オカワリサマ
「お前はここを継ぐけ、ええ加減オカワリさまのお世話の仕方を教えとかんとね」
祖母が真理を案内したのは、昼なお薄暗く陰湿な日本家屋の奥。
両親が離婚の話し合いをしている間、小学生の真理は父方の祖母の屋敷に預けられていた。
祖母は厳格な人物で、子供心に近寄りがたさを感じていたが、それ以上に真理はこの屋敷の雰囲気が苦手だった。
「おばあちゃん、私おうちへ帰るよ」
「先のことはどうなるかわかりゃせん。友泰もなんじゃい、よりにもよって性悪を選んで。私にゃ最初からわかっとったよ、お前の母親は育ちがよくないって。だから浮気なんぞするんじゃ」
「オカワリ様って?」
母への中傷を質問で遮れば、白目が濁った三白眼がぎょろりと動く。
「オカワリ様はな、うちの守り神じゃよ」
飴色の光沢帯びた床板を軽く軋ませながら、祖母は突拍子もない話を語り始める。
「大同家は三百年続く旧家で昔はここら一帯を治める庄屋じゃった。オカワリ様は大同家が座敷牢で飼っとる神様じゃ」
「飼ってるの?祭ってるんじゃないの?」
真理は無邪気に聞き返す。
神様といえば、神社やお寺に祭られている有り難い存在だ。「飼っている」という表現は不敬ではないか。
祖母が仏頂面で呟く。
「今にわかる」
納戸の奥には木製の格子で区切られた、座敷と板の間を折半した空間があった。
「座敷牢じゃよ」
「なにそれ」
「一族から出た狂人や、世間様に顔向けできない恥さらしを閉じ込めておく場所じゃ。早い話身内用の牢屋じゃの。明治までなら少しデカい屋敷にゃどこでもあった」
そこで言葉を切り、因業な目付きで真理の横顔を一瞥。
「時代が時代ならお前の母親も入っとったでな」
「っ……」
大粒の涙をためて項垂れた時、格子の向こうに転がる空の茶碗が目に入る。
せいぜい二畳程度しかない空間に茶碗だけが転がる光景は、なんとも侘しく場違いだ。
「あれ……」
怪訝そうに指さす真理を無視、格子の隙間に手を入れて茶碗を取り出す祖母。
「これにご飯を盛ってき」
「えっ」
有無を言わせぬ剣幕に押されて茶碗を受け取ってしまってから、おずおずと確認をとる。
「台所の?炊飯器の中に入ってるご飯でいいの?」
「お前は馬鹿か」
祖母が毒々しい口ぶりで罵り、矢継ぎ早に指図する。
「台所の神棚に上げてある冷や飯じゃ、それを茶碗に移して持ってこい」
「このお茶碗汚いよ、端っこ欠けてるし。洗ってから移すの?最初からわけてあるんならそっちと交換すれば済む話じゃ」
納得いかない真理がさらに続けようとすると、頬に鋭い痛みが炸裂する。祖母に平手打ちをお見舞いされたのだ。
「はよ行かんか愚図!」
理不尽な叱責。真理は涙が零れないように、茶碗を胸に抱いてその場を走り去る。
祖母が「あの女に似て頭が悪い」と謗る声が背中に被さる。
泣きたいのを堪えて台所へ行き、神棚の下に踏み台を移動させ、茶碗から茶碗へご飯を移し替える。
「よいしょ」
大急ぎで駆け戻ると、祖母は座敷牢の正面に仁王立ちしていた。
等間隔に嵌まる木格子に背中を付け、三白眼を剣呑に光らす姿は、まるで何かを見張っているようだ。
「持ってきたよおばあちゃん」
祖母は礼も言わず欠けた茶碗を受け取るや、それを格子の隙間に突っこんで床に直接おく。
「これでしまいじゃ。あとは週に一度見にくればええ」
「見に来てどうするの」
「同じ事のくり返しじゃ。からっぽになってたら取り替える。台所に冷や飯が用意してあるから、必ずそっちをよそるんじゃ。よそったらまた持ってきて中に入れる、延々同じ事のくり返しじゃ。ええか、必ず冷や飯じゃぞ。神棚にあるのじゃぞ」
「待って、からっぽになってたらって……誰が食べるの?」
「オカワリ様じゃよ」
真理は気味が悪くなる。木製の格子の向こうには二畳程度の板敷きの間があるだけで、他はからっぽだ。粗末な茶碗の他には家具や調度すら見当たらない。
「だれもいないよ……」
「当たり前じゃ。俗な人間に易々と神が見えてたまるか」
意見を唱える真理に居丈高に切り返す。
