胞子の園【AI作品】
加賀谷誠は深夜、廃墟の研究所へ侵入した。
午前二時。十一月の冷たい風が頬をなでる。周囲に人影はない。
街灯も届かない郊外の廃墟。錆びたフェンスを越え、割れた窓から滑り込む。ガラスの破片が靴底で軋む。
月明かりが差し込むロビー。崩れかけた受付カウンター。壁に残った看板「◯◯食品研究所」。文字は色褪せ、一部が剥がれている。
十年前に閉鎖された施設。経営不振による倒産。
だが床の埃は、一部が拭われている。足跡がある。
誰かがここを使っている。それも最近だ。
父は刑事だった。厳しく育てられた。
「正しく生きろ」
その言葉が全てだった。父は定年まで一度も曲がらず、出世も富も得なかった。だがそれが誇りだった。
その背中を見て育った。私立探偵となった。警察があきらめた事件も、粘り強く追う。
ずっと父の教えを守ってきた。
今回の依頼は失踪した青年、柴田健太の捜索。成人の失踪から3ヶ月。警察の捜査は行き詰まっている。
家族が涙ながらに頼んできた。手がかりはこの廃墟だけだった。
地下への階段を見つけ、降り始めた。
一段ごとに空気が変わる。乾いた空気から、湿った空気へ。温度も上がる。
地下なのに暖かい。なぜだ。
湿気が肌にまとわりつき、甘ったるい臭いが鼻をつく。腐敗とは違う、妙に有機的な生命の匂いだ。
キノコ。森の匂いに似ている。
階段の終わりには金属製の扉があり、小さな窓がついていた。覗くと、薄暗い蛍光灯の光が見える。
心臓が早鐘を打ち始めた。深呼吸を繰り返し、自分を落ち着かせようとする。
武器は持っていない。探偵にその資格はない。あるのは警棒と携帯電話だけ。
圏外になっていないことを祈る。
扉を開けた。軋む音が響く。
培養室だった。
薄暗い室内で、数本の蛍光灯が一定のリズムを刻むように明滅している。
天井から垂れ下がる配管。赤い錆。床は湿っている。水が滴る音。規則的な音。
そして、巨大な容器が十基以上、整然と並んでいる。
円筒形の透明な容器。高さ二メートル以上。幅も一メートル以上。アクリル製だろうか。
中は霧がかかっている。側面に扉のようなものが見える。
その中に、人がいた。
いや、人だったもの。
息が止まる。
肥満ではない。病的に肥大化している。
皮膚が風船のように薄く伸び、血管が透けて見える。静脈が青く、動脈が赤く。腹部は異様にふくらみ、二メートル近い直径がある。
手足は象のように太く、関節が分からない。指は腫れ上がり、爪が埋まっている。
そして体の表面から、キノコのようなものが生えていた。
白く、傘を広げた子実体。大きいものは手のひら大。小さいものは親指大。無数に生えている。
容器の内部は霧がかかっている。温度と湿度が管理されているのだろう。
一歩近づく。床が濡れている。滑らないように注意する。
容器に番号が振られている。金属プレート。「七番」「八番」「十番」。
十番の容器。中の人物の顔が、わずかに残っている。
若い男。肥大化で変形しているが、面影がある。
写真と同じ顔だ。
柴田健太。依頼人から受け取った写真。笑顔の写真。母親と妹と一緒に写った写真。
健太だ。これが健太。
生きているのか。これは生きていると言えるのか。
元に戻るのか。治療できるのか。
母親に、どう報告すればいい。
背後から声がした。静かな、だがどこか興奮を含んだ声。老人の声。
「君は誰だ」
警棒を掴み、振り返ろうとしたが、間に合わない。
首筋に鋭い痛み。注射器。針が刺さる感覚。何かが体内に入ってくる。冷たい液体。血管を流れる。
視界が歪む。蛍光灯が回る。床が揺れる。いや、自分が揺れている。
父の顔が浮かぶ。五年前、病床で言った言葉。
「誠、お前は正しく生きろ。それだけを守れ。金や名誉はいらない。それが人間の価値だ」
父さん。
意識が途切れた。
***
気がつくと椅子に拘束されていた。
手首、足首、胴体。革製のベルトで固定されている。血が止まりそうなほど締め付けが強い。
身動きが取れない。
頭も固定されている。額にベルト。首が回らない。前しか見えない。
椅子はタンクのすぐ前に置かれている。側面の扉が開いている。内部が見える。空っぽだ。
ここに入れる気か。
目の前に白衣の男。
六十代くらい。痩せている。頬が窪み、目だけが異様に輝いている。
熱に浮かされたような、だが知性的な輝き。狂気と理性の混在。
白髪混じりの髪は乱れ、白衣には染みがついている。黄色い染み。胞子か。
「私は桐生。ここの管理者だ」
男の声は落ち着いている。だが微かに震えている。興奮を抑えているのだろう。手が震えている。
