橋爪翔介の手記 中編
これはどうも本格的に面倒なことになってきたらしい。テレビやラジオでもネットでも何をつけても外のことしかやっていない。
総理の乗った車が官邸へ向かう途中に横転したとか、自衛隊の駐屯地で大規模な暴動が起きたとか、普通なら特番でやるような大ニューズが目まぐるしく流れ込んでくる。
ついさっき、もう仕事どころじゃないねと太田君と話したところだ。
原因は何なんだろうか? どっかの研究所からウイルスが漏れたとかなのか?
とりあえず台所にある適当な食材を使って中澤が得意だというサンドイッチを作ってくれたが、食べ物が買い出しにいこうと思っていた頃だったからもうほとんどない。仕方ないから外に行くべきか。
しかし中澤の味覚があそこまでイカれていたとは……。マーマレードとキムチのサンドイッチなんて二度と食いたくない。
事務所からぼく宛に当面芸能活動は見合わせるとあった。そりゃそうだ。
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今、ぼくと太田君と中澤と前田ちゃんで近くのスーパーマーケットに食糧の調達に来ている。この日記は今車内で書いているから、一応スーパーまでは来れた。もっとも一階で気の狂ったのに見つかって、慌てて車に乗り込んだのだが。
本当は男衆のみで行く予定だったが、前田ちゃんも志願した。まぁ生理用品とかぼく全然分からないから女の必要なものは女が選んだ方がいいし、人手が増えるに越したことはない。
運転はぼくだったが、ここに来るまでに道路には連中がうようよいたので、食糧の調達中に車に何かあってはいけないと僕は屋上駐車場に残ることとなった。戻ってきたのは一人だけとか言うオチにならないといいがな。
こういうスーパーに行ったことがバレるとファンクラブで出没情報が共有されて、ぼくの家が特定されるどころか近隣住民やスーパーにも迷惑だから、なるべく宅配を使えって事務所から言われてたっけ。
どうでもいいけど駐車場には車がまだ何台もある。店内にも連中が大勢いるということなのだろうか。そうなるとどうでもよくないな。どうしよう。ぼくも行くか?
よかった全員無事に戻ってきた。しかし、3人で行った割にはかなり持ってきた食糧は少なかった。
中澤曰く、あれが仰山いたと。目を盗んで店の端っこの値引きの菓子パンや贈答品の洋菓子を持ってくるのが精いっぱいだったという。
しかし、前田ちゃんはその代りに薬を大量にとってきたらしい。カバンの中に適当に掴んできたという錠剤やサプリをぼくに見せてきた。
ぎっしり薬の詰まったカバンを見て、ぼくはメンヘラのカバンってこんな感じなのかなと思った。でも、全員この結果には不満があったので、場所を変えてもう一度やることにした。
駐車場から出る時に駐車券を入れて清算しようとしたら、太田君が別にもうこんなの無視してもいいんじゃと言ってきたけど、ぼくはクリーンなイメージで売ってるからちゃんと400円払った。
コイツらまさか金払わずに商品持ち出してきたわけじゃあるまいな。
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とりあえず昨日、近場のスーパーやらドラッグストアをハシゴして、調達した食糧はリュックやカバンだけでなく、持ってきたレジ袋にも入るくらいになった。
分かりきったことではあったけど、それらを全て往復せず運んでいくのは並の苦労ではなかった。帰るまでに何人も正気を失った人々を轢き殺したと思うが、ぼくらが連中の餌にならずに戻ってこれたのは奇跡としか言いようがないだろう。
しかし、動物が寄ってくるという点ではサファリパークと似たようなものだが、それとは比較にならないくらい恐ろしい体験だった。これ、もしかして文明が崩壊したとかというレベルなのではないだろうか。
ぼくの俳優としてのキャリアはもうこれで終わりなのかと嫌でも思わされる。今が一番脂がのってる時期だと思っていたし、まだまだ挑戦してみたいことがあったのにな。
これまでの悩みは全て、今の状況に比べたら取るに足らないことだ。数日前はマスコミに自宅を特定されることに怯えていたのに、今は命を繋ぐことに怯えている。えらい違いで笑えてさえくる。
道路で何人もの人の死体を見た。ふと、他の俳優はどうなのかと思ってメールを送ってみたら送信が不能になっていた。
ニュースなども更新が止まっている。テレビもごく一部がまだニュースを放送していたが、ほぼ砂嵐だった。うんざりしてきた。ぼくは一体どうしたらいいんだ? 助けは来るのか来ないのかそれだけでも知りたい。
昨日のことばっかり書いていて、ちっとも今日のことを書いてないじゃないか。いけないいけない。