祖母曰く、座敷牢にはオカワリ様がいる。
真理の仕事はオカワリ様が空にした茶碗に冷や飯をよそる事。
「なんで冷たいご飯なの?あたたかいほうがおいしいのに。それにお箸もないよ」
「勘違いさせんためじゃ」
祖母は意味深にほのめかし、格子越しの虚空に目をこらす。
「守り神は祟り神にもなる。上手く手懐けられているうちはいいが、一度頭に乗らせてしまえば恐ろしい災いが待ち受ける。尽くして尽くして尽くし尽くす、冷や飯食いが分相応だと骨の髄までわからせとくんじゃ」
祖母と真理の会話の間、欠けた茶碗はポツンと板の間におかれていた。
祖母は所在なげに立ち尽くす真理をひと睨み、恐ろしい形相で念を押す。
「ええか。オカワリ様のおかわりにゃ絶対こたえちゃならんぞ」
以降、オカワリ様のお世話が真理の日課になった。
とはいえ仕事はそう多くない。
週に一度座敷牢を見に行き、茶碗が空になってたら冷や飯をよそるだけでいい。
何故誰もいないのに茶碗が空になってるかは謎だが、深く考えるのはやめにした。悩んでも解決しないし、考えるほど怖くなるだけだ。何かするたび祖母に叱られ、肩身が狭い思いをしてきた真理は、言われたままに体を動かす習慣が身に付いてしまっていた。
オカワリ様のお世話が日課になり、だんだん怖さが薄れていくと、子どもらしい好奇心がもたげてきた。
「オカワリ様はキレイに食べるね」
オカワリ様のお茶碗には米が一粒も付いてない。
感心して独り言を呟けば、みし、と床が軋む。
「ひっ!?」
隙間にさしいれた手から茶碗を落っことす真理。
床の軋み音は格子越しの板の間から響いてきた。子供が足踏みしているような音。
「……今の、お返事?」
一瞬の恐怖が萎むと、かえって親しみが沸き上がる。
「本当にいたんだ。おばあちゃんの言ってたこと嘘じゃなかった」
週に一度来る度お茶碗は空っぽになっていたが、猫がこっそり忍び込んで食べたのかもしれないと疑っていた真理は、格子を掴んで生き生き身を乗り出す。
「私へのお返事ならもっかい床を鳴らして」
真理が疑い深げにせがめば、みし、と床が軋む。
「やっぱり、言葉もわかるのね」
体の奥底から興奮が沸き上がる。
人ならざる存在と交信できた喜びと驚きが完全に恐怖を吹き飛ばし、一気にオカワリ様に親近感が湧く。
「オカワリ様、ご飯だよ」
みし。
「キレイに食べたね」
みし。
「なんで私がいる時は食べてくれないの。恥ずかしいの」
みし。
「はいなら一回、いいえなら二回床を鳴らして。私が見てる前でご飯を食べるのはいや?」
みし。
「残念、オカワリ様が食べるところ見たかったなあ。ねえねえ、オカワリ様ってどんな姿してるの?おばあちゃんは俗な人間には見えないって言ってたけど、ひょっとして角が生えてたり目がたくさんあったりするの」
みし……みし。
「違うのかあ。あ、もしかしてだけど私とおんなじくらいの子供だったりするのかな。足踏みの音がね、私が廊下を歩く時の音とよく似てるの」
みし。
「あたり?なあんだそっかあ、そうなんだ。オカワリ様も私とおなじなんだね」
私と同じ、おばあちゃんに忌み嫌われるのけもの。
冷や飯食いの居候。
「私たちちょっと似てるね、オカワリ様」
みし。
「友達になれるかもね」
みし。
数週間が経過する頃には、真理は自ら進んで座敷牢に通い詰めていた。
ひとりぽっちの真理にとって、姿が見えず声も聞こえないオカワリ様は唯一の理解者だったのだ。
「お父さんもお母さんも全然むかえにこない」
みし。
「この頃は電話もくれないし……私のこと忘れちゃったのかな」
みし、みし。
「オカワリ様はやさしいね」
みし。
「ずっとおばあちゃんちの子なんてやだよ……」
座敷牢の格子に寄りかかり、すっかり塞ぎ込んで膝を抱える。
祖母は相変わらず孫に冷たい。
箸の持ち方が間違っている、背中が曲がっていると、食事中に手の甲を打たれる事もしばしばだ。
人知れず涙を拭った真理は、自分の本来の仕事を思い出し、板の間に倒れた茶碗を回収しようとする。
「……」
