久しき外出と久しき他人 前編
何だ? 久しぶりに自分以外の人間の声を聞いたぞ。でも、本当に今の声はしたのだろうか。
この終わりの見えない籠城生活のストレスによる幻覚、じゃない幻聴じゃないだろうか?
僕は息苦しいほどの心臓の動悸を感じながら、テーブルの上の槍を掴んで玄関に向かうと、靴を履かずに素足でドアの覗き穴に目を近づけた。
「いない」
そこには、僕がすでに殺したゾンビの死体というのはやはり変だが、とにかく死体が転がっているだけで、人の姿はなかった。
どうやら本当に僕の聞き間違いだったらしい。なんてこった。ついに精神に異常をきたしてしまったらしい。とりあえず、明日晴れたらベランダに椅子を置いて日光浴とかしてみるか。
僕が嘆息して、革靴を磨こうと下駄箱から靴クリームを取り出した時。
「やめろ! 来ないで誰か助けて!! 誰もいないの!?」
ドア越しに微かに女の声が確かに聞こえた。僕は慌ててドアを塞ぐ下駄箱を退けると、鍵とドアストッパーを外してドアを開けて、大声で叫んだ。
「今何階にいますか! 助けに行きますから!!」
普段大声なんか出さないから、どうも裏返ってしまって締まらない。
だが、そんなことより問題は返事だ。最近は重要なことももったいぶって話さない輩も多いからな。
「9階! お願い、は、早く来て……」
「分かりました! すぐに!」
僕はすぐさまリビングに戻って靴下を履くと、最低限の防具として着ているワイシャツの上に厚手のセーターを着た。
さらにダッフルコートを急いで着用すると、いくつか手元の役立ちそうなものを適当にポケットに詰めてから、ブーツを履いて家を出た。
実に24日振りに出た外だった。が、マンション内は屋内のようなものなので、特に感慨深いような感情は湧かなかった。
階段までの道のりの廊下を曲がった瞬間にゾンビがいないかと恐れて、つい虚無に向かって槍を突き刺してしまったが、もちろんいないに越したことはない。しかし、上の階には確実に1匹いるのだ。
「うっ」
僕は踊り場を曲がる際にもまた虚無を攻撃してから上へ登った時、階段付近のすぐそこにはもうヤツがいた。
だが、前を向いて横の僕には気づいていないようだったので、なるようになれと、階段を2段飛ばしで駆け上がった。
同時にゾンビの首に槍を突き刺し、同時に脇腹を蹴って、その衝撃でよろけて自然に槍が抜けたところをもう一度、今度はうなじを削ぐように斬りつけた。
最後に、とどめにブーツの固い爪先で、倒れ伏したヤツの首を踏み潰してとどめを刺した。
コイツらは脳に血が巡らなくなったら死ぬが、頭蓋骨は硬いから、やはり首が一番効果的なのだ。
「他にはいないか?」
また、考えていたことをそのまま口に出してしまった。だが、周囲を見たけど、9階に迷い込んでいたのはこの学ランを着たゾンビだけのようだ。
ソイツにはとどめを刺したつもりだったが、まだ動いていたので完全に首を切断した。
さて、僕が身を危険に晒してまで助けようとしている人はどこにいる?
思えば、パンデミックが起きた日にいたあの寿司屋でも、見ず知らずの店員のためにゾンビを殺したし、多分僕は類稀なお人よしなんだな。相手がどんな人間かもわからないのに。
「うん?」
倒したゾンビが見ていた先を見つめていたら、右ののちょうど真下に僕の部屋があるところのドアで、塀が死角になっている。
だが、キラキラと光沢のある黒い頭髪らしきものが覗いていた。どうやら、あそこでうずくまって怯えているらしい。
声を出して呼び寄せたいが、あんまり大声を何度も出すと館内に入り込んでいるヤツだけでなく、付近の雑魚も集まってくる危険性があるから、やめとこう。
僕は刃についた血を槍を払い落すと、自撮り棒の部分を最大まで伸ばした状態にして、少しずつそこへ足を進めた。
何故なら、相手が僕に対して何も言ってこないのが不気味で、もしかしたら手遅れで、もう感染しているかもと疑ったからだ。
ベランダから噛まれた人間がどうなるか見てきたが、感染後数分は体内でウイルスの支配が済んでないからか、その場から動かないことが多い。
僕はゆっくりと、されど地面に足を叩きつけて音を出しながら接近し、目的のところまであと1メートルに満たなくなった時、僕は思い切って足を速めた。
そうして槍の切っ先を女性のいる場所に向け、疑わしきは罰せよ、推定有罪で今すぐ喉笛を刃でを貫こうとした。
「ちょっと! 何で私まで殺そうとすんのよ!」
「えっ?」
普通に女性は生きてて僕に怒鳴りつけてきた。何だ、無事だったのか。いや、喜ばしいことだけども。
「ねぇ、私にそんな物騒なもの向けないでよ」
「え? あぁ……はい。なんだてっきり噛まれたのかと。無事ならしゃべりかけてくださいよ」
「そっちから大丈夫ですかとか、怪我はありませんかとか言うのが筋でしょ? 何じりじり無言で近寄ってきてんの? 正直そっちの方が怖かったわ!」
「……」
なんかアレだ。普通に大学に通っていたら、絶対関わり合いになることもなく、なりたくもないタイプの女だ。
