久しき外出と久しき他人 後編
ゾンビはきつい腐乱臭がするから、それがある意味僕にとっての危険信号だったりするのだが、焼死体の臭いっていうには人生で初めて嗅いだけど想像以上にくるものがあるな。何か、吐く前兆の水っぽく生ぬるい唾が喉の奥から出てきた。
「ねぇ、さっき何ですぐ出てきてくれなかったのよ。すぐ入れてくれたらこんなことにはならなかったのに」
彼女も咳き込みながらそう言った。クマ除けスプレーの残留物がまだ残っていて、目がヒリヒリして涙が出てきた。せっかくゾンビから女の子を救って漢を見せたのに、これじゃ締まらないなぁ。
「君がすぐにいなくなっただけでしょ?」
「……振り向いたら近くまで迫ってたから」
それなら仕方ないな。僕はゾンビに警戒しながら再び階段を下りる。途中、妙に歩きにくいと思ったら、後ろの彼女が僕のコートの裾をちょこんと掴んでいた。普通そこは腕に抱きつくべきでは? 遠慮しなくていいのに。
幸い、僕が倒した3匹以外は近くにいないようだった。
しかし汚い。全体的に赤いレンガの壁は砂埃で茶色く変色していて、階段の手すりを握れば手が真っ黒に染まってしまう。
外に出てから3分くらいしか経ってないのに、ブーツはもう煤で汚れてしまった。ハウスダストがかわいいくらいだ。
管理人さんがいなくなってから、いつもモップ掛けをしていたことへの有難みを噛みしめてしまう、この情けなさよ。
「何か、このマンションに入る前は、やっとゾンビから怯えなくて済むと思ってほっとしたのに、まるでクモの巣に自分から飛び込んだみたいで馬鹿らしくなってきた」
と、彼女は天井の電灯にいる大きなジョロウグモを睨みながら、恨み言を呟いた。
「まぁ僕はうれしいよ。本当にこの世界にもう僕しかいないと最近は思ってたから」
「何それ、ちょっと傲慢すぎじゃない?」
「うるさいな、命の恩人に失礼な」
望む望まざるに関わらず、長い付き合いになるはずの人間なんだから、もう少し温かみのあることを言ってやりたいが、ずっと一人だった弊害で後先考えずに口を開いてしまう。
せっかく助けた生存者で、しかも性格は悪いが美少女なんだから、口論の絶えない険悪な関係を築くのは本意ではない。
色々気を付けなければ。何はともあれ、これでもう孤独に悩まされる心配もない。マブダチの「誠二郎くん」とも、名残惜しいがこれでバイバイだ。
すぐに部屋に戻るつもりだったが、涙目の歪んだ視界の中で何か真っ赤な物体が視界の端で煌びやかに映った。マンションの外部で赤いものと言えば、消火器しかない。
「ちょっとタンマ、あの消火器もらってこう」
「え? そ、そうね、火事になってももう消防車呼べないから大事よね、そういうの」
本当はさっさと部屋に入りたいが、消火器もないよりは間違いなくあった方がいいと彼女も思ったようで、慌てて上ずった声で僕の行動を理解した。
しかし、目が痛くて痛くて目を開けるのが苦痛でしかない。苦労して外した頃には、彼女は恐怖に耐えかねて、しれっと家主より先に部屋に入っていた。忽然と消えたからびっくりしたじゃないか。
「これでまた武器が一つ増えた」
意外と消火器って重いんだな。そう思いながら階段を横切ると、焼け爛れたゾンビが、まだ死ねずに踊り場を這ってこちらに迫っていたので、今度は至近距離から念入りに顔面を焼いて介錯してやった。やはり、常人に比べて奴らはかなりしぶといな。
***
そういえば、部屋を出る時に施錠をしないで出てってしまった。もし連中が侵入していたら一巻の終わりだった。不用心だったな。2度としないように反省しなければ。部屋を次に出るのはいつになるかは分からないが。
「うわっ、どうしたの君?」
ささっと部屋に入って鍵を閉め、ドアに槍を立てかけると、彼女は靴も脱がずに玄関で呆然と立ち尽くしていた。
呼ばれて振り向いた彼女の眼が、さっきの生意気で勝気な態度から一転、生気のない虚ろな目をしていたので、僕はまさかの展開を疑って身構えた。
「大丈夫よ……噛まれてないって……」
