二度と会えないと思っていた 中編
かつて東京大空襲の被害を受けなかった墨田区は、東京スカイツリーが象徴的な存在だが、同時に細長く入り組んだ迷路のような住宅地も特徴すべき場所だ。
どの道も似たような家が立ち並び、自販機の位置や小料理屋や居酒屋もみんな違うのにみんな同じに見える。
自分は方向音痴じゃないと自惚れて歩き続け、気づいたら東京拘置所の屋上のフェンスが見えたという人もいるレベルだ。
初めてあそこを訪れた人が無事最寄りの駅に戻るのは、運が味方しなければ難しい。私は小さい頃に何度泣かされたか知らない……。
という話を聞かされたのは、彼女……鮎川星子さんの母親からだった。
三ヶ月前
「まぁ誠一郎さん、最後にお会いしたのはもう12年も前になるでしょうか。あの頃も可愛らしかったですが、見違えたような美男子になられましたねぇ。きっと充実した高校生活を送られたのでしょう?」
「えぇ。今でも交流している友人は何人かおります。みな同性ですが」
「そうよね。あなた昔からモテないよね」
僕は件の墨田区の迷路の中にある料亭で、いつ星子さんの母親の会話が中断され、白菊のように盛り付けられたフグの刺身を口にできるかでイライラしていた。
この人、話長すぎ。よっぽど鮎川専務は普段この人と会話しないんだろうな。せっかくの贅沢な料理も冷めてしまう。刺身は元からだが。
僕は会話に失礼にならないよう適当に答えるのだが、その度に母さんが変に茶々入れてくるのもむしゃくしゃした。
少し前に母さんに再来週の土曜日は暇かと尋ねられ、うんと言ったらスーツを持ってウチにこいと言われたので、その通りにした。
そしたらドアを開けた瞬間におめかしした母親から即スーツに着替えてと命令され、リビングに入る間もなく車に乗せられて、一時間半ほどしてこの料亭に連れてこられた。
正直、ここならわざわざ家に戻るのは時間の無駄だと思うのだが、母さんもそんなこと分かってるだろうに、それが解せなかった。
「こちらから呼び出しておきながら遅れてしまい申し訳ありません」
母さんが予約していた部屋に入るなり、そう謝罪した相手が星子さんの母親だ。名前は悪いけど忘れた。星子さんは、当然母親の隣にいた。
彼女の母親と僕は小さい頃に会ってるらしいが、僕は星子さんを見たことがなかった。事実、記憶にないのでなく、本当にこれが初めての対面だと母さんが僕に言った。
ただし、両親の雑談が耳に入った時があって専務に一人娘がいることは知っていた。
随分と欲に負けた太った体型の母親と違って高校生の星子さんは痩せていて、背が低かった。茶色い短髪と真っ白な肌が美しく、小さい顔を伏せて長いまつ毛を見せるそのあどけない姿は少年のようだった。
「初めまして、私は森川誠一郎と申します。お会いできて嬉しいです」
「……はい」
はいじゃないが。
星子さんも僕と同様にここに急に連れてこられたのか、不機嫌な様子だった。
それに成人式みたいな派手な着物と、顔の横の大きな菊の髪飾りも似合ってるけど、本人は不快なようだ。
星子さんの母親のマシンガンのようなトークがひと段落して、僕がやっと箸を掴んだ時に、今度は母さんが僕に話しかけてきた。キレそう。
「誠一郎、あなた彼女とかいるの?」
「いませんよ母さん、それが?」
「それは良かった。なら星子さんと交際しなさい。結婚前提で」
「え」
今晩のドラマ録画しといてみたいなノリで、目の前の女の子と付き合えと言われた。ポーカーフェイスが得意な僕も、この時は流石に驚いた。
流石に僕の家柄だと恋愛結婚は難しいだろうなというのは中学生の頃から覚悟していたけど、実際その時が来るとやはり平然にはできない。
その後は適当に双方の親が自分の子どもについて語るのを、僕は聞き流しながら星子さんの真後ろの信楽の壺に枝ごと生けた梅の花を見ていた。
星子さんは、一度自分を見てるのかなと僕の顔を見たが、視線が合わないことを訝しんで振り返り、自分じゃなくて壺を見てたことに気づくと、また俯いてしまわれた。
そうか、僕をわざわざ栃木の自宅まで呼びつけたのは、両者の子息の馴れ初めの場は親が同伴しなければと考えたからなのか。
「あの星子さん、茶碗蒸しお好きなんですか? 良かったら私のをどうぞ」
一応、僕も会話はしとこうと思って茶碗蒸しを食べる彼女に自分のをあげようとした。茶碗蒸しは実際小学生の頃に食って、このプリン全然甘くねぇーじゃねぇーか!!ってブチギレたことあるから嫌いだ。
「いえ、結構です」
すごく冷淡に断られた。
「あ、そうですか。じゃあ母さんどうぞ」
ちょっとイラついたから母さんにその場で即渡した。彼女の母親は、今日は緊張しているようでごめんなさい。と笑いながら謝ったが、猿が見ても僕が嫌われてると分かる。
きっと彼氏と無理矢理別れさせられて、僕と結婚しろとこの太った母親から言われたんだろうな。哀れだな。
一応僕の方は別に親が決めた人と結婚することに関しては異論はなかった。
せっかく天文学的確率で大金持ちの家に生まれたのだから、よくある歌劇の内容みたいな自由恋愛の末の駆け落ちなんてするつもりないし、僕に近づく女の目的はたかが知れてる。
それなら、親が選んだ女性と交際した方が確実で安心できる。何より星子さんは美少女だったから異論はないどころか内心は少し嬉しかった。
そうしたらその一週間か二週間後、星子さんが僕のマンションを訪ねてきた。誰から住所聞いたんだ?
「失礼は承知ですが、ご両親に私との交際はなかったことにしてくださいとお伝えください」
「……」
開口一番これだった。まぁ傷つくよね。そこまで嫌だったのかと。初対面だからこそ、これからデートとかして関係を深めてくもんだとばかり。
僕の人生経験は少ないが、それでも一つあるのがサシでの説得はだいたいの場合失敗するというものなので、まぁ彼女の人生を僕が弄くり回すのも悪いからと引き下がった。
そういえば、私の身体が目当てなら今この場で抱かせてあげますからとか何とか言ってたな。アレ絶対僕にそんな度胸はないと思ってて言ったよな。今思うと抱いとけばよかった。
そしてこの後、今度は僕と星子さんの親父まで出張ってきて、改めて僕らに仲良く交際しろと言ってきた。親父にまでそう言われたらもうどうしようもない。僕と星子さんは婚約したも同然だった。
当初は喜んだ僕だけど、玄関口で土下座までして別れてくれと懇願してきた女と再び付き合えというのは、実りある結婚生活にはならないだろうなとげんなりした。
銀行から帰ってきて、星子さんがいないから家中探したら、手首を切って真っ赤な湯船の中に浸けている彼女の姿を僕は想像した。
風呂場のドアはガムテープで固定されていて、蹴破ったらサンポールとハイターの混合物がバケツに溜まっており、充満したガスを吸い込んだ僕も死ぬのだ。
そんな末路すら考えてしまった。
「うううううう……どうする……」
そうして今、僕はゾンビとしてやってきた彼女を殺す決断を迫られていた。




