせない日も多くなった。
すると。
二人の婚約話は白紙になった。
◇
「アリア」
数週間ぶりに、エドワードが私の前に現れた。
場所は街の公園だった。
時刻は昼刻。
手紙で呼び出されてのことだった。
「少し話せるか?」
「ええ」
私はベンチに座った。
エドワードは向かいに立っている。
以前より疲れて見えた。
「ミレーナとは別れた」
「そう……」
「僕は間違っていた」
私は何も言わなかった。
「……君なら、僕を理解してくれると改めて確信した」
「エドワード様」
「もう一度、やり直せないだろうか」
私は目を伏せた。
昔なら。
それこそ婚約したての頃なら。
その言葉を聞いた瞬間、泣いて喜んだかもしれない。
でも。
今は不思議なくらい、心が静かだった。
「ごめんなさい」
「……アリア」
「私はもう、あなたと結婚したいとは思いません」
「なぜだ?」
「……」
私は黙った。
言いたいことが山ほどあった。
だけど。
一言にまとめて言うと。
「もう戻りたくないんです」
これに尽きる。
「僕は変わる」
「……そうかもしれません」
「なら!」
「でも」
私は顔を上げた。
「あなたが変わるかどうかは、もう私には関係ありません」
エドワードが黙った。
「私はあなたと別れたあと、自分の時間を持ちました」
「……」
「自分で行き先を決めて、自分で会いたい人に会って、自分で笑うようになりました」
そして私は気づいた。
結婚とは。
誰かに選んでもらうことではない。
自分も、その人を選ぶことなのだ。
「だから、ごめんなさい」
私は立ち上がった。
「もう、あなたを選べません」
「……誰かいるのか?」
その問いに、私は意味を少し考えた。
そして。
「います」
答えた。
「あなたより、私のことを大切にしてくれる人が」
エドワードは顔を歪めた。
けれど、私はもう振り返らなかった。
◇
「……本当に俺でいいの?」
その日の夕刻。
私は恋人となったレオンに先ほどの話をした。
彼は全てを聴き終えた後、苦笑しながら私を見る。
「私のほうが聞きたい」
「え?」
「レオンは、私でいいの?」
彼はしばらく黙って。
それから笑った。
「もちろん」
「即答なのね」
「だって、ずっと好きだったから」
「……ずっと?」
「うん」
私は目を丸くした。
「じゃあ、もっと早く言ってよ」
「言えるわけないだろ。婚約者がいたんだから」
「それもそうね」
二人で笑った。
夕暮れの街に、穏やかな風が吹いている。
私はその風を感じながら思った。
婚約破棄されたあの日。
私は、自分の人生を奪われたような気がしていた。
けれど違った。
あの日、終わったのは人生ではない。
私が勝手に決められていた未来が、終わっただけだった。
そして今。
私は、自分で未来を選んでいる。
「レオン」
「ん?」
「これからも、よろしくね」
「こちらこそ」
彼が差し出した手を、私は握った。
強くもない。
特別でもない。
それでも、温かかった。
もう私は、誰かに選ばれるのを待つだけの令嬢ではない。
私自身が、隣にいてほしい人を選ぶ。
それでいい。
それがきっと。
私にとっての幸せなのだから。




