シンデレラの継母に転生したけど、悪役をやめて歴史を変えます!
歴史とは、……強者の記録。
その波に、のみ込まれたひとつの物語。
◆第一章 悪魔に誑かされた継母◆
わたくしは《継母》。
名前など、ありませんわ。
なぜって?
シンデレラ……いえ、エラの《継母》には、そもそも名前が与えられていないから。
転生前の名前も、もう必要はないのよ。
社会人としてそこそこ世間に揉まれたわたくしは、年齢で言えば娘たちより一回りほど上。
……それにしても。
舞踏会の三ヶ月前にこの世界へ送り込むなんて、神様もなんと意地悪なこと。
ドレスや髪飾りの手配。
ダンスの練習、貴族関係や歴史背景の学習。
そしてマナーの実技。
考えるだけで、全然足りない。
まったく……エラに対してできることなんて、ほとんどありませんわ。
――それでも。
娘たちに関しては、原作など無視して“‥‥自由にやってやる”と決めましたの。
意地悪な《継母》というイメージは、壊してみせる。
悪魔に誑かされた継母を演じてやるのよ。
おーっほっほ……!
* * *
その日、わたくしはエラを部屋へ呼びつけた。
促すと、彼女は急いでソファに腰を下ろす。
小さく身体を縮こませ、こちらの様子を探るように。
この時のために、眉はきりりと描き、紅は真紅。
口の片端をぐにゃりと上げ、わたくしはふんぞり返った。
「エラ、よく聞きなさい。わたくしは悪魔に誑かされたの。そのせいで、これまでの記憶も曖昧……特に、あなたとの記憶がね」
エラが顔を上げる。
じぃっと、観察するようにわたくしを見つめてきた。
今までとあまりに違う態度に、眉をひそめる。
まるで――初めて見る動物を値踏みするかのように。
「……」
さすがのエラも、言葉が出てこない。
「それでね、舞踏会までに必要なことを忘れてしまったの。何が必要かしら? ドレス? 髪飾り?」
その瞳が左右に小刻みに揺れる。
頭の中で算盤がはじかれているのが、ありありと伝わってきた。
「……本当にもらえるのでしょうか?」
「えぇ。びた一文……寸分の狂いもなく!」
(あ、言葉遣いを……間違えたわ!)
ピキリと、わたくしの継母像に入った綻び。
緊張ががらりと崩れ、エラは思わず口元を両手で隠した。
◆第二章 資料を持つ少女◆
「んんっ……その分、‥‥お金で頂いてもよろしいでしょうか?」
「もちろんよ。わたくしを誰だと思っているの?」
(あれ……《継母》のキャラって、こんな感じだったかしら?)
エラは無駄のない動きで立ち上がり、きれいな角度でお辞儀をする。
「今、金額を計算するための資料をお持ちいたします」
「よろしくてよ」
わたくしは、エラに退席の許可を出した。
(資料……と言ったかしら。‥‥しっかりしているのね)
そう感心した次の瞬間。
──すると、エラはすぐに戻ってきた。
(早すぎる……!)
