エルミート / あなたへ
エルミート - Hermite
1
ひとしきりに泣いたあとでエルミートは鍵やら財布やら煙草やらをそこまで大きくないポケットに突っ込んで海の底から息継ぎを求めて浮上するように家を出た。
それからコンビニで適当な飲み物を買って、彼の唯一の居場所だった公園のベンチに座った。
「ふぅ、すぅ、ふぅ、すぅ」
エルミートは呼吸ができなかった。減っていく時間、明日を覆い隠す後悔、他人の笑顔、そして自分自身への嫌悪。何もかもが彼の周囲の酸素を奪い続けた。
それでも彼は、ある公園の壊れた街灯の下のベンチでは息ができた。
ゆっくりと肺を満たしていた鬱屈を吐き出して、また深く息を吸った。そうやって彼は呼吸をして、不幸を咀嚼した。
もう取り返しのつかないほどの暗闇に落ちてしまったと、彼自身はそう強く思っていたから、残りの人生をどう生きればいいかわからなかった。
エルミートはそう思ってまた、すこし息苦しくなった。
2
エルミートが壊れた街灯のベンチを選んだのは、人間としては不良品な自分自身とそれを同一視したからだ。その街灯の電灯部は抜き取られていてすっからかんで、まるで心が抜けてしまった僕みたいだ、とエルミートは思っていた。
街灯。それは照らすためのものなのに、彼にじっと寄り添う街灯はその責務を果たすことはできない。
人生。それは幸せのためのものなのに、街灯にもたれ掛かる人生は惰性で不幸を生きている。
でも、ただこの瞬間は、街灯は不幸な人生に唯一の居場所を作り、エルミートは心地よい暗闇を愛していた。
彼らが入れ替わっても、きっと誰も気づかないだろうけれど、彼らにとってお互いは何よりも大切な友人だった。
彼は、壊れた街灯が暗く照らす闇の中でゆっくりと、そして確かに呼吸をしていた。
街灯は、抜け殻のような身体をただ見守って、それでいて何も言わず佇んでいた。
3
エルミートは目を瞑った。違和感を覚えた。目を開いた。
「そう、君は。」
壊れた街灯が彼を照らしていた。
「君は僕にそれを見せたかったんだ。」
それは月明りだった。街灯の中で三日月が僕を照らしていた。
そしてそれは、まるで三日月が街灯の電球になったようだった。
「あはは、それって君にしかできないよね。」
そういってエルミートは少し笑った。
自然な呼吸をした。
「なあ、僕はこれからどう生きていけばいいのかな。」
エルミートの瞳はガラス玉のように澄んでいて、三日月と彼の友人を綺麗に映した。
「なんて、君が答えるわけないよな。」
そういってまたエルミートは少し笑った。
自然な呼吸をした。
4
「明日も生きてみるよ。」
街灯はただひたすらにやさしい月光を湛えていて、彼の友人を綺麗に照らした。
「安心してよ。明後日も明々後日も同じことさ。こんな僕にしか描けない世界だってきっとあるだろうからさ。」
エルミートは立ち上がって、街灯に触れて心細い声で言った。
「怖いよ。当たり前だ。きっと明日からも暗闇の中を歩いていかなきゃならない。」
エルミートは街灯に触れたまま、顔を上げて明るい声で言った。
「でも、君が見せてくれたみたいに僕なりに世界を照らしてみたいんだ。」
それからエルミートは少しうつむいて自分に言い聞かせるように、
「大丈夫だよね、きっと、大丈夫。」
「■■■■■。」
彼ははっと顔を上げて数秒、そして微笑んで、
「まさか、君が答えるわけないよな。」
そう嬉しそうに言って公園を後にした。
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あなたへ - For you
残念なことに、世界は思っているほど優しくはなくて。
どれだけつらいことがあっても、それが「負けイベント」みたいなものだなんてこともなくて。
変わらず僕たちは闇夜の中をふらふらと歩いていかなければならないみたいです。
「きっといいことあるよ」なんて無責任に言えませんよ。
だって僕だって今は暗闇の中にいますから。
それに、もし僕にいいことがあったとして、それがあなたに同様に訪れるなんて主張に根拠はないですし。
今、あなたは、
夢の遠さに打ちひしがれて絶望しているかもしれない
孤独に苛まれてひとりで泣いているかもしれない
忘れられぬ後悔が足に纏わりついて立ち止まっているかもしれない
不明瞭な未来が恐ろしくて逃げ出したくなっているかもしれない
自分の心の汚さを許せず自分を傷つけているかもしれない
人生が未処理のごみのように思えて、いっそ捨ててしまおうと思っているかもしれない
その不幸の感覚を他人が真に理解することなんてできないし、
誰かがあなたを何もかもから救い出すこともまた、きっとできないと思います。
僕のような創作者にできることは極めて矮小です。
どんなに絵を描いても、どんなに詩を書いても、どんなに音を奏でても。
それは一時的にあなたを救う程度のことしかできないでしょう。
いや、そんなことすらできないかもしれませんね、僕はまだまだですから。
でもやはり僕たちは生きていかねばなりませんから。
互いに言葉をかけるくらいのことはできるでしょう。
そう、たとえば。
『大丈夫だよね、きっと、大丈夫。』
そう自分に言い聞かせて、前に進もうとしている誰かの背中を押すことくらいなら。
ほら、そこで泣き腫らした目をした青い髪の彼に。
「大丈夫だよ。」
彼をよく知らない僕の代わりに
そう言ってあげてくれると嬉しいです。
そうですね、もしよろしければ。
大丈夫だよ。
そうあなたの声を彼に聞かせてあげたいですから。
どんな方法でも構わないので僕にあなたの言葉で聞かせてください。
例えば、水色の鳥がかつてさえずっていた森に立つ僕の郵便受けとか。
わざわざ言わなくてもわかるでしょう、あの場所に今つけられている名前は詩的じゃないから口に出したくないんですよ。
大丈夫だよ。
ただその一言でいいですから。
どうか、気が向いたら。
最後に、ここまで読んでくれてありがとう。
愛しています。また次の世界で会いましょう。
それと、私はいつもそばにいますから、どうか心ゆくまで。
『街灯、三日月、夜跨ぎ』