「他に誰が知っている?警察には連絡したか?仲間はいるか?」
黙る。
探偵の基本。情報を与えない。尋問に屈しない。どんな状況でも。
桐生が溜息をつく。肩を竦める。
「まあいい。どうせ君も素材になる。教えても構わないだろう」
そして、語り始めた。得意げに。まるで論文を発表するかのように。学会で講演するかのように。目が輝きを増す。
「これは私が発見した寄生菌だ。10年前、偶然ハエから発見した」
「人間にも寄生する」
桐生の目が更に輝く。手が震えている。興奮で頬が紅潮している。
「昆虫に寄生する冬虫夏草と同じメカニズムだ。胞子が肺で発芽し、菌糸が全身に広がる。宿主を肥大化させ、成熟すると子実体を生やす」
「そして胞子が……これが素晴らしい」
狂ってる。完全に狂ってる。
「偶然吸い込んでしまった時、世界が変わった」
桐生の表情が恍惚とする。目を細める。まるで天国を思い出すかのように。
「胞子には強力な快楽物質が含まれている。脳内麻薬の数百倍の多幸感を得られる。副作用はない。ただ純粋な快楽だ」
「特に知性の高い人間から採取される胞子は、最高品質だ。富裕層に高く売れる」
「金のためか」と加賀谷が言った。
「違う。だが施設を維持するには金がかかる。仕方がないのだ」
桐生が棚に向かい、ガラス容器を手に取る。中に白い粉末。
光を反射してきらきらと輝いている。まるで真珠の粉のような。
「そしてこの胞子には、もう一つ素晴らしい性質がある」
蓋を開ける。粉末の匂い。甘い匂い。
「脳が快楽に支配されると、秘密を守る理由が消える。全てを話したくなる。完璧な自白剤だ」
加賀谷の体が強張る。
「何があっても言わない」
桐生が微笑む。
「では試してみよう」
桐生の手が動く。
粉末が顔に吹きかけられる。
息を止めようとした。だが遅い。
反射的に吸い込んでいた。鼻と口から侵入する微細な粉末。肺に入る。
一秒。
二秒。
三秒。
視界が白く染まる。
光。眩しいほどの光。全身を包む恍惚。
筋肉が糸のように緩む。骨が溶ける。脳が溶けていく。
何だこれは。
これまでの人生で経験したことのない感覚。次元が違う。
これは天国だ。いや、天国以上だ。
父の顔が遠ざかる。「正しく生きろ」という言葉が霧のように消える。
何が正しいのか。これが正しいのではないか。
「柴田健太を……探しに来た……」
声が勝手に出る。
自分の意志ではない。口が勝手に動く。
「柴田?」
桐生の声が遠くから聞こえる。
「……ああ、十番のことか」
気づいたようだ。
「探偵か?依頼を受けたのか」
やめろ。黙れ。
「一人で来た……」
だめだ。止まらない。
「携帯電話にも記録はない……」
「誰も知らない……」
「完全に単独行動……」
脳が快楽に支配され、全てを吐き出そうとしている。秘密を守る理由が見つからない。
快楽の前では全てが無意味だ。職業倫理も、プライドも。
依頼主の涙の顔が脳裏をよぎる。
母親の顔。「息子を……お願いします……もう3ヶ月も……生きているかどうかだけでも……せめて遺体だけでも……」
妹の顔。「お兄ちゃんを……」
だが快楽がそれを飲み込む。罪悪感も、使命感も、職業倫理も。
「良かった」
桐生の声が遠くから聞こえる。満足そうな声。安堵の溜息。
「完全な単独行動か。なら問題ない」
「では君も素材にしよう。探偵なら知性が高く、良質な胞子を生産してくれるに違いない。期待しているよ」
「君で二十三人目だ。記念すべき数字だ」
胞子の効果が薄れていく。少しずつ。現実が戻ってくる。
筋肉に感覚が戻る。指先から。だが体はまだ重い。
桐生が腕を掴む。拘束を解き始める。
「さあ、タンクに入ってもらおう」
桐生が引き上げようとしたその瞬間、バランスを崩した。よろけた拍子に椅子が倒れ、椅子を構成していた金属パイプが床に転がる。古い設備で、ネジが緩んでいたのだ。
手が床についた。パイプに触れ、反射的に握る。
桐生が近づき、引きずろうとした瞬間、手が動いた。意識はほとんどないが、生存本能が体を動かす。
パイプを振る。
鈍い音。
桐生が倒れ、床に崩れて動かなくなる。
と同時に、加賀谷も力尽き、目の前が暗闇に包まれる。
***
どれくらい時間が経ったのか分からないが、目を開けた。
床に倒れていて体が重いが、動ける。胞子の効果は切れており、意識は明瞭だ。
桐生が少し離れた場所で倒れており、血が流れている。死んだのか。
立ち上がるとふらついたが、壁に手をついて桐生に近づき、呼吸を確認した。
生きている。まだ息がある。
どうしよう?