その速さに、わたくしはエラの才能の片鱗を感じ始めていた。
(五分と経っていないわ。社会人でも“資料を五分以内に持ってこい”と言われたら大変なのに……)
エラが持ってきたものは、紙の切れ端を寄せ集めたような束。
前世だったら、紙ゴミと間違えて捨ててしまいそうだ。
「まず必要と思われるのは──」
エラは、淀みなく説明を始めた。
* * *
三十分後──。
「以上が必要額です。先ほど述べた通り、不確定要素についてはわたくしが予想した中央値を取りますと、だいたいこのくらいに。加えて、材料を直ちに手に入れるには火急の追加料金が必要となり──」
「……」
わたくしは無言で聞き入るしかなかった。
* * *
一時間後──。
「また、馬車につきましては。お屋敷にある馬車は四人乗りでございますが、ドレスを着ての移動ですと二人乗りが最適かと。別の手配となりますと──」
わたくしは一言も出せなかった。
(要点も的確で、分かりやすい……。しかも本人が分からない部分も、ある程度の予想金額で提示するから、‥‥具体的に想像ができてしまうのね)
もしエラから「高い壺」を勧められたら――わたくし、買わされていたと思う。
納得しすぎて、頷くことしかできなかった。
もう、お手上げ。
「分かったわ、言い値で」
しかし。
艷やかな眉間に皺を寄せたエラが、怪訝そうにこちらを見つめてきた。
その視線に、わたくしは目を泳がせて焦り始めた。
「義母様、最後まで聞かないと……あとで何が含まれているのか、分からなくなりますわ。ここに、わたくしなりの根拠資料を揃えましたので……しっかりと二人で確かめて、書き付けに落としておきませんと」
「す、すみません……」
今度、肩を縮こませて頭を下げたのは――わたくしのほうだった。
一回り以上若い娘に怒られている《継母》。
それ以上、説明は頭に入ってこなくて……わたくしは原作の「シンデレラ」について考え始めてしまった。
◆第三章 舞踏会の夜◆
三ヶ月は、あっという間に過ぎていった。
屋敷の中は、これまでにない熱気に満ちていた。
互いを観察し、足りないものを補い合う娘たち。
家庭教師すら驚き、戸惑いながらも感嘆の声を上げるしかなかった。
──そして、舞踏会当日。
人を呼び、娘たちの支度を滞りなく整えていく。
まずは所有する馬車に、ボリュームのあるドレスを着飾ったドリゼラとアナスタシアを乗せて出発させた。
次に――エラの番。
貸し馬車に乗り込む彼女は、普通の靴を履いていた。
だが、わたくしの視線に気づくと、にっこり笑って片手を掲げる。
その手には、しっかりと抱えられた一足の《ガラスの靴》。
「これを王子に渡せば……“エラ”を覚えてもらえるの」とエラ。
(なるほど……。エラは最初から、“落とす”つもりなのね)
わたくしは微笑みで送り出した。
* * *
娘たちが出ていくと、屋敷はしんと静まり返った。
重たい空気が、あたりを包み込む。
わたくしは三ヶ月の出来事を思い返しながら、暖炉のあるリビングへと戻った。
冬の気配はまだ遠く、灰ひとつない綺麗な暖炉。
シンデレラ──別名《灰かぶり姫》。
暖炉のそばで眠ったとか、掃除で灰まみれになったとか……その由来はさまざまだ。
実際、エラにも部屋は与えられていなかった。
彼女が寝泊まりしていた場所の近くで、ふと茶色の紙束を見つける。
(これは……?)
転生直後にエラが持ってきた「資料」が脳裏に蘇る。
拾い上げると、それは紐で括られたノートのようなものであった。
破らぬよう丁寧にページを開くと、小さな文字がびっしりと埋め尽くしている。
それは……エラの手記だった。
* * *
わたくしの手は震え、好奇心と恐れがぶつかり合った。
だが、目に飛び込んできた文字が、わたくしを突き動かす。
『なんでいけないのだろう』
『駄目だと言われた』
『諦めなくてはいけない』
次の瞬間、わたくしはページをめくる手を止められなくなっていた──。
◆第四章 エラの手記◆
手記の冒頭には、幼い字でこう記されていた。
『わたしは 田舎で 生まれました。
書くことが 好きです。
だから お父さまから いただいたこの綴りに、いっぱい書こうと決めました』
──その文字は、まるで過去のエラが、いま目の前で語りかけているかのようだった。
* * *
ページをめくるたび、彼女の好奇心に満ちた日々が綴られていた。
