君の最期を奪わせない
「ねぇ、約束をしようよ」
そう、夕陽が射しこむ校舎の中で微笑んだ友人がいた。
「君としたい、約束があるんだ」
彼女はいったい何を見ていたのだろう。
黒板に書かれた〈卒業おめでとう〉
もうすっかり終わってしまった部活の送別会。
最後にと戻ってきた教室の中で、友人と私は席につき、もう明日からは見ることができない光景を目に焼き付けていたはずだった。
彼女はいつから違うものを見ていたのだろう。彼女はいつから、私の友人でいてくれたんだろう。
何も答えられない私は、彼女を視界の中心に置き、影が濃くなる様を記憶した。
***
この世界には「バグ」が存在している。
どこから湧いてきたかも分からない。ある日突然、まるでずっと昔からそこに存在していたかのように「バグ」は現れた。
「聞いた? 体育学部の二年生がバグにやられたんだって」
「えぇ……その人どこに住んでたの? 学校近く? 絶対バグにあいたくないのに」
「大学最寄りから、二つ隣の駅だって」
大学のカフェテリア。授業で疲れた脳みそを、自販機の甘い紅茶で癒す時間。私の後ろを通った綺麗な女の子達の会話が耳を抜けていった。
バグとは、文字通りバグ。生活している中、突然宙に亀裂が入り、黒いドットの集合体で構成された生物が現れる。
バグは目の前にいた人間を丸呑みにし、すぐに亀裂に戻るのが習性。呑まれた者は戻ってこない。バグがどこに現れるかも不規則すぎて、頭がいい筈の研究者達も匙を投げた。
遭遇したら終わり。善人も悪人も、一般人も犯罪者も、子どもも大人も関係ない。バグはランダムに世界を蝕み、人を減らしてどこかに去る。
最初にバグが現れた頃は警察や自衛隊の特別部隊などが編成されたそうだ。しかし、バグは砲撃や銃弾を浴びながら亀裂に戻ってしまう為、呑まれた者を救う手立てはなかったそうだ。倒せないし救えない。正義のヒーローも愛を掲げる戦隊も現れない。亀裂の向こうにある景色を知る者もいない。
雀の涙ほどの抵抗として許されたのは、バグに向けた暴行。出会ったら自分で我が身を守ってください。その為に武器を携帯することを許します。どんな武器が効くか、分からないけどね。という、安全を放り出された許可だ。
インターネットでは毎週のように「バグに効く! 有用な最新武器」などの動画が投稿され、情報が飽和している。再生回数が取れない訳がないネタ。だってみんな死にたくない。だから些細な情報に縋って、自分は今日も呑まれなかったと安堵して、このままバグとは遭遇しない人生なのではないかと、たまに気を抜く。
子どもは親に言われるまま武器を持ち、それでクラスメイトを傷つければまた問題に。この世はバグだけが悪ではない。普通に生活しているだけで感情は揺れ動くのに、身を守る為の武器を許されてしまえば、治安の維持も容易ではない。
ギリギリの所で保たれているこの世界。隣にいる者は武器を持っている。相手の機嫌を損ねたら、自分に害が及ぶかも。人の理性は壊れやすい。なんて、みんな心配しながらコミュニケーションを取っているのではなかろうか。あらゆる人道的な理由でリモートでの仕事や講義が増えているが、その奥には怯えた人間の心理が隠されている気がしてならない。
「やぁ」
空になった紅茶のペットボトル。そのラベルを撫でていれば、私の視界に影がさした。顔を真上に向ければ、黒い毛先がカーテンのように私を覆う。
「お待たせ」
彼女は同じ高校から進学してきた同級生。高校は三年間クラスが一緒で、出席番号では近い席になる関係から、友人のような、そうでもないような、淡い関係を続けている。
「待ってる間に休憩できた」
「なら良かった」
笑った彼女の動きに合わせ、黒い毛先が私の頬を撫でる。シャンプーの香りは高校生の頃から変わっていない。大学入学当初は毛先を巻いたりしていたが、今はストレートに戻っている。その方が合ってると私も思うよ。
黒い両目が私を映す。何を考えているか分からない目だ。お化粧を始めたから前よりも大きくなった気もするが、彼女は元々目が大きいから気のせいかもしれない。桜色のラメが入ったアイシャドウはお似合いである。
薄付きのリップに彩られた唇は、茶化す声色を私に落とした。
「早くお店に行こうよ。期間限定のドリンクが無くなっちゃう」
「君が顔を退けてくれないと、席から立てないよ」
「知ってる」
「お店に行く気ある?」
「あるから会いに来たんだよ」
顔を退けた彼女に息を吐き、立ち上がった私はペットボトルを捨てた。