警察を呼ぶべきだ。それが正しい。
だが桐生が目覚めたら。また襲われる。一時的に拘束する必要がある。
桐生を引きずった。重いが、だが何とか動かせる。タンクの前まで引きずり、側面の開いている扉に押し込んだ。力を振り絞って桐生の体をタンク内に滑り込ませ、扉を閉めてロックをかける。
これで安全だ。警察を呼ぶまでの間、ここにいてもらう。
携帯を取り出し、画面を見ると圏外ではなく、電波がある。
その時、タンクの中で音がした。うめき声だ。
桐生が目を覚まし、ガラス越しに目が合った。
桐生は状況を理解し、タンクに閉じ込められていることを悟ったようだ。
「出してくれ」
加賀谷は携帯を構えたまま、問う。
「あいつらは元に戻るのか」
桐生が答える。
「菌糸が全身に回ったらもう手遅れだ。体はもとに戻っても、脳機能はもとに戻らない」
加賀谷は無言で携帯を操作し始める。
「金を払う。いくらほしい?」
桐生は必死に説得を試みようとする。
加賀谷は手を止め、侮蔑の眼差しで桐生を睨む。
「待て」
桐生の声が変わる。
「お前も知っただろう、あの快楽を」
手が止まる。
「警察を呼べば、二度と手に入らない」
沈黙。
あの快楽。あの光。あの恍惚。
「もう一度だけ、吸ってから決めてもいいんじゃないか」
視線が、チラリと動いた。
桐生の白衣のポケットから零れた白い粉末が、床に散らばっている。光を反射して、きらきらと輝いていた。
加賀谷は携帯をポケットに戻し、ゆっくりと周囲を見回し始めた。
タンク。配管。制御盤。記録用のタブレット。
桐生のノート。棚に並んだ器具。
「出してやる。代わりにお前の知っていることを全て教えろ」
「先生と呼べ」
桐生の声。まだプライドがあるらしい。
加賀谷はしばらく沈黙した後、
「お前が生きているうちに、この施設のことを洗いざらい教えるんだ」
***
数ヶ月後。
培養室を巡回していた。
白衣を着て手にタブレットを持ち、データを記録しながら温度、湿度、成長速度を全て記録する。
温度二十三度、湿度八十パーセント、栄養供給は一日三回。全て桐生のマニュアル通り。
完璧なシステムだった。
桐生は天才だった。狂っていたが、天才だった。彼のノートは宝だ。全ての手順が記されている。
採取のスケジュールも完璧に管理されている。各タンクからの収穫は二週間から四週間ごと。
ちょうどキノコ栽培のサイクルと同じだ。タンクをローテーションで管理すれば、常に新鮮な胞子が手に入る。
そして顧客リスト。桐生が築き上げた販売網には、富裕層、政治家、芸能人が含まれており、皆がこの快楽の虜だ。
施設の維持費はもちろん、生活費も十分に賄える。
携帯が鳴った。
着信表示「柴田様」
十番の容器を見上げたまま表情を作る。悲しそうな顔。そして携帯に出た。
「先生、息子の件は……何か分かりましたか」
依頼主の声だ。柴田の母親の柴田恵子、五十三歳。
声が震えており疲れている。
もう半年も経つのに、まだあきらめていない。
母親というのはそういうものなのだろう。子供をあきらめられない。
ガラスに手を置くと、冷たい感触とともに中の霧が渦巻いているのが見えた。
「申し訳ありません。手がかりは見つかりませんでした」
片手で電話を耳に挟んだままガラス容器から新鮮な胞子を取り出す。
たった今採取したばかりの胞子。光を反射して輝いている。真珠よりも美しい。
「引き続き調査は続けますが……正直、難しい状況です」
声は冷たかった。感情がない。演技すらしていない。ただ事務的に。
容器の中で、何かが微かに動いた。
「そうですか……ありがとうございました……」
「またお願いするかもしれませんが……もう少し……もう少しだけ探してください……お金は払います……」
胞子の入った小瓶を手に取る。
「承知しました。できる限り」
電話を切る。
十番の容器、そこには柴田健太がいる。
もう原型を留めていない。肥大化が極限まで進行し、全身から子実体が生えている。体の表面は完全に覆われ、もう顔も見えない。
大きな傘。白く、美しい。芸術的ですらある。
最高品質の胞子を生産する、最も貴重な素材。
手の中の小瓶。たった今採取した、健太の胞子。
深く吸い込む。
視界が白く染まる。光に包まれる。全身が溶ける。
目を閉じる。恍惚。
父の教えは遠い。正義も、人間性も、依頼主への誠実さも。
全てが胞子の前では無意味だ。
これが真実だ。これが人生の意味だ。これ以外に意味はない。
培養室の奥で、誰かが低く呻いた。
二十三番。まだ意識がある。
菌糸の侵食が始まったばかり。痛みはないはずだが、恐怖はあるのだろう。
当然だ。
微笑んだ。恍惚とした微笑み。
「すぐ楽になるよ。あなたはこれから素晴らしいものになる。最高の素材にね、先生」
加賀谷は胞子の園の新しい管理者として、完璧に機能していた。
毎日、巡回する。データを記録する。栄養を供給する。胞子を採取する。吸う。顧客に配送する。入金を確認する。
至福の日々。
父の墓参りには行っていない。もう半年になる。
行く理由がない。墓に何があるというのか。骨だけだ。
胞子の園が全てだ。
ここが天国だ。
(完)