格子の間に手を突っ込んだまま、束の間考え込む。
「……お箸がないと食べにくいよね」
みし。
オカワリ様の姿は見えない。
見えないけれど、床を踏み鳴らして存在を教えてくれる。はいといいえで意思疎通できるし、真理が辛い時はそっと寄り添ってくれる。
オカワリ様に恩返しがしたい気持ちと、少しばかり祖母を出し抜きたい気持ちがせめぎあい、真理は禁を破った。
台所に行って冷や飯をよそるまでは毎回同じ、今日は戸棚の抽斗を開け、使われていない箸を添えて持っていく。
「召し上がれ」
澄ましこんで正座、冷や飯を盛り付けた茶碗とお箸をままごとの延長の所作で差し入れる。
今日こそはオカワリ様が食べる瞬間を見れるかもしれない。
わくわくと見守る真理をよそに、しばらくは変化が起きず、退屈な時間が流れる。
痺れを切らしたその時―
「あっ」
真理が見ている前でお箸が虚空に浮かび、ご飯のてっぺんに真っ直ぐ突き刺さったのだ。
「すごーい」
手を叩いてはしゃぐ真理。
それからしばらく待ってはみたものの変化は起きず、諦めて退散した三日後に覗きに来ると茶碗はからっぽになっていた。
「早くなってる……」
『頭に乗らすんじゃないよ』
祖母の意地悪い脅しが甦るも、真理は激しく首を振って漠然とした不安を打ち消す。
一回禁を破れば二回目は簡単だ。
真理はさしたる抵抗も感じず祖母との約束を反故にし、神棚のご飯をレンジでチンして盛り付け、茶碗も自分のお小遣いで買った新しいのと取り換えた。
「おばあちゃんが引退してくれてよかった、オカワリ様と好きなだけおしゃべりできるもん。ねえご飯おいしい?新しいお茶碗気に入った?カワイイでしょ、桜の花びらが付いてるの。今度はおかずもってきてあげるね、白いご飯だけじゃたりないでしょ」
真理はオカワリ様の世話に喜びを見出していた。
オカワリ様は真理を必要としてくれる、頼ってくれる。
真理が何かを差し入れするたびに床を踏み鳴らし、最近では格子をひっかいて喜びを伝えてくれる。
相変わらず姿は見えないけど真理にはわかる、オカワリ様はとっても喜んでくれている、真理が差し入れした豪華な朱塗りのお箸も桜の花びら柄の綺麗なお茶碗も真っ白であったかいご飯も全部全部全部……
モットチョウダイ。
オカワリチョウダイ。
両親に捨てられ祖母にも邪険にされる日々の中、真理は次第にオカワリ様に依存し、その世話に身を捧げるようになっていった。
大丈夫、絶対ばれない。
高齢の祖母は少食で、真理も祖母と向き合っていると食事が喉を通らず、炊飯器には常にご飯が余っている。
「神棚のご飯じゃないけどだいじょうぶだよね」
みし、と床が鳴る。
オカワリ様が格子をカリカリひっかいて催促する。
一週間に一度の往復が三日に一度になり、やがては一日ごとになる。
学校に行ってない時間はずっと座敷牢に入り浸り、オカワリ様とみしみしおしゃべりをした。はいはみし、いいえはみしみし、どっちでもないはみしみしみし……
「お父さんから電話だよ、あんたに話があるんだとさ」
納戸が乱暴にノックされる。祖母だ。
「え」
座敷牢の前から腰を上げる。
納戸を開ければ、祖母が渋い顔をしていた。
玄関先の電話の横に伏せられた受話器をとれば、懐かしい父の声がでる。
『久しぶりだな。連絡遅れてごめん、元気にしてたか、友達はできたか』
「友達はできたよ」
『そうか……よかった。真理はちょっと引っ込み思案な所があるから気にしてたんだ』
「どうしたのお父さん、何か用」
『何か用って……』
小学生の娘の、突き放すような調子の返答にどもる父。
『なんだ、しばらくほっといたから拗ねてるのか。その事なら謝る、お父さんとお母さんが悪かった。真理にたくさん寂しい思いをさせたな、ひとりぼっちで辛かったろ』
「別に……」
オカワリ様がいてくれたし。
心の中で後ろめたげに反駁すれば、すかさず父が本題を切り出す。
『でもな、もう我慢しなくていいぞ。お父さんとお母さん、やり直すことにしたんだ』
何を言ってるんだろうこの人。
