情緒不安定 5
「え? 何だコイツ……」
見えたのは黒い斑点が浮いた赤いハサミ。それは一度階下に戻ったが、再び勢いよく叩きつけて穴を広げてしまうと、やっと通れるくらいになったのか、先にハサミを出してから全身を這いずり出した。
「えっと……これは……」
自転車くらいのサイズはある、めちゃくちゃな特大サイズだが、つぶらな瞳と長い髭に青銅色の装甲のような甲殻。それにこの禍々しい凶悪なハサミ。
「ザ、ザリガニ……?」
何かデカいザリガニが来た。すげぇ。さかなクンが見たら歓喜のあまり泣きながら射精しそう。とりあえず写真撮るか。
尻尾を僕に向けて今は気づいていないようだが、恐ろしい大きさだ。ワニやコモドドラゴンでも戦ったら勝てはするかもだけど、重傷は免れないだろうな。
ザリガニって感染するのか。犬猫もゾンビが稀に食ってるのはベランダから見たことある。でも、ゾンビの野良猫なんてのは見たことがない。甲殻類は例外なんだろうか。
顎をカチカチと鳴らして、トイレットペーパーを食べたようだが、いくらザリガニでも口に合わなかったのかすぐに吐き出した。
「とりま逃げるか」
僕は気付かれる前に恐る恐る梯子を登った。ちょっと頭がついていけない。あんなのどうすれば……いくらザリガニでもゾンビなんだから敵意はあるに違いない。
「せー」
上でかなめが差し伸べた手を掴んで自宅に戻るが、気持ちの整理がつかない。いつから僕はセンター・オブ・ジ・アースの世界に紛れ込んだんだ。
「どう? 下に何がいるの?」
「うん、かなちゃんを秒殺できそうな巨大ザリガニがいたよ」
「は? 寝言は寝て言えクソガキ」
「じゃあ見てみなよ」
かなめが鼻で笑うので、僕は下を指さして自分で確かめるよう促した。かなめは四つん這いになって頭だけ梯子のそばに出して屈み込むと、すぐに顔を上げて目を瞬かせて僕の顔を見た。
「え、マジじゃん。どうすんのアレ」
「どうすんのって……倒すしかないよなぁ」
「とりあえず今ピンチなんですね」
「うん、かなり」
星子さんがへそを指でかきながら呑気にあくびをする。かなめは立ち上がり、僕の背後に回った。
すると、下から再び轟音が鳴り響き、物干し竿がブルブルと震えた。まさかここに来る気か。僕達を食べに。
「とりあえず僕が何とかする。星子さん斧貸しー……」
僕がトマホークを星子さんから借りようと振り返ると、眼前には両手を前に出し、いかにも僕を突き飛ばす1秒前みたいな姿で硬直する来栖かなめさんがいた。
まさかコイツ、大恩あるこの僕を生贄にする気か? まさかねぇ?
「おい、女」
「何かな、男」
僕はかなめの肩を掴む。
「君も立派な戦力だ。一緒に下に降りて戦おうではないか」
かなめが僕の手を掴んで肩から引き剥がそうとする。
「いや、何かの漫画でも幸せになるのは女と子どもだけでいい、男なら死ねってセリフあったっしょ。大和男児なら勇ましく散ってどうぞ」
「……は?」
「ん?」
僕が肩を掴む手に力を込めると、かなめも更に力を込めた。前はかなめの方が力あったけど、今は僕の方がやや優っている。
「いやお前今僕突き落とそうとしたよな白々しいんだよメスがゴルァお前から先に死ねよカス!! お前前も僕置いて部屋に入って鍵かけたりしてたよなぁ!?」
「あぁ!? 私が非力でか弱いこと知っといて何甘えたこと言ってんのバカが!? 今まで散々えっちさせてあげたんだからその恩に報いろやチンピラがよぉ!!」
僕らはほっぺを引っ張りあったりビンタしあって服を引っ張り合い、今年で成人する男女同士とは思えないみっともない争いを繰り広げた。
喧嘩するほど仲が良いという言葉があるが、実際後はどうあれ喧嘩してる時はお互いに憎しみしかない。
「2人とも醜いです」
「「あぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」」
見かねたというより呆れ返った星子さんはかなめの尻を蹴って、僕らを階下に落とした。
落ちる最中、かなめが僕をクッションにしようとしたので僕が身体をねじらせると2人とも脇腹を強打した。でも、お互いかなり厚着してるからダメージはあまりない。
「いった!? ほら、せーが軟弱腐れチキンなせいで私まで巻き添え食らったんですけど!? フィアンセに見放されるなんて男として最も恥ずべきことですねぇ!!」
「う、うるさいこのゴキブリ女!! お前こそ同性なんだから姉貴風吹かして格好の一つでもつけてみろよバーカ!! 上等だ今ここでどっちが格上かハッキリさせた……え? 誰?」
腹パンされた僕がかなめの鼻の穴にチョキの指を突っ込んだ時、後ろから誰かにチョンチョンと肩を叩かれた。
僕がかなめの鼻から指を引き抜いて振り向くと、そこには。
「キシャー……」
「あっ…」
太い釣竿みたいな触角で、ザリガニが俺を差し置いて乱闘するんじゃねーよと言わんばかりに僕の肩を叩いていた。
そして僕らが存在に気づくと、ようやくそのご立派な鋏を僕らに向けて振り上げた。
「「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」」




