水紋
小さな石ころをふっと手から離すと、石は遠く離れていき、やがて水面とぶつかる。すると、同心円状の波紋が衝突点から広がっていく。
小さな瞳はその輝きを見て驚く。そして、もう一度試してみたくなる。
今度は中くらいの石ころを、少し腕を振り上げて水面に叩きつける。すると、水が悲鳴を上げて、白い泡の波が立ち上がる。そしたらすぐに、泡の波は疲れたように水面に倒れ込み、さっきより大きな波紋が広がっていくのだった。
少年はだんだん楽しくなってきて、この感覚を誰かに伝えたくなる。同じく橋の上で虫をつまんだり、しゃがんで石を転がしたり、各々自由にしていた仲間たちに声をやる。小さな友人たちは少年につられ橋の縁縁まで集まってくる。
少年は小さな体に押されながらも、橋の上からまた、石ころを落としてみせる。そして、計画通り、きれいな同心円が再び水面に現れる。同志たちは面白がって、少年は得意な顔をしてみせる。こうして、小さな少年たちは、色んなものを橋の上から落として遊び始める。
だが、やがてみんな飽きてきて、新しい刺激が欲しくなる。けれど、言い出しっぺの少年は、自分の見つけた発見を、こんなに簡単に終わらせたくはなかった。そこで彼は、橋の土台部分の少し剥がれた、アスファルトの塊を見つけて、それを持ち上げて見せた。打製石器みたいに尖った橋の破片は、少年たちの目の輝きを受けて、黒っぽく光っていた。そして、少年は破片を宙に放おった。
少年たちは体を乗り出して、破片の行き先をじっと見つめる。破片はスローモーションのように体を捻らしながら落ちていき、やがて水面とぶつかったように思われたが、少年たちには水しぶきを上げる音と同時に、何か硬いものがぶつかったような、鈍い音が聞こえた。彼らは違和感を覚え、白い泡の塊をじっと、少し緊張しながら見つめた。
泡がだんだん消えていくと。何か黒く丸いものが見えた。そして少年たちのうち一人が気がついた。
「あれ、人だ。」
その日、静かな小川に、赤い同心円状の波紋が広がった。
少年は不幸な少年だった。
その日、川上で溺れた小さな子供が流され、少年たちが石を落として楽しんだ白い橋の下までたどり着いた。だが、少年たちは川の中の子供の存在に気が付かず、偶然にもその息の根を留めてしまった。
少年の落とした尖ったアスファルトの欠片が、流された子供の頭部に直撃したのだった。
そして、少年の目には水を飲み、溺れ苦しむ少年の頭に、尖った岩が突き刺さる映像が焼き付けられたのだった。
やがて時は経ち、少年は今や大人になった。大学を出て会社に入り、まっとうな人生を送っていたが、彼の頭からあの映像が消えることはなかった。赤い同心円の中心に吸い込まれて行くアスファルトの欠片。声にもならない悲鳴。
彼はあの光景を時々思い出しては、ズキンと頭に痛みが走るのだった。
そしてある休日の昼間、彼は家の畳に寝転んで、スマホさえ見ないでボーッとしていたのだった。時は刻々と過ぎていき、やがて雨が降り出した。
「あの日の午後も雨が降っていたな。」
彼はぽつんとつぶやく。
だんだん雨が激しくなっていき、雷も鳴り始めた。
けれど、彼は網戸を閉めることさえせず、横たわって斜めに降っている雨を、ジッーと見つめていた。
すると突然、ゴツっという鈍い音が空から聞こえてきた。
彼は聞き慣れないが、頭の中で何度も聞き直したあの音に、畳から飛び上がった。そして、止まらない冷や汗が垂れ下がっていくのを感じながら、恐る恐る窓から外をのぞいた。
だが、そこには何もなかった。だが、彼は妙な恐怖に襲われて、安心出来なかった。そこで、傘を取り出して外に出ていき、家の前の道路に立った。
けれどやはり、そこには人も、動物も、何もなかった。少し安心して、ふと下を向くとその時、彼は気がついた。
水たまりに雨粒が落ちてできる同心円状の水紋に。彼は思わず声を上げた。
無数の水紋が足元を覆い、だんだん赤く滲んでいく。彼は後退りした。
水紋はだんだんと赤くなっていき、水たまりも真っ赤に染まっていた。
「そんな、まさか…」
男は呆然として、ゆっくりと空を見上げた。空は雨が降っているのにも関わらず、なぜか快晴の青空だった。
あっ。
突然、彼の見上げる空に同心円状の波紋が現れた。
男はひたすら空を見上げていた。すると、何か黒く尖ったものが、同心円の中心から解き放たれたように近づいてきた。
そして、男は避けることすらせず、アスファルトの破片は男の額に突き刺さった。
額は割れるように傷み、赤い血が頬から首へと伝っていくのを感じる。
だが、男は悲鳴一つ上げず、空を見あげた姿勢で静止していた。すると、だんだんと聞き覚えのある無数の声が聞こえてきた。若い子どもたちの無邪気な声だ。声はだんだん大きくなっていき、雨の音さえ聞こえなくなった。音は激しく、耳が痛むほど大きくなってきて、ついに男は耐えられなくなった。
「やめてくれっ、頼む。もう、やめてくれ!」
キーンと耳をつんざく悲鳴とともに、ふっと音は止んだ。叫び声と同時に雨の音も止み、不思議な静寂が男に訪れた。
やがて、男は意識を失い。すっと倒れてしまった。その途中、男は彼の前に立つ、小さな少年の顔を見たような気がした。その少年は全身がびしょびしょで、頭からは血を流して、笑っているのか泣いているのか、怒っているのか分からない、奇妙な表情をしていた。
気がつくと男は病院にいた。
白く簡易的なベットの上で横たわり、目の前には数人の看護婦が立って、前列の患者の診察をしていた。
「あっ、吉永さん。」
一人の看護師が男に気がついて声をかけてきた。
「目が覚めたんですね。あなた突然意識を失って、1週間も意識不明だったんですよ。」
その後、看護師に連れられて、白衣を着た医者がやってきて、彼に容態を説明した。どうやら、重度の熱中症になり、畳の上で意識不明になっていたらしい。
「それでは、しばらく安静にしておいてください。」
そう言って、医師は病室を去っていった。きっと、医師と看護師は、意識不明な状態が続いていたから、男が無口なように見えただろう。けれど、男の意識ははっきりしていた。自分の身に何が起こったのかも理解していた。けれど、男はベットの脇に置かれた緑茶が気になって仕方がなかった。
渋い陶器のコップに入れられた緑茶が、少しの振動で揺れ、同心円状の波紋を作り出す。だが、男はそれを見ても何とも思わなかった。
そして、ふと病室の窓をみると、窓辺に座る少年の姿が目に入った。
相変わらず服はビシャビシャで、頭からは血を流している。しかし、変わった点が一つだけあった。男は彼の表情の意味をはっきりとりかいしていたのだ。
笑っていなければ、泣いてもいなければ怒ってもいない。
何も思ってはいなかったのだ。
少年は男をじっと見つめていた。