橋爪翔介の手記 前編
今日のドラマの撮影はリテイクは少なかったのに妙に長引いた。ただでさえNHDはビルから出るのに時間がかかるというのに勘弁してほしい。
どうでもいいけど、あの成沢蓮香って今年に入ってからやたら名前を聞くようになったグラドル上がりの娘、今日初めて会話したけど随分と天狗になっている。
すぐ横にあるウォーターサーバーの水をわざわざADに汲みに行かせるのはどうなんだ。いくら顔が良くてもああいう娘は嫌いだし、あの態度を週刊誌が嗅ぎつけたら、風の前の塵のようにすぐに消えるだろう。
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朝、嫌なことがあった。車でスタジオまで向かう途中で車に変な男がぶつかってきた。
おかげでのぼくのマセラティのボディが凹んでしまった。警察には通報したが、腹が立って仕方がない。
しかし、ぶつかってきた男の顔つきは凄まじかった。ああいう表情が演技でもできたらなぁ。まぁ演技以外でできたら狂人そのものなんだろうが。
とにかく、こういうのが有名税ってものなのか。全く人気俳優は辛いな。帰りに憂さ晴らしにうなぎを食べに行った。
だが、やはり夜遅くはこういう脂っこいものよりシーザーサラダとかさっぱりしたものが食いたいね。この日記を書いてる時も腹の調子が悪い。自分から食いに行ったくせに変な野郎だ。
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今日は朝のワイドショーにゲスト出演する日なので、まだ薄暗い4時に起きるハメになった。
大学生の頃の1時に寝て1時に起きていた時が懐かしい。
車内でラジオを聞いていると、どうも最近、都内各地で狂乱状態になった人が何人も出てきているらしい。
その錯乱っぷりはもの凄くて、荒川区では警官に射殺された人もいるほどだとか。
海外からとんでもなく危険な薬物でも流れ込んできたんだろうか?
この前、事務所の大先輩の斎藤さんが大麻で捕まった時は、何故か僕までとばっちりで警察に事情聴取されてひどい目に遭った。
連日ニュースになったが、事務所は斎藤さんの契約を切ることはせず、ほとぼりが冷めるまで芸能活動を自粛させるだけで収める腹心算らしい。
判決も執行猶予付きだったし、芸能界、ひいては日本はシャブに甘いってのは本当だな。
しかし、あの司会のアナウンサー、いくらぼくより30は上だからってゲストにタメ口ってひどくないか? ぼくが生まれる前に痴漢で捕まったことあるの知ってるぞテメー。
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今日、日本科学未来館で行われる予定だったロケが急遽中止になった。どうも、この前から大騒ぎの至る箇所で現れている精神異常者が関係しているらしい。
マネージャーの太田君の話では、ソイツらは警察が銃を向けても全く怯えずに近寄ってきて、噛みつかれたら最後、自分も異常者になってしまうらしい。
当分屋外の撮影は控えるようにとテレビ局サイドも言ってるし、自宅待機を申し付けられるのも時間の問題の気がしてきた。
全く勘弁してほしい。嫌な世の中になったものだ。太田君の話を聞いたら怖くて駐車場にもいけなくなったじゃないか。
今、外で奇声が聞こえたけど、それが関係しているのだろうか。
マッサージの予約したけど、怖くて行けそうにない。区役所から夜間外出と密集した場に行くことはは控えるようにと、警告のアナウンスが流されている。
現在23時だから、このうるさいアナウンスを放送した人はすでに夜間に外にいるわけだが、そこのところはどうなんだろうか。
何だか無性に人肌が恋しくなってきた。人気俳優になったら女を切らすことはないと思っていたけど、とんだ期待外れだった。ファンに手を出すわけにもいかないし築いたイメージがあるからソープにも行けない。
明日も仕事だが、一体どうなることだろうか。ナイフを持ってスタジオまで行こうか本気で迷っている。
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マジで面倒なことになった。今日というか昨日だが、撮影が終わってスタジオから出ようとした時に、警備員が1階で不審者が大勢暴れているといって青い顔でやってきたことが始まりだった。
ただ不審者が暴れているというだけなら、わざわざぼくらに伝える必要はない。それほど、警備員だけではどうにもできないくらい仰山いるということだった。
藍色の制服だから見えにくかったが、警備員の服には血痕らしきシミもあった。
流石にテレビ局なのでセキュリティは万全で、1階の階段前と出入口ではシャッターが下ろされているそうだが、それでは僕らも帰れない。エレベーターも止めてしまったという。
だから、僕らは社員専用の、しかもそうそう使わないという自販機すら運べる業務用のエレベーターを用いて、駐車場まで連れていかれることなった。
もちろん中にはタクシーや電車で来てる人もいるから、そういう人は誰かの車に乗せてもらえばいい。
正直なことを言うと、警備員を始めテレビ局職員連中と同じように今日はテレビ局にお泊りでも構わなかったというかその方がよかったのに、例の成沢が明日は試写会の登壇があるから帰らせろと喚くので、俳優達は手を尽くして帰らせることとなった。
別に試写会の舞台挨拶なんて、仮に欠席しても多忙だからの一言でお客様も納得するだろうに、本音は風呂入りたいとかだろうな。
そんでもって、今その成沢蓮香がなぜかぼくの家にいる。
簡単な話だ。ぼくの車は業務用エレベーターのドアが開いたすぐ近くにあり、駐車場にはすでに正気を失った方々が何人かいて、自分らの車を取りに行くのも危険すぎるので僕の車にみんなが慌てて避難することとなった。
それだけ。
だって、僕だけ一人共演者を置いて帰るわけにもいかないだろ? 今後の仕事に悪影響を及ぼす。たまには功徳を積むのもいいだろうと思って諦めるしかない。
乗り込んだのは僕と太田君と成沢と事務所の後輩の中澤と、あとは倉鳥と馬場と前田っていう、知名度はあるけど芸歴の浅いまだ女子高生のアイドル達だ。計7人。
愛車を修理に出してる間にレンタルしていたのが、大型ワゴン車のアルファードだったのは僥倖だった。
他にもスタジオには新実さんとかいたはずだが、彼らは無事なんだろうか。まぁスタジオに引きこもった方が安全だとは思う。
他にも書きたいことは山ほどあるが、とりあえず今6人が僕の家にいる。外の惨状を見て、各々が各自の家に帰ることは難しいと悟ったからだ。成沢もそこは理解してくれた。
何人か僕も慌てていたから轢いてしまって、そのまま逃げてしまった。あとで訴えられたらどうしよう。いや、走る車の前に飛び出した方が悪いのだ。
車も、駐車場に停める暇がないのでエントランス前に置きっぱなしだ。エレベーターを呼んでから家に入るまでが、これまでの人生で一番緊張して吐きそうだった。
しかし、こんな映画の世界のような光景が現実に起こり得るものなのか。全く貴重な体験をさせてくれるものだ。
大丈夫だ。明日には万事元通りになっているはずだ。テレビはちゃんと今深夜アニメやバラエティを放送してるじゃないか。