力なくそう言った彼女はふらふらと頭を左右に揺らしたかと思えば、よろめいて前のめりに崩れ落ちた。
正面には三つ編みの幹が特徴的な観葉植物のパキラがあって、もしもぶつかった衝撃でへし折れたら困るので、慌てて彼女の腰に両腕を回して抱き止めた。
「ごめん……助かったかと思ったら、急に足に力が入らなくて……」
「お気になさらず」
わざとやったわけじゃないから仕方ないが。僕が母親と祖母以外で異性を抱きしめたのは、これまでの人生で一度もなかったのではないだろうか。いやない。
腰周りが細いのに柔らかい。ちょうど自分が抱きしめているのが、いわゆるくびれの部分なんだろうな。冬とはいえ、何日も外を逃げ回っていたのだろうから、こうして密着すると首筋から汗の匂いがしたが、これはこれで悪くない。むしろ良き。
「怖かった……本当に、もうとダメかと思った……うう……」
アカン、僕が股に隠し持つ2本目の槍が徐々に伸びてきた。
彼女は恐怖から解放された安堵感から、すすり泣き始めたので、今ならたとえ咎められてもスプレーのせいで前が見えないとごまかして、1回くらいならおっぱい揉めるかなと、性欲のまま何食わぬ顔でそーっと手を伸ばした時だった。
「んん?」
左の膝がどうも生温かいし、触ったら湿っている。それに、便所で嗅ぎ慣れたこの臭い。この子まさか……やってくれましたね。
「あのぅ……大変言いにくいのですが、粗相をされておりますよ」
汚いので僕が離れると、彼女の左右のジーンズの股下が自らの漏れ出たものでぐっしょりと濡れていた。恐らく、極度の緊張が解けたせいと見られる。
彼女の両足のジーンズの布地が上から下へ、まるで青天から曇天に変わる時のように、流れ行くものでゆっくり濡れていく。不覚にも興奮してしまった。
買ったばかりでいつ履くか悩んでいたスニーカーや、入学祝で親父に買ってもらったイタリア製の革靴にもかかっている。泣きたい。いや、もう泣いてた。
「フフ……どんなに切羽詰まっても野外で用を足すなんてできないと、安いプライドが邪魔した結果、今私の尊厳はこうやってズタズタにされたのね……」
彼女は、僕に言われてから気づいたようだが、知ってからも情けなく取り乱すことはなく、ただ諦観して玄関に座り込み、膝に顔をうずめた。
まるで僕がプライドを引き裂いたみたいな言い方をしてる気がするが、勝手に失禁したのはそちらの落ち度では?
心の中では、そんな熟成したものを何人んちの玄関に撒き散らしてるんだとキレそうになったが、さっきも言った通り、僕は出来る限り彼女とは仲良くしていきたいので、ここは我慢しよう。
「ま、まぁ僕しか見てないから大丈夫だって、僕も高校生の頃に富士急ハイランドの鉄骨番長で同じ経験したから、ね? とりあえず、シャワーは使えないけどお湯沸かすから、体洗ってこよ? その間に僕がここ掃除するからさ」
僕が引きつった笑みと共に猫なで声でそう言うと、彼女は俯いたまま小さく頷いた。僕もこの後、本気でビビるような事態に遭遇したら漏らしてしまうかもしれないし、傷心の人間をいじめる趣味はない。
「ごめん、立たせてほしい」
彼女は、耳たぶまで熟れたリンゴのように赤くした顔を僕から背けたまま、手だけ差し出してきた。さっきは無下に振り払ったから、少しは態度も軟化してくれたようだ。
「……? うっ、あっしまった!」
気を良くして僕は手を掴んだものの、その手は何だかずぶ濡れでふやけており、立たせた後に何となく匂いを嗅ぐと、それが何かわかってしまい、反射的にコートで手を拭ったら、そのコートまで汚くなってしまったことに気づいて、静かに落涙した。
とりあえず、彼女から話を聞くのは身綺麗にさせてからだ。僕もズボンを履き替えたいし。あと、何より換気もしなくちゃ……。
ビジネスホテルのケトルで小便沸かすとこうなるんだろうなぁ……。僕はまず、戦利品の消火器の汚れからハンカチで拭った。同じ汚れでも、掃除に抵抗があるものとないものがあると僕は知った。