森で見つけた花の色。
小川に映った空の青。
近所の子どもたちと遊んだ時の笑い声。
そして――
『将来は、みんなを驚かせるようなドレスを作りたい!』
その行の下には、幼い筆致で描かれたドレスの絵が添えられていた。
*
やがて、裁縫への探究が始まる。
身近にあった布を解き、縫い目を探り、真似をして縫ってみる。
買ってもらった洋服を解いてしまい、父に叱られた記録。
その隣に書き添えられた、母の『大丈夫よ』と微笑んでくれた記憶。
──あの時のエラには、味方が確かにいたのだ。
*
だが、母を亡くした後、彼女の歩みは険しさを増していく。
靴屋へ通い、何度も追い返されながらも、いつしか“見学”を許されるまでになった。
『若い娘が熱心に学ぶなんて、すごいね』
店主にそう声を掛けられた記録。
しかし、その裏ににじむ違和感。
『“女の手仕事にしては”よくできている、と……』
褒められているはずなのに、それは冷たい烙印のように胸を刺したと記されていた。
*
読み進めるうちに、わたくしは胸が締めつけられた。
『なんで いけないのだろう』
『どうして 女だからと 言われるのだろう』
『わたしは 夢を 諦めなくてはいけないのだろうか』
その悲痛な叫びが、インクの黒となって紙に焼き付けられていた。
転生前の社会では、女性も職を持ち、自由に学び、働くことができた。
(この世界では……まだ、その道が閉ざされているのね)
わたくしは、手記を抱きしめることしかできなかった。
*
さらに読み進めると、父が再婚し、エラがわたくしたちの屋敷へ連れてこられた日の記録が現れた。
『あの日から、わたしは 継母さまと 姉妹と暮らすことになった』
物語では“いじめ”と語られる日々。
けれど手記には、怨嗟も恨みもほとんど記されてはいなかった。
ただ淡々と――
『料理。洗濯。掃除。庭の管理。
家の帳簿。お屋敷の備品。
夜は残り仕事をこなして眠る』
とだけ、彼女は綴っていたのだ。
*
やがて手記は、未来への計画へと移り変わる。
『わたしは、王城の“侍女”になる。
舞踏会に参加して、そこで道を拓く』
その行間には、強い決意がにじんでいた。
そして最後の方には――
『ガラスの靴。
わたしは“歴史を塗り替える”ために、これを履く』
──その文字が、ひときわ強い輝きを放っていた。
*
そして、わたくしの心を震わせた最終頁にはこう書かれていた。
『悪魔に誑かされた継母さま。
でも、わたしには その継母さまがいてくれてよかった。
わたしの世界は、すでに変わりはじめているから』
記された日付は……昨日。
わたくしは手記を胸に抱き締め、嗚咽をこらえることができなかった。
◆第五章 お妃候補として◆
舞踏会の夜が明け、屋敷には静けさが戻っていた。
その静寂を破ったのは、ひとりの紳士の来訪だった。
身なりの整ったその男は、格式を示す徽章を胸に掲げ、こう告げたのだ。
『シンデレラ嬢──エラ殿は、王子殿下のお妃候補のひとりに選ばれました』
その言葉に、わたくしは息を呑んだ。
いくら原作を知っていたとしても、目の前で告げられると現実の重みが違う。
*
エラは、わたくしを真っ直ぐに見た。
「義母様。わたし、王子殿下と結婚することになるかもしれません」
その瞳は怯えではなく、確かな覚悟に満ちていた。
十二分に考え、選び取った言葉であることが伝わってくる。
わたくしは自然と、彼女の手を取り、力いっぱい握り返していた。
「……応援しているわ。心から」
その瞬間、エラの顔に浮かんだ安堵の笑みは、忘れがたいほどに清らかだった。
*
やがて、エラは王城へと招かれ、妃教育を受けることになった。
礼儀作法、学問、外交、そして他国の令嬢たちとの交流──。
どれも厳しく、そして苛烈であると聞く。
しかし、彼女から届く手紙には、弱音はほとんど記されていなかった。
『今日も一日、学ぶことができました。
知らないことを知るのは楽しいです。
“女性だから”という壁を越えて、必ず新しい道を切り拓きます』
──その文面に、わたくしは幾度も涙をにじませた。
* * *
数か月後、王城から正式な使者が訪れる。
『エラ嬢は、妃教育の試練をすべて通過なさいました。
王子殿下との結婚が決定いたしました』
その報せに、わたくしは胸が張り裂けそうになった。