『よくよく話し合って……お互い誤解もあった。お母さんは相手と別れて、もう一度やり直したいって言ってくれた。真理を手放すのが嫌だって……お父さんも気持ちは同じだ。電話もろくにしなかったくせに、今さら説得力ないよな。携帯を持たせておけばよかったと悔やんでる』
「どういうこと」
『家電にかけたらおばあちゃんに切られた』
心臓が凍り付く。
『おばあちゃんはお前を手放したくないんだ、絶対後継ぎにしたいと思ってる。子供は俺だけだから……俺に継ぐ気がないときたら消去法で孫を立てるしかない。今日だって切ったら押しかけるって脅して漸く代わってもらったんだ』
「だってお父さんがおばあちゃんちに預けたんでしょ」
『すまないと思ってる、お母さんには身寄りがないし……子供には聞かせたくない話もあった。お前をあの家にあずけて、本当に後悔している』
そこで父が言いよどみ、口にするのも忌まわしいと息をひそめる。
『おばあちゃんからオカワリ様のこと聞いてるか』
やっぱりお父さんもオカワリ様を知ってたんだ。
それはそうか、この家で生まれ育ったんだもの。
「うん……知ってるけど」
『お代わりにはこたえてないよな』
「なんでお代わりあげちゃだめなの?あんなぼろいお茶碗で、お箸もなくって可哀想。おばあちゃんは冷たいご飯しかあげちゃだめっていうし」
オカワリガホシイ。モットチョウダイ。
『いいかよく聞け真理、オカワリ様はな……元はこの家の子供なんだ』
「どういうこと」
『何代か前のご先祖が不義密通で生まれたか、障害のある子を座敷牢に隠したんだ。世話は使用人に任せきりにして、ボロい着物と欠けた茶碗だけ与えて、完全に飼い殺しのけだものさ。そんな環境で長生きできるはずもなく、子供はじきに息絶えた。少し時勢が違えば後継ぎとしてもてはやされたのに実際は箸すら与えられず、育ち盛りなのに一杯の飯すら事欠く有様。暗い座敷牢に閉じ込められ、オカワリガホシイ、オカワリガホシイと一族を恨みながら死んでいった……』
ごくりと喉が鳴る。
「おばあちゃんは守り神って言った」
『そうだ。守り神だ』
「嘘だ、そんな死に方したのに家を守ってくれるはずない」
『昔のお百姓は貧しくて、飢饉がおきるたび子供を間引きして庭に埋めた。するとその子は座敷童になって、末永く家を守ってくれたんだそうだ。なんで祟り殺さないのかはわからない、間引かれてなお親を慕っていたのか……』
畏怖と忌避の対象だからこそ、人は媚び阿る。
世間体を重んじて死に追いやった罪悪感を宥める為に、人柱を神と呼ぶ。
だからこそ守り神はたやすく祟り神に転じる。
上手く手懐けられているうちはいいが、一度頭に乗らせてしまえば恐ろしい災いが待ち受ける。
尽くして尽くして尽くし尽くす、冷や飯食いが分相応だと骨の髄までわからせとくんじゃ。
「…………!」
真理は禁忌を犯した。
オカワリ様のお代わりに何度もこたえてしまった。
座敷牢で非業の死を遂げなお数百年も家に縛られ、家に尽くせよと強制され続けた哀れな存在に、新しい箸と茶碗と真っ白で温かいご飯を与え、一族に等しい者として遇してしまった。
否、『傅いて』しまった。
『尽くす側』と『尽くされる側』が裏返った。
昔なら使用人に任せきりにできたが、今は真理と祖母しかいない。
祖母が世話係を引退した現在、座敷牢に通うのは真理の役回りだ。
『真理?聞いてるのか真理』
父が懸命に呼ぶ声が手をすり抜けた受話器から聞こえる。
宙ぶらりんの受話器を後に、真理は祖母の部屋へと走る。
おばあちゃんに言わなきゃ、約束を破った事……どうしたらいいか聞かなきゃ……
突き当たりの納戸がゴトゴト鳴っている。
何者かが内側から揺すっている。
刹那、凄まじい悲鳴が空気と鼓膜を震わせ屋敷中を駆け抜ける。
祖母の身に何かとんでもない災いが降りかかったと直感した真理は、血相を変えて祖母の部屋へ急ぐ。
神様オカワリ様、どうか許してください。お願いですから許してください。
座敷牢を壊し、納戸を揺すり立て、お腹が一杯になって力を増したオカワリ様は次に何をする?