馬場ちゃんは意外と料理がうまかった。オイルサーディンとシソを使って和風パスタ・コン・サルデを作ってくれたが絶品だった。親から習ったのかとぼくが聞いたら、彼氏が料理上手だったからよく一緒に教わって作ってたらしい。微笑ましい。
そしたら成沢が空気を読まずに、その彼はどうなったのかと聞いた。答えは沈黙だった。その沈黙を破ったのは、ぼくでも成沢でも太田君でもなかった。
外だ。どうやらこのマンションの下の階に生存者がいたらしい。気づかなかった。下に誰かいるの知ってたか?と、ぼくがみんなをソファから見回して聞いたが、全員知らなかった。
誰かいませんかーいたら返事をくださーいとか叫んでる。若い男だ。高校生か? 馬場ちゃんが返事しますかとぼくに聞いてきた。
正直、今でさえ本心では全員出てってほしいというのに、これ以上僕のサンクチュアリに人を踏み込ませたくないし、若者なら僕の顔を知らないはずはないからきっと面倒なことになるだろう。
今は疑心暗鬼でいるべきだ。今の子がどんな人間か分かったもんじゃないからなとぼくは言って、あまり飲まないハイボールを飲んだが、ハイボールって生で飲んだら喉が焼けるように痛むんだな。
シャワーを浴びたら、変なことに水が薄く赤みがさしている。口に含んだらほんのり血生臭くて吐き出してしまった。おおよそ何が起きたのか察しはつくが。男たるもの常に清潔でいなくてはな。特に女の前では。
この薄気味悪い水でパスタを茹でたんだろうか。まぁ腹を壊したりは誰もしてないし、問題はないか。
***
どうもここ最近外出はしないのにやたら疲れる。生活の張りがなくなっても、ストレスの元となることは多い。
太田君と前田ちゃんが夜中に男女の営みをしていることは大体察しがついていて、それに感化されて色んなカップリングが成立している。いや、そんなピュアなものではなくもっと爛れた見苦しいものだ。
まぁ人である以上性欲を切り離して考えることは不可能なんだし、それは仕方ない。しかし、僕のベッドを無断で使われるのは流石に腹が立つ。ソファでも浴室でもぼくの了解を得ずにやられると腹が立つ。
そして、情けないことにぼく自身も真夜中に成沢に誘惑にされてしまって、ほぼ未成年のような歳の女子に手を出してしまった。
性欲というのは食欲のようにただ腹に入れば何でもいいというわけでなく、一度最上級の女を味わったら、もうそれ以下の女には惹かれなくなるから恐ろしい。成沢はかわいいと言われ慣れたその中身は醜いが、容姿はとても綺麗だった。
しかし、ぼくらが肉体関係を結んでいること自体は全員が気づいていたが、互いに口に出すのは禁句だった。言えばそれは秩序の崩壊の危険性を孕んでいた。
ただでさえみんないつ来るか分からない救助を待ち続けて、自分を抑えているのだから。
今までは酒なんてほとんど飲まなかったのに、最近はこれがないとあまり眠れない。コンドームが尽きたらどうしよう……。
***
真冬で窓を開放しているのに妙に体が熱い。しかし、こうして英語で日記を書いているわけだから思考を澄んでいる。
ぼくだけでなく、全員が不思議な暑さを感じていた。中澤とか前田ちゃんとかは服の第二ボタンまでを外すくらいに留めていたが、成沢だけはよほど熱いようで、はしたなくも上はブラジャーだけになっていた。
中澤がみっともないからTシャツだけでも着なよと言ったが、本当に暑くて仕方ないと言って汗を拭った。でも、ぼくら全員発汗などは少しもなかった。
ふと、成沢が鍋に水を貯めてそれをベランダに持っていった。そうして空箱やら衣類やらを持ち出してきて、それを敷いて上に鍋を置くと、どこで手に入れたのかマッチを擦って、ティッシュの空箱の中に放り投げた。
湯を沸かす気らしい。数日前からガスが使えなくなったからだ。しかし、素人がバルコニーで焚火を始めるなど正気の沙汰ではない。ぼくは慌てて火を踏み消した。
お湯で体を洗いたいのに何するんですかと成沢は言ったが、ぼくは憤然と家を燃やす気かと言った。湯が欲しいなら電気はまだ生きているからチンして作れとも言った。
しかし、成沢は電気もいずれ使えなくなるから今の内に火の起こし方を知りたいし、レンジじゃ生温くて嫌だと言って食い下がり、再びマッチを擦ろうとした。
なんてわがままなんだ。ぼくは手荒でもそれを止めようと彼女の手首を掴んだら、マッチの火が手首に触れて火傷をした。それについカッとなって、僕は成沢を殴ってしまった。
成沢は口の中をひどく切ったようで、赤い血をぽたぽたと垂らしていた。しかし、それ以上の大粒の涙を流して呻くように泣いた。
生まれて初めて女の顔面を殴った。これがぼくの本性なのだろうか。昨日抱いた女に暴力を振るえた自分のことが信じられず、思わずぼくも声を漏らした。
ぼくは演技以外では初めて土下座をして成沢に謝ったが、うずくまって泣き伏せる彼女は何も言わず泣き続けるだけで、冷ややかな目で家の中から中澤達がそれを見ていた。
嫌な日だ。実に。