喜び。
誇らしさ。
そして、ほんの少しの寂しさ。
それでも、何より強く心に宿ったのは──
(エラ……あなたは、ついに夢へと歩み出したのね)
という、母としての誇りだった。
* * *
婚約を控えたある日。
エラが久方ぶりに屋敷へ戻り、わたくしに告げた。
「これで、わたしの夢に一歩近づきました」
その声は震えていた。
けれど、その震えは恐怖ではなく、喜びに満ちたものだった。
わたくしは、彼女の手を握り返しながら、ただただ頷いた。
「ええ。あなたなら必ず、やり遂げられるわ」
◆第六章 娘たちの未来◆
エラが王城へと向かったあとも、屋敷には変化が訪れていた。
ドリゼラとアナスタシア。
二人の娘が、それぞれに未来を選び取っていったのだ。
*
まず、聡明な姉・ドリゼラは伯爵家の子息に見初められた。
物静かで堅実な青年は次期伯爵と目されている人物。
彼女は第一夫人として迎えられ、持ち前の才知と忍耐をもって家を支えることとなった。
社交界で噂を聞くたび、わたくしは目頭を押さえた。
(あの子が……人のために己を尽くす、立派な婦人へと成長したのね)
*
一方、愛嬌に満ちた妹・アナスタシアは、公爵家の第三夫人として嫁いだ。
最初は驚きを禁じ得なかった。
だが本人はにこやかに言った。
「わたしは第一夫人になる器ではありませんわ。
けれど、誰かを和ませ、潤滑油となるのは得意ですもの。
三人目の夫人という立場が、きっと一番合っているのです」
その明るさに、わたくしは胸が震えた。
彼女なりの選択であり、確かな自己理解だったからだ。
*
二人の娘は、時折時間を見つけて屋敷へ帰ってきた。
そのたびに、近況を報告してくれる。
夫のこと、子どものこと、家のこと。
笑顔を絶やさず語る姿に、わたくしは心がいっぱいになった。
──あぁ、この子たちは、自分の足で人生を歩んでいる。
そう思うと、胸の奥から熱いものが込み上げてきて、涙を抑えることなどできなかった。
*
ドリゼラも、アナスタシアも。
そして王妃となろうとするエラも。
わたくしの愛する三人の娘は、それぞれの道を歩み、光を放っていた。
(母として──これ以上の幸せがあるかしら)
そう呟いたわたくしの声は、暖炉の火に溶けて消えていった。
◆第七章 王妃エラ◆
それから十二年の歳月が流れた。
王子は即位し、新たな国王となった。
そして──エラは王妃となったのである。
* * *
彼女は二人の子に恵まれ、母としての顔も持つようになった。
ある日、珍しくエラがわたくしの屋敷を訪れた。
その瞳は、どこか潤んでいる。
「ようやく……夢が叶いました」
微笑みながらそう告げる彼女の目から、透明な涙がこぼれた。
わたくしは思わず手を伸ばし、娘を抱き締める。
「……あの日、“悪魔に誑かされたお母さま”に会えて、本当に良かった」
エラの言葉は、わたくしの胸に深く刻まれた。
* * *
王妃となったエラは、ただ王の傍らにいるだけではなかった。
彼女は新しい試みを始める。
女性だけで編成した護衛団──その名も《薔薇守護〈ローズガード〉》。
最初は儀式の飾りにすぎなかったが、やがて活動の範囲は広がっていく。
護衛だけでなく、ドレスや靴、装飾品の制作にも携わるようになったのだ。
「女性にとって、それらもまた“戦闘服”なのです」
エラはそう言って笑った。
*
かつて夢に見た、ドレス職人という道。
自らが叶えられなかった夢を、エラは制度という形で未来へと託した。
女性が正式に職業に就くことを認められたのは、歴史上これが初めてのことだった。
わたくしはその報せを聞いたとき、確信した。
(あぁ……。エラの望んでいたのは、この未来だったのね)
*
だが、その幸せは長くは続かなかった。
三人目の子を産む際、エラは命を落としたのである。
三十八歳という若さで──。
穏やかな寝顔は、まるで目を覚ませば再び笑ってくれるように見えた。
わたくしも、ドリゼラも、アナスタシアも。
ただハンカチで顔を覆い、嗚咽を堪えるしかなかった。
王妃として、母として、ひとりの女性として。
彼女は確かに、この国の歴史を変えた。
◆第八章 薔薇守護の黄昏◆
エラの死は、国全体に深い影を落とした。
王妃の庇護を失った《薔薇守護〈ローズガード〉》の女性たちは、たちまち居場所をなくしてしまったのである。