「おばあちゃん!!」
祖母の和室を隔てる障子を勢い開け放ち、絶句する。
畳の真ん中に祖母が仰向けに倒れている。
口にはあぶくさながら真っ白いご飯がみっしり詰まり、その上に朱塗りの箸が誇らしげに突き立っている。
「あ…………」
腰を抜かしてへたりこみ、震える声で呟く。
「オカワリ様?」
みし。
「オカワリ様がやったの?」
みし。
「なんで……」
みし。
『おばあちゃんなんかいなくなっちゃえばいいんだ』
みし。
そうだ。
真理は確かにそう願った。
座敷牢の格子に寄りかかって膝を抱え、しょっぱい涙を啜りながら願をかけた。
なにげない独り言だ。
そうなればいいのにというただの妄想だ。
しかし、オカワリ様にとっては現実だ。
自分が犯した過ちに絶望し、もはや涙も出てない真理の目に、和室に飾られた豪勢な仏壇がとびこんでくる。
仏壇の扉は観音開きに放たれ、仏前にはご飯が手向けられていた。
ご飯のてっぺんには、祖母の口に突っこまれたのとは別の箸が真っ直ぐ突き立っている。
忘れていた。
この家に来て初めておじいちゃんに挨拶した時、おばあちゃんが教えてくれた。ご飯にお箸を刺すのは、死んだ人の食べ物ですよってわからせるためだって。
初めて仏壇に手を合わせた真理は、粗相をしない事だけで頭が一杯で、祖母の教えを上の空でしか聞いていなかった。
オカワリ様はもう死んでるから、あそこで死んだから、ああしたんだ。
ああしないと食べられないから。
祖母の口から喉にかけて隙なく詰まっているのは、オカワリ様がお腹一杯になってもういらない冷や飯だ。
みし、みし。
音が鳴る。
床板が軋む。
振り向くのが怖い。
「オカワリ様……」
みし。
「たすけて」
みし。
みし。
オカワリチョウダイ。
数時間後、回覧板を渡しに来た近所の主婦が祖母の亡骸の傍らにへたりこむ真理を発見した。
主婦は大慌てで通報し、真理は警察に保護され、その数時間後に両親がむかえにきた。
「本当によかった無事で……」
車の後部座席に乗り込むや、度重なる話し合いの末に浮気相手と切れた母が涙ながらに娘を抱き締める。
「おばあちゃんは自殺らしい。鑑識が終わらないと断言できないが」
「当たり前でしょ、この子がお義母さんを殺したとでも言いたいわけ!?」
「思ってないよそんな事、でもあんまり不自然じゃないか口に飯を詰めこんで窒息死なんて。箸はどう説明するんだ、力尽きる前に自分で立てたってのか」
「死んだ人を悪く言いたくないけどお義母さん変わってたから……後継ぎがいないって悩んでたみたいだし、思い余って自殺もないとはいえないわ。変な神様を拝んでたんでしょ、オカワリ様とか。座敷牢を発見した警察が驚いてたわ、あれじゃまるで誰かを監禁してたみたい」
「口が過ぎるぞ」
「事実でしょ?よりにもよってお義母さんなんかに真理を預けるなんて……」
母がヒステリックに取り乱し、ますます強く真理をかき抱く。
夫婦でやり直す事に決めたはずなのに諍いばかりしている両親をよそに、シートに行儀よく座った真理は、瞬きも忘れた虚ろな目で宙を見詰めている。
「可哀想に、ショックを受けて……」
「すまない真理。お前が一番辛いのにな」
運転席から乗り出した父が真理の頭をなで、母が優しく頬に触れる。
オカワリ様はお代わりを欲しがる。
最初は人間らしく食べる為の箸を、次は桜の花びら模様の素敵な茶碗を、次は真っ白であたたかいご飯を。
ならば最後に欲しがるのは……
自分を心から案じる父と母を等分に見比べ、瞬きを忘れた真理がたどたどしく口を開く。
「おかわりちょうだい」