よく分からない、ゆるゆるとしたノリを交わすのが私達。学科は違う。たまに連絡を取り合って、だらだらと日程を決めて、たまに出かける。そんな関係。
友達だとか、親友だとか、そんな名前を貼れる程の関係ではないと思う。私は彼女が何を考えているか分からないし、彼女も私に深入りしてこない。上辺をなぞるような会話をして、中身のない話で小突き合い、解散した後は思い出さない。
気が合うわけでもない。趣味が同じでもない。サークルも違う。高校時代に絡んでいたグループも違うし、休みの日に予定を合わせて出かけたこともない。
それでも繋がっている、よく分からない子。日直が一緒だった。放課後の教室が好きだった。気づけば連絡先だけは手の中に登録されていた。
彼女を友達と呼ぶには、遠すぎる。
隣にいるのに彼女が分からない。次に何と言うかも予想できない。今日行く予定のお店では期間限定のドリンクが数種類でているはずだが、この子がどれを選ぶのかなんて知りもしない。
「ドリンクさ、買ったら店内で飲む?」
「バイトは?」
「今日は休み」
ほら、私は、彼女のバイトの予定だって知らないんだから。
微笑む彼女を横目に、私は鞄を肩にかけ直した。
「そっか、なら店内で、」
ふと、影がさす。
最寄り駅に行く道中。少しの近道。人通りのない場所で。
太陽は照っている。鼻腔をあの子のシャンプーの香りが撫でる。
言葉を止めた私が見たのは、黒いバグ。
道路脇の塀に亀裂を生み、裂いた空間から大口を開けて飛び出した生物。
黒いドットで構成された体は光を吸い込み、開けた口には歯がない。深い赤色の口内だけが、ぬめりを見せていた。
そこから伸びた舌が、あの子の体を腕ごと巻いた。
「あ、」
見開かれたあの子の目は宙を見ている。バグが現れたと、判断が追いついていない。
私だって追いついていない。目の前で突如起こった事象に呼吸が止まり、恐ろしい程ゆっくりと進む景色に体が動かない。
『ねぇ』
あの子の足が浮いた。
『約束をしようよ』
私の表皮が泡立った。
『君としたい、約束があるんだ』
脳裏を過ぎたのは、卒業式の日の約束。
私と彼女が交わした、ただ一つのこと。
私と彼女を繋ぎとめる、たった一つの、大事な言葉。
彼女の体がバグに呑まれた瞬間、私は、鞄から鉈を取り出した。
亀裂に帰るバグに向かって掴みかかる。絡まって転びそうだった足を前に出し、地面を蹴って飛び上がり。一つのドットを渾身の力で掴んだ瞬間、目の前の真っ黒な顔に刃を叩き込んだ。
暴れたバグに振り落とされそうだが、私はドットを離さない。顔を振り回すバグは亀裂の中へ逃げ帰り、今一度私は、鉈を叩きつけた。
私と彼女が先程までいた道路が、亀裂の向こうの景色へ変わり、すぐに世界が遮断される。
バグが帰ったのは真っ白な空間。空も無ければ地面も無い。壁が無ければ床も無い。ただの白。どこまでも広がる空間にはバグが点在しており、たまに裂けた空間から外の景色が見えた。
ゆるりと動くバグ達の中で、私の動きだけが異常に揺れる。暴れるバグの顔にしがみつき、歯を食いしばって、刃でドットを削っているのだから。
奥歯が鳴っている。前髪が目元をかすって痛い。暴れる遠心力で体の真ん中が後ろへ引き飛びそうになり、鉈が指先から滑りそうにもなって、それでも我武者羅に力を込めた。
絶対に離さない。絶対に負けてやらない。
遠くで木霊している叫びは、おそらく私の声なのだろう。怯える体を奮い立たせて、警察も自衛隊も敵わなかった化け物に一人で鉈を振り続けているのだ。気がおかしくなったって仕方がない。
誰も入り込んだことがない世界。生きた人間は、きっといない場所。そこで理性を放棄した私は、あの子を呑んだバグを斬りつける。
テストで良い点を取った時、小声で報告してくれた彼女。そういうのはいつも一緒にいる子に言わないんだって思った。
ニコニコ笑うけど口数が少ない彼女は、たまに私の手を引いた。校舎裏に座り込んだ彼女の横にどうして私が座らされているのか分からなかった。
彼女と帰る時間が被った日、アイスを買い食いした。新味のアイスが口に合わなかったらしく、私のと交換したいと言われた時は呆れたものだ。
他愛無い記憶が彼女と私の過去を構成している。友達にしては遠すぎる。でも、他人にするには近すぎる。
そんな彼女に提案された、たった一つの約束が、私を化け物と戦わせている。
ドットが一つ砕けた。次に一つ剥げた。また一つ落ちた。同時に、私の額から玉の汗が滴った。
『約束をしようよ』