バスで席を譲ってもらったとか、道を教えてもらったとかのレベルじゃない、身を挺して命を救ってもらった人間に、お礼の一つもないんですかね。
とりあえず腰を抜かしているように見えたので手を掴んで立たせようとしたら、彼女は僕の手を振り払って寄りかかる背後のドアノブを掴み、よろよろと自力で立ち上がった。少し傷ついた。
「あなたは、ここのマンションの人ですか?」
「いや違うけど。元は別のところにいたけど逃げてきたの。一日中走って、ここなら雨風はともかくゾンビは防げると思ったけど、甘かった。連中走れないのに普通に階段は上ってくるのね……」
「とにかく僕の部屋に行こう。まぁ男の部屋に連れ込まれたくないなら、どうぞ頑張ってここから抜け出してください」
態度がムカついたので、敬語を使うのはやめた。というか多分この人、俺とそんなに年変わらない。年下、女子高生の可能性もある。
ここに来る途中で破れたのか、はたまた元からなのかダメージ・ジーンズを着用し、スポーツメーカーのパーカーの上に明らかな男物の漆黒のダウンジャケットを着ている。
パーカーの布地が薄いからよく分かるが、僕のようなナイーブな若者には目の毒になるくらいの、立派な乳の持ち主だった。
「分かったよ。嫌な言い方するわね。あっ……」
その時、彼女が息を呑んで、僕の背後を指さした。反射的に振り返ると、階段から2体のゾンビが現れて、僕らの方を見ながら接近していた。
参ったな。真っ向勝負も初めてだが、2体同時も初めてだ。やれるか?
「君、随分と引き連れてきたね」
「あーはいはい悪かったわね、すいません」
彼女は全く申し訳なさそうに一応詫びた。
ちょうどいい、持ってきたこれが、コイツらに効くのか少し試してみたかったところだ。
「僕の背中に隠れてて、何とか倒してみる」
「う、うん」
僕はポケットから赤いノズルが特徴的なスプレーを取り出すと、利き腕でそれを持って、ゾンビが射程距離まで来るのを待った。
「ちょ、ちょっと、何こっちまで来るの待ってんのよ! ていうかそれ何のスプレーよ? そんなので倒せるの?」
僕は無視してスプレーを構える、こうやって真っ向から対峙すると、いつものドア越しにはない恐怖を感じる。だが、恐れることはない。こっちはすでに何体もゾンビを屠っている。
連中は奈良公園のシカと一緒だ。集団で寄ってこられたら怖気づくが、単体なら普通に撫でられるし怖くもない。
むしろ、シカせんべい目当てにタックルとかしてこない分、ゾンビの方が良心的だ。噛まれたらおしまいだが、今の僕は厚着をしてるから腕をもぎ取られる心配はまずないんだ。
「ね、ねぇアンタ! 聞いてるの!? おい! おい!」
ゾンビとの距離は、あと4メートルといったところか。背後の女がそろそろ正気を失いそうなので、少し遠いかと思ったが、僕はスプレーの中身を勢いよく奴らの顔面に噴霧した。
白い煙のような薬剤が奴らに降りかかり、一応僕は袖で口元を抑える。
薬剤を浴びた瞬間、連中は歯ぎしりをしたり、喉を潰した聞き苦しいかすれた呻き声を上げて、壁に頭突きをしたり、近くの換気扇にぶつかったりして、今にも死にそうな様子でのたうち回った。
「おっ効くんだな」
「な、何それ? 催涙スプレー?」
「いや、さらに強力なクマ避けスプレー、カプサイシンだっけな。噴きかけたら唐辛子の成分が粘膜だの口腔だのに入って、その激痛で悶え苦しむ隙に出くわしたクマから逃げろっていうスプレー。距離をとるために殺虫剤とかより噴射力が強いんだ」
「何でそんな危ないもの持ってるのよ」
「登山部だから。そんなことより今の内に行くよ。僕が先頭に立ってすれ違い様に奴らを斬るから、ぴったりついてきてね」
だが、彼女はふるふると首を振って、僕が先陣を切って進むというのに嫌がった。まぁ理由はわかる。
「ここまでしてもらって悪いんだけど、ちょっとまだ生きてるゾンビの横を通るのはちょっと、足が動かないというか、ちょっと先に殺してきてもらえない……?」
ちょっと何回言うんだろう。そして、こういう時だけしおらしくなるのずるいなぁ。僕は良心に訴えかけてこられると弱いんだよ。
だが、ここで僕が彼女より下手に出るわけにはいかない。あくまで僕の方が立場は上なのだということを、ここで見せつけておかねばならないな。
「はいはい」
僕は、ベルトに挟んだチャッカマンを取ると、スプレーの口に火を近づけて、再び薬剤を噴霧した。
もっとも、出てきたのは激痛を起こすカプサイシンではなく、燃え上がる火炎だけど。前にコンサートでこれやって捕まったアホがいたんだよね。
火に包まれたゾンビは焼かれてもなおもがいていたが、やがて苦しみ抜いた末に黒焦げになってくたばった。
「これでよかろう」
「はい」
次はお前だと言うべきか迷った。流石にここまでしたら大丈夫だと分かってくれたようだ。若干僕に引いてるように見えるが、きっと僕が疑心暗鬼なだけだろう。