王妃が創り出した未来は──まるで蜃気楼のように、儚く揺らぎ始めていた。
*
彼女たちは王城に仕えていた。
だが、エラ亡き後、幼い王子や姫に守る力はない。
他の姫君や公爵夫人たちも、女性職人を受け入れる余裕はなかった。
職業を優先してきた《薔薇守護》には、家の後ろ盾も、伴侶の庇護もなかったのだ。
結果、多くは路頭に迷うことになった。
*
さらに残酷なことに──。
やがて記録は書き換えられていった。
ドレスを仕立てたマリアンヌは「マリオン」に、
髪飾りを作ったジェーンは「ジャック」に。
女性の名は次々と男名に塗り替えられ、彼女たちの存在そのものが歴史から消されていった。
*
わたくしは居ても立ってもいられず、王城へと乗り込んだ。
王に会わせよと叫んだが、取り次がれたのは末端の記録官だけ。
そこで懇願した。
「名前だけは……どうか、名前だけは残してくださいまし」
だが願いは退けられた。
涙に滲む視界の中で、拳を握り締めることしかできなかった。
*
そのとき、立ち上がったのはアナスタシアだった。
彼女は第一夫人・第二夫人と密かに手を取り合い、秘密裏に《薔薇守護》を守る団体を結成する。
新しい身分と名前を与え、知識と技術を保管し続けたのだ。
「エラお姉さまの未来を、絶やすわけにはいきません」
娘の声は震えていたが、その瞳は確かな光を宿していた。
*
わたくしもまた、エラの遺児を守るために、そして《薔薇守護》を支えるために必死で動いた。
だが、そのとき──。
人生最大の過ちが訪れる。
*
書庫に眠る古い書物を取ろうとしたときだった。
高い棚に手を伸ばすため、わたくしは梯子を掛けた。
誰かを呼べばよかった。
けれど、そのときばかりは焦りが勝ってしまった。
書物を手にした瞬間──視界がぐらりと傾く。
身体が宙に浮き、天井が迫る。
落下の一瞬、わたくしの脳裏には、エラやドリゼラ、アナスタシアと過ごした日々が走馬灯のように蘇っていた。
(あぁ……本当に、驚きと喜びに満ちた時間だったわ)
* * *
気づけば、そこにはエラがいた。
空から微笑み、白い手を差し伸べてくる。
「あの世で、ようやくお話できますね……」
わたくしは、その手をしっかりと握った。
(前世で女性が活躍していた社会のことを、あなたに伝えられるかしら)
(エラ……あなたの望んだ未来は、必ずやって来るわ)
そう胸に刻みながら、わたくしは静かに目を閉じた。
◇エピローグ 薔薇の記録◇
──時は流れた。
エラの遺志を継ぐ者たちは、密やかに、しかし確かに世へと広がっていった。
《薔薇守護〈ローズガード〉》。
表の歴史にその名が残ることはなかった。
だが、彼女たちの存在は、いつの時代にも“影の支え”として息づいていた。
* * *
ある丘の上に、小さな教会が建っている。
古びてはいるが、隅々まで掃き清められたその場所には、一基の石棺が置かれていた。
眠るのは──アナスタシア。
そのドレスの裾から広がる文様には、真紅の薔薇の花弁が三十枚。
それは《薔薇守護》発足時に任命された三十名の女性の象徴であった。
*
彼女の足元には、一足の《ガラスの靴》が置かれていた。
表面は傷だらけで、幾度も時を超えてきたことを物語っている。
一体誰が置いたものなのか──。
その答えを知る者は、すでにどこにもいない。
*
アナスタシアの腕には、一冊の手記が抱かれていた。
それは、彼女が生涯をかけて書き記した《薔薇守護》の記録。
エラの想いを受け取り、継母の涙を受け継ぎ、自らの人生で紡ぎ出した証だった。
ページの隙間から覗く文字には、こう綴られている。
『世界は変わる。
必ず──変わっていく。
私たちが積み重ねた日々は、決して消えない』
* * *
そして、長い年月を経てもなお。
女性たちが職を得て、声を上げ、自由に羽ばたくその未来の裏側には、必ず《薔薇守護》の影があった。
彼女たちの名は歴史に刻まれずとも──
薔薇の花びらのように、静かに、しかし確かに舞い続けていたのである。
(完)
お読みいただきありがとうございました。
この作品はフィクションですが、歴史の影にこのようなお話があったらいいなと執筆いたしました。
もし、不快に感じる表現がありましたら申し訳ございません。
また、誤字脱字等ありましたら、ぜひご連絡ください!
誰かの心に届きましたら幸いです!