あぁ、分かってる、分かってるから、ちょっと黙ってろ。
『君としたい』
聞こえてるよ、覚えてるよ、だからそこで待ってろよ。
『約束があるんだ』
酷い約束を取り付けやがって。
酷い呪いをかけやがって。
私が、その約束を破れないと知っていたのか。分かって言ったのか。だから私を選んだのか。
友達にしては遠すぎる。他人にしては近すぎる。遠ざけるには知りすぎた。隣に立つには知らなすぎる。
なんて曖昧。なんて不確か。けど、その関係でよかった。それ以上も以下もない。後退も進展もない、停滞した関係。空気が入れ替わらない部屋に閉じ込められた、私達。
互いに違う人と違う部屋を持っている。違う関係を築いている。でも、どうしても通うことをやめられなかった、時の止まった部屋。
君はこの約束を、他の人ともしているのかもしれない。けれどそれを聞き出す勇気もなければ、もう確かめる術もない。
それでいい。君との約束の時が来た。その瞬間に隣にいたのは私なのだ。
ならば私は約束を果たす。君がくれた呪いに、従順に。
バグの口が開いた。しかしその中にあの子は見えない。ならばきっと、既に、腹の中。
だから私は斬り続ける。言葉にならない奇声を上げて、化け物の上で、より化け物のような動きをする。
時と共に、バグの体から力が抜けた。
倒れ込んだバグの周りには黒いドットが散乱し、私の喉が痛みを感じる。叫んだせいか、息が上がり過ぎたせいか。分からないけど喉が痛い。
鉈が刃こぼれしている。今まで使う機会なんて一度もなかった。初めて使った今日、その刃が砕いた一匹の化け物。
腕を掲げて鉈を見上げる。たまに外と繋がった隙間から光が差し込み、飲み込まれた悲鳴と共に光も失せる。
一瞬の輝きを帯びる鉈は、まだ使えそうだ。
倒れたバグに近づいた私は、重たくて堪らない口を開けさせ、口角に刃を添えた。
全体重をかけてバグを捌いていく。
唯一柔らかな口内を筆頭に、口を裂いて、頭を傾かせ、ドットを剥ぎながら横腹を開く。
透明な粘膜を纏った赤。
その隙間からこぼれた、見知った手。
鉈を捨てた私はその手を掴み、両手で思い切り引っ張った。
粘膜に触れた掌が、ぐずぐずと溶かされていくと分かる。見知った手も原型を留めていたはずなのに、ずるりと滑り、皮膚の下の筋肉が微かに見えた。
熱い痛みが掌を通して私の体を震わせる。粘膜が私の皮を溶かして、醜い内側を暴こうとしている。
でも、ここには誰もいない。化け物は私達を見ない。私を見ない。遠い外にいる他人を狙って、同族を斬り殺した女になんて興味無い。
だから、私は、腕を引く。
彼女の腕を引いて、溶けて千切た衣服や皮膚を気にせず、抜けた髪を気にせず、目を開けたまま融解してしまった顔も気にせずに。
彼女の肉体が白い地面に転がる。生前の彼女からは想像できない痛ましい姿を、私は網膜に焼き付けた。
〈卒業おめでとう〉の文字が脳裏で揺れる。
微笑んでいた彼女の姿が、目の前の亡骸に上書きされる。
『ねぇ、約束をしようよ』
息を吐いた私の肩が下がる。彼女を中心に広がる粘膜を踏めば、靴の裏がしゅわしゅわと溶けていく気配がした。
『君としたい、約束があるんだ』
膝をつく。私の足が、粘膜に触れて、侵食される。引き攣る痛みは、しかし、私の意識を彼女から逸らすには至らなかった。
「約束、守ったよ」
生前は触れることが出来なかった彼女の黒髪に指を通し、ずるりと抜ける。
白く濁った目を閉じてやろうと瞼に触れれば、溶けた皮膚が落ち、崩れてしまった眼球が顕になった。
私の口角が、緩く上がる。
脳内では、夕陽を浴びる友人が笑っていた。
『私が死んだら、君が一番に死体を見つけてよ』
何を考えているか分からない子。私よりも仲のいい子なんて、沢山いるだろうに。
友達にしては遠すぎる。他人にしては近すぎる。停滞してしまった私達。
『君が死んだら、その死体は私が一番に見つけてあげるからさ』
「……君は約束、守らないのな」
私の死体を、君は一番に見られない。君はもう何も見ない。
それでもいいか。私は君との約束を果たして、この先、君の出来たての死を見る他人はいないんだから。
私だけが見た、君の死体。
君の最期。これは誰にも覆せない。絶対的な真実。
「飲み物、けっこう楽しみにしてたんだけどなぁ」
誰も答えない空間で、私は、彼女の隣に寝転んだ。
これは彼女のハッピーエンド。
彼女だけの、ハッピーエンド。
約束が呪いになっていた話。
彼女を見つけてくださって、ありがとうございました。
藍ねず